雑貨屋ウィークリー1404号

雑貨屋のひとり言「大谷翔平はエンジェル」

WBCが終わってから半月以上経ちますが、大谷翔平を中心とするWBCに関する話題が毎日のように語られています。WBCで侍ジャパンがものすごいインパクトを与えたということです。この現象はまだまだ続きそうです。私がロスにいたころディズニーランドにはよく行きましたが、その近くにあったエンジェルススタジアムに行ったのは1回か2回しかありません。弱いチームだったこともあってスタジアムの外も中も閑散としていたのを覚えてます。それが今は、エンジェルススタジアムには大谷翔平のファンがたくさん来場し賑わっていますし、グッズもものすごい売れ行きのようです。ロスアンゼルスエンジェルスにとっては大谷翔平が幸運を運ぶエンジェルの存在になったということですね。世の中のほとんどの人が懐疑的に見ていた大谷翔平の二刀流を認めたロサンゼルスエンジェルスに運があったのだと思います。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川  柳)

七坂を越えその先の男坂

ハイテクについて行けない年の功

受け継いだ職ロボットに引き継がれ

マイペースもう尻馬で舞いはせぬ

年金に感謝丈夫になお感謝

(ニュースひとりよがり)

  「退任会見」 

いまいち冴えない ―黒田節

 「起訴」 

吉か凶か ―トランプ占い

「ミサイル続々」

煮ても焼いても食えない ―日本海の魚

河合成近

龍翁余話(776)「東京ディズニーランド開園“秘話”」

翁が、初めて(後にも先にも1回だけ)米国ディズニーランド(元祖ディズニーランド=カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のアナハイム市))へ行ったのは1980年(昭和55年)の夏だった。その5年前の1975年には、国賓として米国を訪問された昭和天皇・皇后両陛下も訪園されている。その時のテレビ報道(映像)を視て、ディズニーランドを楽しまれる昭和天皇・皇后両陛下のご健勝ぶりに安堵したものだ。翁は取材を兼ねての訪園だったが、とてつもない広大な面積と言い、多種多様なアトラクションと言い、入園者へのマナーとサービスと言い、それはもう圧倒されっ放しの“別世界”だったことを今も思い出す。

その頃、日本でも『東京ディズニーランド』開園準備(工事)が着々と進められていた。と言うより、もっと以前から(具体的には)1974年(昭和49年)8月に千葉県が浦安町(当時)に『オリエントランド』の遊園地計画を承認。1977年(昭和52年)3月には『東京ディズニーランド』が正式名称として決定、1979年(昭和54年)にウオルト・ディズニー・プロダクションズ(当時)と最終契約締結。1981年(昭和56年)4月の市政改革で、それまで千葉県東葛飾郡浦安町だった浦安が浦安市となり、同時に『東京ディズニーランド』の建設工事が本格化(急ピッチで進められ)、1982年9月には(『東京ディズニーランドのシンボル』シンデレラ城の先端の塔が完成、同年12月29日に『東京ディズニーランド』建設工事が完了、同年31日23時45分から翌日(1983年元日)の午前1時までの民放テレビ番組(99局のネット放送)『ゆく年くる年』で取り上げられ視聴者の期待を煽った。そして4月15日、遂に(アメリカ国外で初の「ディズニー・テーマパーク」)『東京ディズニーランド』が開園した。当時の記録によると、開園当日の入園者数は2万5000人だったが、翌月の5月23日までに100万人が来園、5か月後の9月5日までに500万人、83年度末までの来園者数は約1000万人に達したと言う。

さて、その頃、翁は再三アメリカへ行き多くの友人(アメリカ人・日系人)たちと出会うことが出来たが、その中の1人、アメリカ黒人の人権と社会的地位を向上させる運動をしておられた(アトランタ市に住む)田尻さんと言う老人とは特に親しくお付き合いをさせていただき、アメリカ国内の取材の際には大変お世話になった。その田尻さんのご紹介で『東京ディズニーランド』を経営する「オリエンタルランド」(京成グループの企業)社長の高橋政知氏にお会いする機会を得た。(田尻さんと高橋氏は大学時代の先輩・後輩の関係だったらしい。)翁が高橋氏を訪ねたのは(翁が米国ディズニーランドに行った2年後の)1982年の春だった。車で浦安のどこをどう辿って行ったか記憶にないが、あちこちで工事が行なわれており、多くの工事関係者やブルドーザーなどの建設機械が慌ただしく動き回っている片隅の(失礼ながら)お粗末な工事事務所であったことを覚えている。“社長”と言うから、パリッとしたスーツ姿で、と想像していたが、何と工事現場監督風の、日焼けした赤ら顔の巨漢。翁、名刺交換の時“本当にこの人が社長?”といぶかったが、話し合っているうちに高橋氏の気取らない、それでいて豪放磊落(ごうほうらいらく=大きな心で小さなことにこだわらない)人柄に、翁は次第に魅了されて行ったものだ。4月15日の『東京ディズニーランド開園記念日』に際し、今、翁は高橋政知氏が語った『知られざる東京ディズニーランド開園”秘話”』(の1部)を思い出している――(以下の登場人物の敬称は略させていただく)

高橋政知(1913年~2000年)は、戦後、某石油販売会社の役員をしていた。その頃、三井不動産の取締役業務部長だった江戸英雄(のち、三井不動産社長)と出会い、㈱オリエンタルランドを紹介され1951年(昭和36年)に取締役専務として入社。当時、オリエンタルランド社長(初代)の川崎千春(1903年~1991年、京成電鉄第5代社長)は、異常なほど日本に“ディズニーパーク”を造りたいとの願望に駆られ、誘致の中心となって奔走した1人。しかし、ディズニー社側との交渉はうまくいかず、川崎のイライラはつのる一方。そんな中、オイルショックの煽りや京成電鉄が乗り入れを予定していた成田空港が地元住民による反対運動で開港が延期となった影響で親会社である京成電鉄の経営が傾き始め、融資していた銀行からの圧力もあって(川崎は)本業である鉄道事業に専念することとなり、代わりに高橋が社長に就任した。が、高橋にとっては順風満帆の(社長業)スタートではなかった。高橋は、川崎に比べ最初はディズニーランドへの思い入れはそれほど深くなかったし高橋自身「俺の仕事は県の許可を取ること、埋め立て事業を成功させること、それが済めば俺の社長業も終わりだ。ディズニーランドは俺の仕事ではない」と言う気持ちが強かったそうだ。しかし、先代社長の川崎の(ディズニーランド建設の)熱い思いを聞かされるうち、また、埋め立て事業を通して浦安への愛着心が芽生え「よし、それならば」と言うことで千葉県知事や議会、地元漁業組合、米国ディズニーランド社との、それぞれの交渉を繰り返し粘り強く重ねた結果、「何とか(先代社長の)夢が叶えられるまでにこぎつけました」1982年の春、翁が高橋氏と面会した時の高橋氏の述懐である。

その後、翁が『東京ディズニーランド』関係者から聞いた話によると、当初の総事業費は1000億円を予定していたが、結果は1800億円まで膨れ上がったそうだ。しかし高橋氏は

「金に糸目は付けない。あくまでも本物を造れ、出来上がりが貧弱ならオリエンタルランド社だけでなく、千葉県だけでなく、日本国の恥であると思え」とスタッフを鼓舞激励、

1983年4月15日、2万5000人の入園客を迎え、遂に”グランドオープニングセレモニー”が催された。1958年に川崎千春氏(初代オリエンタルランド社長)が『ディズニーランド』に出会い「是非、日本に誘致を」と情熱を燃やして以来25年、オープニングセレモニーに

参列した川崎氏、長年の夢が叶った喜びを隠せず目に涙。勿論”川崎氏の夢”を成し遂げた高橋氏の感慨もいかばかりであったろうか――4月15日『東京ディズニーランド開園記念日』に際し”秘話”の一席この辺で・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「桜の花が散る前に」

最近、お彼岸やお盆は混雑を避けてそのあたりの前後、平日に行くようにしている。埼玉から東京と何度も車で往復する弟にとっても私達にも渋滞の時間が省けてのんびり行けるからいい。今回のお墓参りは3月下旬、ちょうど桜が満開の時期に訪れる事が出来た。お天気にも恵まれ小春日和の静かで穏やかな日だった。せっかくだからと弟は、いつものコースと違う桜が咲いている道を走ってくれた。車窓から眺める桜は淡い桜色とビビットな黄色い菜の花とのコントラストが鮮やで綺麗だった。そして気が付けばあっという間に4月に突入。4月10日までの青春18きっぷの期限が迫っていた。そこで急いで桜の花が散る前に日帰りで東京付近のどこかに行こうと3日連続で平日に出かける事にした。

まずは静岡県東部にある三島に出かけた。三島は初めてと思っていたら数年前にスカイウォーク(富士山が見える日本最長のつり橋)をめがけてそれだけの為に来た事を思い出した。それで今回は三島駅付近を散策してみる事にした。三島駅前にある楽寿園の公園は色とりどりの花が咲いていて綺麗だったので入園してみたかったけれど残念ながら月曜日はミュージアムや記念館は休みが多く、ここもお休みで入園する事は出来なかった。それでも町の歩道には桜や花が色とりどり咲いていて散策しながら15分程度で三島大社に立ち寄る事も出来た。駅前からは、観光地に行けるバスもたくさん出ていて車が無くても移動は便利そうだ。富士山や伊豆方面、御殿場など、ここを中心に数日観光するのには良さそうだ。

そう言えば駅に向かって町中を歩いている時に突然、目の前に富士山が現れた。三島から、こんな近くに富士山が見えてびっくり。帰りの電車から富士山の写真を撮っていたら隣に座った女性が ” 今日は本当に富士山が良く見えて綺麗でしたね ”と話しかけてきた。聞くと昔は富士山が見える静岡に住んでいて毎朝あたりまえに富士山が見える日常だったらしい。ご結婚をされてから長崎に引っ越され長崎からは富士山が見えないので寂しくなったらしい。久しぶりに実家に帰ってきて富士山を見たら懐かしくて心が躍ったらしい。何年経っても長崎には慣れなくて静岡に帰りたいという気持ちが募るらしい。故郷を思う気持ちが、こちらにも伝わって来た。たまに見る富士山でも、日本人にとってその存在感は大きいのだから、その人にとって富士山はもっと特別な存在なのだろうと思う。

そして翌日の火曜日は今回2度目になる千葉の北の方にある水郷の町、小江戸と呼ばれる佐原を訪れた。前回訪れた時は月曜日で閉まっていたミュージアムを訪れたかったからだ。まずは伊能忠敬の記念館と旧宅。この伊能氏は江戸時代、日本国中を測量して初めて日本地図を完成させた偉人。ここで歴史に疎い私はシーボルト事件(日本地図など日本の大事な情報をこっそりオランダへ持ち出す事に協力した役人や門人が処罰された)を知った。いつの時代にもお金やハニートラップにひっかかる売国奴はいるものだ。でも今は処罰する法律がないので今の日本はもっと深刻かもしれない、、、、

もう一つ前回、閉まっていた佐原山車会館も訪れた。お祭りの時に山車の上に飾られる大きな人形の実物を見たかったのだ。人形は神話や歴史上の人物が山車に載せられ秋には15台、夏には10台登場するらしい。これはユネスコ無形文化遺産にも登録されていそうで山車の上に飾られる大人形5メートル、山車も入れると9メートルになり大きさは日本1なのだそうだ。2階の展示場からもこの大人形は見られるようになっていて実際、山車の人形を目の前にすると迫力があった。

その翌日水曜日は友人と青春18きっぷを2人で使い群馬県の桐生へ出かけた。桐生も富岡製糸場と同様、絹や染物の歴史が長く有名らしい。町並みも明治、大正時代のレトロな雰囲気がある建物が多く歩いているだけで楽しい。それにしても桐生までの往復電車に乗っていた時間は5時間半。普通は長く感じる時間でも友人とおしゃべりしていれば、あっという間に時間は過ぎた。桐生名物のひもかわうどんでランチしてから桐生織物記念館などを見てまた東京に向かった。忙しい3日間だったけれど桜が散る前に存分に桜を堪能させてもらった3日間だった。やっぱり旅はいい。

スパイス研究家 茶子

ジャズライフ Triosence “Away for a While”

一人で出かける時に音楽を聴くことがあります。WiFiを使わずスマホのデータ通信でハイレゾ音楽を聴くと通信データをかなり消費することになります。アルバム1枚分(40分)で960MBになるので、スマホで契約しているデータプランが小さいとすぐにデータプランをオーバーしてしまいます。これを知らずにハイレゾ音源で聴いてデータプランに達すると通信データ速度が128kbpsに落とされ、翌月までスマホが使い物にならなくなります。ストリーミング設定で品質を制限してデータの消費を防ぐ方法があるので設定を変えておくことをお勧めします。この設定にすれば1時間の再生で約8MBで済みます。ただしハイレゾ用のDACやイヤフォンを使っても高音質では聴けません。私はスマホ(サブのスマホ)にお気に入りの楽曲をWi-Fi接続時にAmazon Musicからダウンロードしておき、それをオフライン再生して聴くことにしています。《R.O.》

今週の紹介アルバムはドイツのジャズトリオTriosenceが2019年にリリースした“Away for a While”です。独自の音楽スタイルで知られており、クラシック音楽、ポップス、そしてジャズの要素を組み合わせた音楽になっています。軽快なリズムでさわやかな感じの音なので聴きやすいジャズです。

今週のアルバムTriosence “Away for a While”

01. My Best Friend 
02. Together
03. Maybe There’s A Princess Waiting 
04. Dream Of Dancing  
05. When Time Stands Still   
06. Visit Home 
07. You’re My Spring  
08. Be. Hardi-hood Blues  
09. Only One Evening  
10. Falling Grace  
11. Springville   
12. My One And Only Love

Bernhard Schuler- Piano
Pascal Niggenkemper- Bass
Stephan Emig- Drums

編集後記「人と自転車に優しい道路?」

私が時々行く、皮膚科クリニックがある前の道路は、道幅が広くきれいに整備されているのですが、車道は両側1車線ずつしかありません。それは自転車専用のラインがあるからです。それも両側に2本ずつ(⇆往復)あります。歩道もしっかり幅をとっているので歩行者や自転車に優しい道路になっています。ただこの道路は数百メートルの区間だけで中途半端な状態です。バス路線でもある道路なので通勤時間帯は自動車はこの区間で渋滞しているようです。理想的に見える道路ですが、ここまでやる必要があったのかと疑問に思っています。《R.O.》

コメント