雑貨屋ウィークリー1436号

雑貨屋のひとり言「24時間営業の無人古着店」

近所の商店街は十数年前からシャッター街になっていたのですがよく観察すると少しづつ変化して来ていることに気づきます。今年の夏、商店街にあった和菓子のチェーン店が閉店し、またかと思っていたら、そのあとに24時間営業の無人の古着屋が開店しました。古着屋は近所に2店ありましたが、無人の24時間営業は初めて見ました。どんな古着が売られているのか興味があったので、店の中に入ってみました。店内はそんなに広くないですが所狭しと古着が並べられていました。女性用がほとんどで男性用も少しありました。個性的な服もあり値段もリーズナブルでした。無人の24時間営業で商売が成り立つのか注目しています。別の日に店の横を通ったらお客がいて古着を買っていました。24時間営業の無人古着屋がもう一店近くにもあることにも気づきました。シャッター街に塾なども増えてきました。シャッター商店街を有効活用して街を再生して価値を高めてほしいと思っています。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳  )

ミサイルの悲劇昨日のビルが消え

人道回路 夢も希望もない嘆き

難民の声神様に補聴器を

戦勝のニュースの裏の血と涙

立ち尽くし無力を嘆く不戦の碑

(ニュースひとりよがり)

「握手」

台湾海峡をはさんで — 米中首脳

「日中首脳会談」

フミオ・チンピンにはなれなかった — 岸田首相 

「日米首脳会談」

軍事費を言われてもねえ — 赤字国債

河合成近

龍翁余話(808)「日本の食料自給率を考える」

11月23日は『勤労感謝の日』である。2年前の2021年11月20日に配信した『龍翁余話』(705)「感謝祭の思い出」の冒頭を引用する――(『勤労感謝の日』の)趣旨は「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝し合う日」とある。1948年(昭和23年)の制定までは『新嘗祭』(にいなめさい)と言う祭事が行なわれていた。日本では古くから各地で五穀の収穫を祝う風習があった。この『新嘗祭』は、天皇がその年に収穫された新穀などを神々に供えて感謝の奉告を行ない、天皇自らも食する儀式(宮中祭祀の1つ)である。始まりは(定かではないが)各種文献によると奈良時代(710年~794年)から行なわれていたと言う説が有力だ。明治新政府は「五穀豊穣(ごこくほうじょう=米・麦・アワ・豆・キビの五穀の豊作)を宮中も国民も共に喜び感謝し合おう」と言うことで1874年(明治7年)に11月23日を『新嘗祭』(祝日)と決めた。翁の子どもの頃、我が家の(新嘗祭の日の)朝食は、新米のご飯を神棚や仏壇に供え、家族そろってお祈りし食卓に向かうと「お百姓さん、ありがとう、いただきます」と言って(親に言わされて)食したものだ。そのせいか、翁は現在もなお第一次産業(農・林・酪・漁)従事者への感謝の気持ちが強い。

さて翁、『勤労感謝の日』を迎えるたびに『日本の食料自給率』の低さを懸念させられる。『日本の食料自給率』とは、言うまでもなく国内で消費された食料のうち国産の占める割合のことである。農林水産省の発表によると、2022年度の自給率はカロリーベースで38%、生産額ベースで58%(カロリーベースとはその名の通り国民1人当たりの1日の摂取カロリーのうち国産品が占める割合。生産額ベースとは国民に供給される食料の生産額に対する国内生産の割合)。世界的に見るとカロリーベースは53位、生産額ベースは29位、何故、こんなに低いのか、一言で言えば戦後の農業政策の失敗、と翁は断言したいのだが、もちろん、政治のせいばかりではない複雑な要因が重なり合っていることも事実である。そこで今号は『勤労感謝の日』を迎えるに際し『日本の食料自給率』を考えてみたい。

「日本の食料の自給率が低い」と言っても、実は米や野菜などは国内でほぼ自給されているそうだ。では何故、全体的に自給率が低いのか、それは肉・乳製品、小麦、大豆、飼料用穀物、油脂類、砂糖類、デンプン類などはほとんどが輸入、つまり現代の日本人が好む(食べる)食糧は大幅に輸入に頼っているからだ。これは現代人の嗜好の変化ばかりでなく日本の気候や土壌、地形などの自然条件のほか農業生産のコストや競争力などの経済条件にも左右されるし、末端の価格感覚も影響する。例えば、国産の肉や乳製品は輸入品より高い場合があるので消費者はどうしても安めの輸入品を選ぶようになる。

翁は(前述)“農政の失敗”と言った。(政府は)「国民が常に充分な量と質の食糧を確保しなければならない」との理念に基づき“食糧の輸入”に積極的に取り組んできた。それはそれで重要政策の一面ではあるが、そのことに重きを置き過ぎて国内の農地・森林を軽視、従業者の支援(保護)と後継者の育成を怠った。日本の農業は1960年代に“3ちゃん農業”に入った。“3ちゃん農業“とは農家の働き手である男性や若者が出稼ぎに出たり農業以外の職業に従事したりして、結局、農業は爺ちゃん・婆ちゃん・母ちゃんで営むことになった。当時の池田内閣の所得倍増計画が走り過ぎて農村人口の減少と農業の衰退が顕著になったが、政府は”高度経済成長“に目を奪われ農林漁業への政策をおろそかにした、その延長線上に現在の”農地・森林の荒れ“”農業・林業従事者の減少“がある、と言っても過言ではない。

食糧の約6割を輸入に頼っている日本は世界で最も食糧輸入依存度の高い国の1つである。確かに”食糧安全保障“の見地から”輸入政策“は重要ではあるが”輸入“に頼り過ぎることは食料自給率を低下させるだけでなく、他国(輸出国)との関係や国際市場の動向に左右されるリスクも生じる。例えば、輸出国が収穫不振や政治的理由で輸出制限をしたり国際価格が急騰したりして日本の食糧確保が困難になる危険性もある。国際価格が急騰すれば日本は食料費用に多くの外貨を支払わなければならず、また消費者も食料品価格の上昇に直面させられる。そのような状況は今までも、現在も現実に起きている。また、輸入された食糧の安全性や品質に問題が生じることも少なくない。翁は(果物を除く)食料に限っては(注意深くチェック)”国産”しか買わないようにしている。

さて、『日本の食料自給率』を高めるにはどうしたらいいのだろうか?こんな重大事は翁のような小国民が悩んでも仕方のないこと(政治家が考えること)だが――「食糧安全保障」や「正常な国際関係」の面からこれまでの(長い間の)“食糧輸入政策”を一挙に変更する訳にもいかないが(常識論として)「日本人が消費する食糧と日本が生産する食糧のバランスを一致させることが基本」であろう。つまり消費者としては国産食糧への需要を高めることが必要である、と言うことだろう。そのためには役所や農業関係団体が、国産食材を使ったレシピやメニューの開発、啓蒙活動と同時に適正価格の設定など、消費者に国産食材の価値・安全性・経済性への理解を求める活動を積極的に行なうべきである。一方、生産者としては消費者のニーズに対応出来るノウハウと環境整備が必要である。例えば、肉や乳製品などの畜産物や加工品を増産したり小麦や大豆などの穀物を多品目栽培したり、新しい品種や技術を開発したり・・・そのための農地改良・農業従事者の確保と育成、要するに“魅力ある農業への展望”――それは全て政治が為すべき“国家事業”である。

翁は思う「令和の二宮金次郎(尊徳)が出て来ないものか」――尊徳は「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」「利を得て徳に報いる」「積小為大」(小を積んで大を為す)と言い、更に「五常講」(儒教の仁・義・礼・智・信)を説いた。「農業百年の計は二宮尊徳哲学にあり」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「久しぶりのサンペドロハイキング」

2021年のクリスマスから2年近くになるだろうか、、、、
久しぶりに懐かしいサンペドロのイブニングハイキングに参加した。数人の新しいメンバー以外はお馴染みのメンバーだったので皆んなが声をかけてくれた。特にイタリアの今年93歳になるボランティアリーダーのL氏は子供のようにはしゃいで喜んでくれた。新しいボートを買ったので是非、見に来て欲しいと、、、
L氏はコロナ禍の中も休む事なく継続してサンペドロのハイキングを遂行してくれた。

殆どの人が家に篭り人と交流する事が極端に減り鬱気味になる人も多かったと思う。当然、外出が減れば足腰が弱くなり刺激もなくなる。第一楽しくないしストレスを発散しようにも家ばかりいたら精神的にも不健康だ。前代未聞の先が見えない流行病に人々は恐怖や不安を抱き暗い日々が延々と続いた。あの頃は、まるで色のないモノトーンの世界に佇んでいるようだった。そういう中で積極的に私たちを自然の中に連れ出してくれたL氏には、どれだけ皆んなが救われた事だろう。どんな事があっても怯む事なく前向きに明るく私たちを励ましてくれた。あの楽天的な性格は生まれ育ったナポリの気候のせいだろうか、、、お陰で季節の移り変わりを自然の中でいつもと同じように楽しむ事が出来た。

地上では相変わらず犯罪も起きているし、店の空き店舗も目に付く。そしてここLAもホームレスが増えている。コロナ禍では見かけなくなったポリスも今回は頻繁に見かけるようになったしサイレンの音も度々聞こえる。それでもやっぱり久しぶりに見るサンペドロの丘から見下ろす港や船や街の灯りは以前と変わらずキラキラ輝いていて下界の喧騒とは裏腹に平和な時間が流れている。

来週のハイキングのコースはL氏自慢の新しいボートが停泊している港の方までハイキングして集合場所まで戻ってくるコースを歩くのだそうだ。クリスマスボートパレードには新しいボートで皆を乗せてサンペドロの湾をひと回りさせてくれるそうだ。コロナ禍の前までは毎年L氏のボートでポットラックパーティを楽しんだ。音楽に合わせて踊ったりお喋りしたり、そういう場所をL氏は毎年提供してくれた。今回も残念ながらクリスマスボートパレードまではいられない。その事をL氏に告げると落胆した表情になった。それならばと来週、自分のボートまでハイキングしようと計画してくれたのだ。

戦前、戦後とサンペドロに住む多くの漁業を営む日本人の人達とL氏の家族は交流があったようで今でも彼らの名前を口にする。L氏の日本人に対する親しみと信頼関係は、どれだけ彼に影響を与えたのだろう。いつも、自分が子供の頃にお父さんと訪れた日本人街ターミナルアイランドの話を私に話してくれる。今は幻になってしまった町や親切にしてくれた日本人の人たちが彼の中では、まだ存在しているのだ。そういう日本の先人達が残してくれた功績に後から来た私のような日本人も恩恵を受ける事が出来て幸せだし有難い事だとつくづく思う。

スパイス研究家 茶子

ジャズライフ Bria Skonberg”Fresh”

今週はカナダのジャズトランペット奏者、ボーカリストのBria Skonbergのアルバムで”Fresh”です。軽快で楽しいジャズを聴いていると元気をもらえます。《R.O.》

1-Lovefool
2-Won’t You Come Out And Play
3-Just One Of Those Things
4-Come On-a My House
5-Beau Dirk
6-I’ll Never Be The Same
7-Almost Like Being In Love
8-Why Do Fools Fall In Love
9-Lucky Devil
10-L.O.V.E.
11-Meet Me In Your Dreams
12- Mercedes Benz

編集後記「毎日がスペシャル」

私の人生で大きな転換点となったのは北米に駐在した1982年だと思います。仕事も毎日の生活でも全てにおいて毎日が驚き(感動)の連続、変化(発見)の連続でした。驚きや変化が起こると鮮明に記憶に残るものです。そんなに知識もなく経験もなかった私はすべて興味深い情報として吸収しました。ですから北米にいたときの17年間のほとんどの場面を記憶しています。私にとって毎日がスペシャルの連続でした。そしてそれはずっと続いています。いつもと同じ生活をしていても少し角度を変えて観るだけで面白いことが発見できるからです。これからあと何年生きられるのかわかりませんが好奇心を持ち続けて「毎日がスペシャル」であるように生きたいと思います。《R.O.》

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