雑貨屋ウィークリー1337号

雑貨屋のひとり言「歳のせい?」

マスクをすることには慣れましたが、マスクをして話をするとどうしても声がこもって話の内容が聞き取りにくくなるので困ります。私が主催する会合は広い場所で席を大きく離して座っていますからマスクのまま大きい声で話す必要があります。出席者から意見を出してくれるのですが、その方の声が低い場合ちょっと聞きづらく聞き返すことがあります。私たち夫婦の買い物中の会話でも聞き返すことが多くなっているように思います。マスクのせいだと思いたいのですが、もしかしたら歳のせいで自分の聴力が落ちてきているのではないかと思ったりもします。《R.O.》

川柳(東京・成近)

(川 柳)

へー俺が米寿小僧っ子のままで

米寿ですハイ順調にボケてます

祝米寿十年日記贈られる

天国行きの切符にカネがまだ足りぬ

ギネスへと三十年のマイペース

( ニュースひとりよがり)

「自ら判断」

ジョーを裏切れない -フミオ

「大量廃棄の危機」

マスクは保存がきいていいな ―牛乳

「翔平、聡汰、〇〇」

いつか〇〇に王鵬の字を ―相撲ファン

河合成近

龍翁余話(710)「今年も感謝の1年だった」

翁、子どもの頃は“わがまま坊主”とか“ガキ大将”と言われていた。少年期から青年期にかけては(けっして自分さえ良ければいいという“利己主義”ではないが)“我在りて他在り”という“自己中心人間”になって行った。15歳で田舎(大分県)を離れ単身、神戸の叔父の家に下宿しての“遊学生活”(中学後半と高校卒業まで)――その時代、神戸はまだ進駐軍(アメリカ兵)がゴロゴロ街中を闊歩している“占領下の様相”だったし、ヤミ市・コソ泥・スリ・喧嘩は日常茶飯事、神戸を本拠地とし市民に脅威を撒き散らす暴力団・山口組の暗躍など、混沌たる世相の中で少年時代を過ごして来た翁、自然と“己れを守るのは己れしかない”という“独立独歩”の精神が、いつの間にか“自己中心人間”を形成して行ったのだろう。ましてや30歳で会社(映像プロダクション)を創設して以来、我が腕1本で弱小会社を経営(継続)して来た――それは苦しい、厳しい闘いの連続だった。でも“苦あれば何とやら”でどうにか会社は軌道に乗ってくれた。古希で後進に道を譲り(翁自身の映像制作)現役を退いてからというもの“己れを支援してくれた人々や、今も己れを支えてくれている人々”への思いが深まって来た。先ほど「己れを守るのは己れしかない」とか「我が腕1本で弱小会社を経営して来た」と述べたが、その“己れ”そのものが実は大勢の人々の支えによって生きさせて貰ったという理屈を(遅まきながら)実感することが出来るようになったのだ。但し田舎生まれで古い人間教育を受けて来た翁、若い頃から“他人に対する恩義や仁義”は、人一倍わきまえていたつもりだ。勿論、今も。

毎年、年末になると、感謝したい人が年毎に増える。経済事情悪化の中でも懸命に会社を守ってくれている(現在の)経営者・スタッフたちへの感謝、そして何よりもこの厳しい不況時にもかかわらず仕事を提供してくれているクライアント(スポンサー)への感謝、個人的には、我が儘いっぱいの翁に付き合ってくれているファミリーや旧友(親友)たちへの感謝、勿論、ゴルフ仲間たちへの感謝、翁の健康を支えてくれている医療関係者への感謝、そして拙文(『龍翁余話』)を掲載してくれている「ZAKKAYAWEEKLY」やお読みいただいている読者への感謝――あの人にもこの人にも「ありがとう」を言いたい年末である。

感謝の最大級の言葉は「ありがとう」である。「ありがとう」とは「有り難(がた)し」が語源。「有ること」が「難い(かたい)」つまり「滅多にない」「珍しく貴重だ」と言う意味だそうだ。翁は考える「有り難きこと」は何らかの“縁(えにし)”で結ばれている。自分に関わりのある人、あるいは自分に関わりのある事物、それらの存在は本来、「有ること」が「難しい」(無縁)であるかも知れないのに、何らかの作用(有縁)で自分との直接的・具体的関係が生まれている。それ自体が「珍しく貴重なもの」と思えば、自分と関わりのあるすべての人間・物・事象(物事や現象)に感謝の念を抱くことは至極当たり前のこと。

翁が若い頃、斎藤茂太(さいとうしげた=精神科医・随筆家、歌人・斎藤茂吉のご長男、平成18年没、享年90)先生をインタビューさせていただいた時の先生の“感謝論”を(翁)今でもしっかり記憶している「感謝する心は、人間社会の中で心穏やかに生きる最高の発明品。素敵な人間関係・夫婦関係を築くには“ありがとう”の一言があればよい」――

前述のように翁、若い頃は「事を成したるは己れの力、事を成し得ぬは己れの力不足」と“自己中心”でガムシャラに突っ走ったが、(これも前述のように)“恩義や仁義”の心は人一倍強かったから斎藤茂太先生の“感謝論”は実にすんなりと受け止めることが出来た。また、頻繁に海外を飛び回っていたせいか、自然と「Thank you」と言う言葉が身に着いた。日本語の「ありがとう」も外国人にけっこう通じた。人から「ありがとう」を言われた時、または自分が「ありがとう」を言ったあとの清々しさは例えようがない。「感謝の心有るところに幸有り、感謝の心無きところに幸無し」・・・誰の言葉だったかは忘れたが、確かにその通りだと思う。生涯で、どれだけ「ありがとう」と思えるか、言えるかが、その人の人生の幸福度を決めると言ってもいいかも知れない――と、さも悟りきったことを言っているが、正直なところ(顧みるに)翁が人や物、自然、先祖に対して心から「ありがとう」を言えるようになったのは(現役を退いた)古希あたりからだったように思う。

師走になると「この1年もありがとう」と感謝の意を表すツールの1つに“年賀状書き”がある。翁は八十路に入ってから年賀状を失礼させていただいているが、それにもかかわらず毎年、年賀状を送ってくれる友人が数人いる。同輩K氏(元大学教授・歴史学者)もその1人。翁とはもう40年来の親友だ。歴史好きな翁、“コロナ禍”以前は時々会食して彼から様々な歴史(知識)を教えて貰うのが楽しみだった。その彼からの今年の年賀状は「一期一会に感謝」であった。“一期一会”とは元々“茶道”に由来する言葉で「この茶会は一生に一度の出会いであるかも知れないから亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構え」すなわち「もしかしたら二度と会えないかもしれないという覚悟で相対せよ」という教訓だそうだ。勿論、その心構えも大切だが、翁は少し異なる解釈をしている。「普通なら出会うはずもないのに“会えた”と言うことは“縁”が有ったから――若い頃、台湾の友人から「有縁・没有縁」(縁が有るか、無いか)の本当の意味は「袖振り合っただけでは本当の縁ではない。有縁とは、お互いに心から信頼し合い、感謝し合える関係が長く続くこと」と教えられた。翁、今でも“有縁”を大切に考えているし、K氏も同意見だ。

さて『龍翁余話』、今号を以て2021年の書き納めとなる。今年10月には700号を迎え、感慨に浸ることが出来た。それも配信元『ZAKKAYA WEEKLY』(大阪・大西主幹)をはじめ読者各位のご支援のお陰である。ここに紙面を借りて各位に格別の感謝の意を表したい。そして、2022年が各位にとって更なる安寧とご多幸の年であることを祈念するとともに、来年もまた拙文とのお付き合いをお願い申し上げたい。『今年も感謝の1年であった』ことに、もう一度、感謝・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「一人ぼっちのクリスマスイブ」

クリスマスイブだと言うのに今私は和光市のある大学の寮に隔離されている。LAから23日の早朝、羽田に到着してたくさんの関所を潜り抜けてバスで護送されてここに来た。日本はコロナ対策に加えオミクロンで必死の水際対策に追われているから仕方がない。時には九州や名古屋まで連れて行かれる人達もいて政府の用意するホテルや施設の都合で最後の最後まで行先は告げられないままバスに乗せられるのだ。

23日の早朝は寒かったけれど澄んだ空気の向こうには雪をかぶった富士山が見えた。やっぱり富士山の姿形は美しく神々しい。そんな富士山をバスの窓から眺めながらバスに揺られて約1時間半、その間、運転手をはじめ誰もしゃべらない。皆どこに連れて行かれるのか一抹の不安を抱えているせいか緊張感が漂っていた。

年末に帰国してくる日本人は日増しに増えるばかりで受け入れ先も、てんてこ舞なのだろうと思う。こんな前代未聞の事態に遭遇して、それもクリスマスに、、、、もう、こうなったらこの珍しい体験を楽しむしかない。移動の交通費や宿泊、食事などは政府が持ってくれるので文句は言えない。弁当生活を楽しもう!と先にハワイから大阪に帰った友達からもメールが来ていた。外の世界から遮断されているので自分の世界に入って今日はクリスマスにちなんだ懐かしい曲をたくさん聞こうと思った。友人に坂本龍一さんの若い頃と熟年になってからの“戦場のクリスマス”の曲を送った。向こうからは山下達郎さんのクリスマスイブの曲を送ってきた。そして、また私からワムのラストクリスマスの曲を送り返した。クリスマスソングを聞いていて、その頃の時代の自分の状況を思い出したりしていた。音楽がタイムマシンのように自分を過去に連れて行ってその頃の情景を見せてくれた。こんな静かなクリスマスイブも珍しくていい体験だ。幸いネットが自由に使えるので母とも3度の食事の時間にスカイプのビデオチャットをしたり友人とメールやチャットで状況を伝えあったりしていて結構忙しく退屈する事は無い。部屋は一軒家より気密性が高いのか暖かく薄着でも寒くない。ここは5階なので窓から見下ろすと雑木林のトレイルが見える。たまには外の空気も吸いたいけれどベランダに出る事もダメなのだそうだ。昨日の朝からいつも飲むコーヒーが飲みたくなって持ってきたコーヒーの粉があるのを思い出した。しかしフィルターもコーンも無い。それで紙コップの底に穴をあけてマスクをフィルター代わりに試してみた。これは失敗。マスクはお湯も通さないのだ。それでたまたま2枚だけ持っていたペイパータオルを輪ゴムで紙コップに巻き付けて試したら、ま~ま~飲めた。明日26日はようやく出所出来る。ただし再度PCR検査があり陰性の人のみが羽田から自宅に公共の乗り物を使わない事が条件で帰れる。もし、陽性になった場合は、また他の収容所に送られるらしい。問題が無ければ明日、夜には弟が車で羽田に迎えに来てくれる。さて、後もう一泊。今日も一人ぼっちのクリスマスを楽しもう。

スパイス研究家 茶子

ジャズライフ  George Mraz “Jazz”

ジャズアルバムの紹介は2006年8月26日の雑貨屋ウィークリー537号から今日まで15年以上続けられています。毎週アルバムを探して紹介をするのはいずれ難しくなる日が来ると思ったことがありました。予想通りTSUTAYAでCDアルバムを探すことは限界がありました。その時にAmazon Prime Musicに出会うことになります。お陰様でたくさんの素晴らしいアーティストのアルバムに出会うことができました。音楽をサブスクライブするという新しいサービスが利用できていることに大変感謝しています。

今日ご紹介するのはジャズベース巨匠、チェコのベーシストであるGeorge Mrazというアーティストのアルバムですが、このコーナーでは初めて紹介します。ジャズ界の大物たちとコラボし、多くの作品を残した偉大なアーティストです。ジャズには欠かせないベースは全体のバランスを整えてくれます。残念ながらGeorge Mrazは今年9月16日に77歳で亡くなりました。《R.O.》

 George Mraz “Jazz”

1.Moonlight in Vermont
2.Cinema Paradiso Love Theme
3.Infant Eyes
4.Happy Saint
5.Foolish Door
6.Your Story
7.Spring Is Here
8.Pepper
9.Time Remembered
10.Peacocks, The
11.Cinema Paradiso (Reprise)

編集後記「iPhoneトラブル」

私のiPhoneXで最近起こったトラブルです。待ち受け画面が長男の名前と通話終了画面になったままになってしまいました。電話をかけた覚えがないのに勝手に長男に電話がかかるという現象も起きました。バグってると思い電源ボタンと音量のボタンを同時に長押してiPhoneを再起動しようとしても全くだめでした。ネットで調べ同じような問題の解決法を見つけ解決したのでその方法を紹介します。画面にAccessive Touchのボタンを表示させて、そのボタンで再起動させるやり方です。設定画面でアクセシビリティをONにします。タッチでAccessiveTouchをオンにし、次の画面でボタンを右スライドします。画面のどこかにぼやけた丸いアイコンが現れます。その丸いアイコンを押すと下記のような表示が現れ、そこに再起動の表示があるのでそれを押すと再起動ができます。もしこんなトラブルが起こったらやってみてください。《R.O.》

コメント