雑貨屋ウィークリー1470号

雑貨屋のひとり言「小さな親切」

先日、買い物帰りの高齢の女性が、ショッピングカートを押しながら階段に立ち止まっているのに気づきました。わずか6段の階段でしたが、彼女は一歩も動けずにいました。私は一瞬、何も感じずにその場を通り過ぎましたが、ふとした瞬間に彼女の困惑した様子が目に留まりました。振り返ってみると、彼女はまだ階段の最初の段に立ち尽くしていました。
私はすぐに彼女の元へ戻り、手を差し伸べました。カートを持ち上げると、少し重く感じましたが、一緒に階段を上り始めました。彼女は感謝の言葉を述べながら、私たちはゆっくりと階段を上りました。この出来事は、日常の中で見過ごされがちな小さな親切の大切さを思い出させてくれました。私自身も高齢になりつつありますが、まだ力を貸せることに感謝しています。これからも、できる限りの支援を続けていきたいと思います。こんな小さな行動でも、誰かの日常を少しでも楽にすることができるなら嬉しく思います。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )

解釈が両派で違う妥協案

勝者にもボデーブローの後遺症

頂点でかけがえのないブルータス

敵よりも怖い味方の裏の顔

呵々大笑二枚の舌を覗かせて

(ニュースひとりよがり)

「大統領選撤退せず」

本気かな、言い間違いかな —バイデン支持者

「都議補選2勝6敗」

支持率20%台を実感した —岸田首相

「川崎重工潜水艦疑惑」

水面下でもやってるな ー裏金議員

河合成近

龍翁余話(842)「内閣支持率、何故低い?」

言うまでもなく翁は、政治家でもなければ政治評論家でもない、単なる“野次馬”に過ぎないが、これまでに『龍翁余話』で何回もその“野次馬政治評”を行なって来た。振り返れば『龍翁余話』(ブログ・エッセイ)の開始が、小泉内閣が終わり、ちょうど第1次安倍内閣がスタートした時期(2006年~2007年)だった。しかし、翁の“野次馬政治評”は『龍翁余話』スタート以前からの『龍翁の独り言』と言う“気まぐれエッセイ”(不定期配信)から始まっていた。実は――翁は以前から自民党支持者である。2002年の夏頃から当時、小泉内閣の副官房長官だった安倍晋三のブレーンと“北朝鮮問題”で交流が始まり、以来、(安倍ブレーンを通して)“安倍支持者”になった翁、安倍が自民党幹事長(2003年9月)、内閣官房長官(2005年10月=第3時小泉内閣)、そして2006年9月に自民党総裁(第1次安倍内閣)時代も幾度か“安倍晋三への檄文“を書いた。病気を理由に第1次安倍内閣を放棄した際には、(個人的悔しさも加わって)かなり痛烈に批判した。その後、福田内閣(2007年~2008年)、麻生内閣(2008年~2009年)でも翁の“野次馬政治評”は続いた。いくら自民党支持者であっても、根っ子は“是々非々主義者”の翁、福田・麻生の不適切発言や軟弱にして不透明な内政・外交に対しては、かなり辛辣な批判を浴びせた。

その翁の“自民党批判”は、ひとり翁ばかりではなく多くの国民が“だらしない自民党”に辟易(へきえき=うんざり)していた証拠に2009年7月の衆議院解散、同年8月30日の選挙で自民党は大敗、民主党が(議席占有率64.2%)308議席を獲得、“民主党時代”を築くに至った。ところが鳩山・菅(かん)・野田と続く民主党政権の(内政・外交の)未熟さ、閣僚たちの資質の低さ、幼稚さに翁は腹を立て、こっぴどい批判(無能呼ばわり)をして、知り合いの民主党議員(幹部)から「ちょっとキツ過ぎる、手加減をして下さい」とクレームを付けられたこともあったのだが、これも翁の独断と偏見だけではなく、民主党に期待した国民もまた“寄せ集めの民主党”“頼りない民主党”に落胆し、さじを投げ、選挙民自身の“衆愚さ”を自覚させられた。結果、2012年11月16日に衆議院が解散、12月16日の第46回衆議院議員総選挙で民主党は大敗を喫し、再び自民党(自公連立)政権が成立した。第1次安倍内閣以来、毎年、1年単位で首相が交代していたので外国メディアから「Cabinet by Year」(1年ごとの内閣)と軽視され、国際的信頼は得られなかった。

日本が真に国際社会から高く評価され信頼されるようになったのは、2012年12月26日に発足した第2次安倍内閣からである。2020年9月16日の閣議で第4次安倍内閣が総辞職するまでの約7年8ヶ月、連続在職日数2822日の長期政権は、日本の憲政史上最長の記録であり、在職中に訪問した国や地域は80(延べ176の国や地域)、そのことによって国際社会に“美しい国ニッポン・信義に厚いニッポン・頼りになるニッポン”を認識させた功績は極めて大である。なお今年は、2022年(令和4年)7月8日、奈良市・近鉄大和西大寺駅前で参院選の応援演説中に凶弾に倒れてから丸2年、(“安倍支持者”だった)翁は、氏の偉大なる功績を偲びご冥福を祈りたい。

さて、安倍内閣のあと(暫定的な)菅内閣、次いで岸田内閣が誕生した(2021年10月)。当初の岸田内閣支持率は(某新聞社の調査では)60%前後を維持した。新型コロナウイルス対応では、安倍・菅両内閣とは異なり目立った失策はなかった。22年2月のロシアによるウクライナ侵略でも政府対応への評価は高かった。(前述の)某新聞は「岸田内閣の安定感は異例と言える」と報じた。そして翁は、岸田の(安倍政権時代の)外務大臣に培った外交術を高く評価した。去る4月12日に配信した『龍翁余話』(830)で「岸田首相の米議会上下院合同会議での英語スピーチは大成功。“日本の顔”として世界に通じるのは、今のところ岸田しかいないだろう」と褒め称えた。それなのに、現在の支持率の低下ぶりは目を覆うばかり。いったい何故そうなったのか――翁の独断と偏見で原因を探って見た。

“岸田批判”の始まりは(安倍氏被弾で発覚した)世界統一家庭連合(旧統一教会)への曖昧な対応、それに賛否が分かれた安倍氏の国葬がきっかけだった。以後、閣僚の不祥事、経済政策の不手際による物価高がマイナス要因となった。23年5月のG7サミット及びその前に行なった日韓首脳会談やウクライナ電撃訪問はかなりの評価を得て支持率も56%に達したが、その後のマイナンバーカードを巡るトラブルや首相の長男(首相秘書官)の不祥事、決定的なのは自民党の政治資金パーティの“裏金問題”に端を発した政治資金規正法成立までのもたつきで国民はかなりイラつき支持率低下を加速させた(立憲民主党などの“何でも反対”にもうんざりしたが)。

ここから述べる“岸田支持率低下の要因”は――(全くの翁の独断と偏見だが)「岸田は、スマートに見えるがリーダーとしての迫力がない」。彼が首相に就任した当初「国民の声を聞く内閣」と言った。その時、翁は『余話』で「聞くだけなら誰でも出来る。要は、国家国民のために(具体的に)何をなすべきか、である」と吼えた。安倍氏は「美しい国日本」「強い国日本」「世界一安全・安心の国日本」(憲法改正による国防力の強化)「教育再生」「子育て・介護を支える社会」「女性が輝く日本」「経済成長」(アベノミクス“3本の矢”については賛否両論が続いたが)など、(いずれも“道半ば”ではあったが)政策(戦略)に具体性があって将来をイメージ出来た。“強いリーダー像”だった。しかし岸田にはそれが乏しい。つまり“強いリーダー、頼りになる親分”のイメージからほど遠いので高齢者には物足りなさを、若者には将来不安を与えてしまっている。だが――翁はまだ岸田に期待感がある。そこで吼える――「もう支持率は考えるな。派閥配慮は不要、野党への遠慮も不要、オレがやる!の強い姿勢(迫力)を貫き、これから先は“国民ファースト”の気概を持って経済の立て直しと憲法改正による防衛力の強化をやってのけろ。そうすれば国民は再び“岸田内閣を見直す”だろう」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「大人の休日倶楽部 6月25日(火曜日)」

ファミリーヒストリー2日目 栃木県編

日帰り連続の旅2日目は、前日、訪れた北海道函館の報告をする為に栃木県の本家の家を尋ねた。初めて本家のご夫婦にお会いしたのが流行病の少し前、それからあっという間に数年が過ぎ去った。
その時の事を本家の奥様は、まだ鮮明に覚えていらっしゃった。庭で水撒きをしていた奥様が私達の車が通り過ぎるのを見てあの車はうちに来ると直感したそうなのだ。私達が昔の住所と今の住所を見比べながらあっちかこっちか迷いながらUターンして戻ってきた時に本家の奥様にこちらから声をかけたのだ。
“すみません、この方のお墓を探しているのですが“と私が戸籍謄本をその人に見せるとびっくりした表情で“うちにも同じものがあります”とおっしゃった。尋ねた家が本家だったのも不思議なタイミングだった。それ以来の再開だった。今回、駅に車で迎えに来てくれたのは先日ニュージャージーから旅行で戻ってきたばかりの本家のお孫さんとご主人だった。

同じ曽祖父の繋がりを持つ北海道に住む方のお父様も生前、曽祖父の話をする事はなかったのだとか、、、それでお父様が亡くなられてからその息子さんが生前、お父様が書き綴られた手帳や資料を元に家系図を作られたそうで本家の方も私も知らない事が発見出来た。それからその息子さんのお父様の趣味が写真や8ミリフィルムを撮る事だったそうで半地下に暗室まで作っていたそうだ。お父様が亡くなられて出てきた1枚の家の写真がどこの家なのか知りたいとおっしゃっていたのでその写真を本家の方に見せた。そうすると ”ああ、これは改築する前のここの家です“ と廊下に飾られている写真を見せてくださった。詳しい年代は、わからないけれど本家を探されてここの家を遠くから写真を撮られていたと言う事がわかった。後日、その事をメールで北海道にいる息子さんにお伝えしたら感慨深げだった。いろいろな事情で曾祖父の時代から本家との繋がりが長い間、切れてしまっていた。その裾野が本家の方達と繫がっていろいろお話が出来た事は良かった。いろいろな話題の中で本家のご主人が心に残る話をされた。“戦後、日本人が育んできた家族という形態が壊されてしまった事から日本がおかしくなってしまった”と。

家の構造一つとってもそうだ。家族が分断されて個々の部屋で子供が何をしているか親の目には届かないと、、、
昔は、火のある囲炉裏の周りに家族が集まっていた。そこに祖父母の姿があった。私の世代でも冬は炬燵やストーブの周りに家族がいて一緒に食事をしたり同じTVを見ていたので共通の話題があった。ご近所とも皆仲良く声を掛け合う間柄だった。

アメリカも50年代、60年代は母親が家にいて手料理を作り子供に目を向ける時間があった。お父さんのお給料だけで充分家族も養えたし、そこには祖父母の姿もあった。そして今よりも心身共に健康で豊かで温かかった暮らしがあった。

昔の映像からも人々の表情を見てわかる。家族の在り方、今昔、、、いろんな話をしながら日本の暮らしが映像のように頭に浮かんだ。その時、本家の奥様が私に青いボールペンを差し出した。“ これは曽祖父の息子さんが書くのが好きで生前、愛用していたボールペンです。今北海道で墓守をしている息子さんのお姉さんからの頂き物なのだけれど、これは貴方が持っていた方がいいから”と私に譲ってくださった。字の下手な私は手書きで滅多に書く事がないので躊躇したのだけれど、好意的にそう、おっしゃって頂いたので有り難く頂いた。
そういうわけで、青いボールペンは北海道から栃木そして東京の私の文具入れの中に収まった。

スパイス研究家  茶子

逃げ場のない国 震災余話 井出半句

第七話 甥家族のアパート探し

今回も東日本大震災当時のメールを掲載します。

******************

Date: Wed, 23 Mar 2011 07:35:35 -0700

第三話です。何故こんな話を送っているかというと、送り先のほとんどの方がカリフォルニア在住か在住経験者であり、そこは地震・津波・原発の3点セットが揃っていて、脅かすわけではないが”明日は我が身”だからです。それと私からの現状報告です。物資援助をお願いするためではありませんので誤解なきように。多くの方々から有難いお申し出を受けています。もしその気がある方は義援金としてRed Crossとか適切な団体へお願いします。私など「へ」のような被害です。

1.甥の家族がアパートへ

我が家に滞在していた甥と小4、高2の子供たちは母親が自分の親の面倒をみるために別な親戚宅に分かれて避難していたため、子供と離れているのは良くないということで、伯父さん(小生)があちこち役所を当たり、8回ものたらいまわしの結果「雇用促進住宅一室を確保」というのがここ一両日の井出家のトップニュースです。よってヒマだったはずの伯父さんは昨日今日と飛びまわっていて余話シリーズが途切れました。

で、この住宅というのは6畳和室X2、6畳洋間X1、6畳キッチン、シャワー付きユニットバス、それにトイレと東京なら月20~30万円のところ、これがなんと罹災者はタダというしろもので、改装されたばかりのピカピカでした。ねばってみるものです。日本も捨てたものじゃない。ずっとふさぎこんでいた甥の嫁さんもにっこり、子供たちも「あ、シャワーが付いてる!」とご機嫌。但し家財一切なしなので、欲しいものリストをつくり親族の余りもので大体揃いそうだが、洗濯機、冷蔵庫などはまだ。子供らの学校編入、甥の仕事(JA=農協)などどうなるか未定。これからが本当の苦しみとなるはず。あす24日には入居となり、我が家には兄夫婦のみが残ることになる。

【写真は雇用促進事業団アパート】

各市町村は罹災者に市営等の住宅を斡旋しているが、どこも市民対象で罹災者は相変わらず体育館みたいなところ。ぼちぼち仮設住宅の話も聞こえるが、これも地元住民向け。原発避難者のへの具体的な住宅対応はない。とにかく町を離れ散りぢりになって原子炉の冷却具合を見守っているわけです。避難者は私のように駆けずり回る車もガソリンもないし、アイディアもないはず。福島県郡山市に避難中の村長さんが甥の罹災証明書をすぐにFAXしてくれたので、部屋確保の報告と全国にある雇用促進住宅を早く当たれ、と伝えてみるつもり。とにかくすぐには帰れないのだから・・・。日本の役所は、年金もそうだが、役所から積極的に知らせない。いまは特に朝令改暮で末端まで徹底されていない。しかも災害で混乱の極みである。

2.余震

きょうは大きな余震(震度5強、M6クラス)が30分間で4回あり不気味。
震源はわが川内村付近の直下型。痛んだ家がさらに打撃を受けた模様だが、その付近は原発で近づけず、報道写真は一切ない。原発付近の民家の映像は未だ一回もTVに移らない。兄は何も言わない。

次々と来る余震で家族全員がずっと船酔い状態。地震がなくても下を見るとグラグラする。立っていてもグラグラ。「今揺れた?」「TVが動いてないから地震じゃないよ、地鳴りもしないし」

すぐにゴーっと音がする。「来た、来た。TV押さえろ!」こんな会話が2週間近く続いている。きのうは有感余震が90回あったそうな。

先に作った駄句

ろうそくの余震余震に春寒し

は「そうそくの余震」となりおかしい。むしろ

ろうそくや余震余震に春寒し

と「や」で切った方がいいかな、なんて推敲してみる

むしろ

春寒や余震か酒か船酔いか

なんちゃって・・・。

腰のあたりが冷えるので寝ます。このところ冬並みの寒さが戻る。

**********************************

Date: Thu, 24 Mar 2011 07:41:48 -0700

1.甥家族が新生活開始

14日目にして甥家族は初めて4人だけの夜を過ごしています。

両家のシュウト・シュウトメやヒマな伯父からガーガー言われずに家族団欒を過ごして居ることと思います。家財道具一切なしなので、どうするか・・・で、ヒマな伯父がまたヒマに任せて昨夜遅く自分のネットワークに欲しいものリストをメール。翌日正午時までには冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、ガスレンジ、トースター、アナログTV・・・など手品師のように揃え、空っぽのアパートに届けた。遠い親戚より近くの他人とはよく言ったものだ。有難いことです。寝具類、食器類、こたつ、その他もろもろは家内のネットワークで揃った。それで文頭の結果となりました。めでたし、めでたし・・・と思いきや甥から電話あり。高2の息子の学校は原発から5Km、学校と連絡とれずネットで調べてほしいと。調べると、学校の仮事務所は60Km離れた福島市の高校に間借りしていて、避難している家族の連絡をまっている、県内の公共施設での授業再開を検討しているが未定だということがわかった。県外はどうすんの? 通信教育??

ちなみに原発付近の高校6校は入学試験の答案用紙が持ち出せず全員合格にしたこともネットで知った。さあ、ヒマな伯父どうする。

2.地震酔い

きのうの句は

ろうそくや余震余震の春寒し

としましたが「地震酔い」という言葉があるそうです。医学的には下船病というらしい。多発する余震で神経が過敏になり、恐怖もあり揺れなくとも揺れを感じ、吐き気をもよおす人も。

火事は見えるが、地震は1秒先が静まるのか強まるのか見えず恐怖がつのる。この大難のときに尺八吹いたり俳句をひねったりしているヒマな伯父さんも、のんきそうに見えて結構神経過敏になっているということか。

余震とて地鳴り走りて浅き春

囀(さえずり)や瓦礫を巡る人の群れ

             半句

 第八話につづく

ジャズライフ Stephen Kummer “Best of Stephen Kummer-Jazz Piano Performance”

今週は初めて紹介するアーティストStephen Kummerです。爽やかな印象の聴きやすいピアノジャズアルバム”Best of Stephen Kummer – Jazz Piano Performance”です。久々にポータブルアンプとイヤフォンで聴きましたがとてもいい音です。《R.O.》

01-Let’s Fall In Love  03:47
02-Come Fly With Me  03:56
03-An Affair to Remember  03:47
04-The Summer Wind  04:04
05-I’ve Got My Love To Keep Me Warm  03:45
06-The Way You Look Tonight  04:23
07-Moonlight In Vermont  04:07
08-People Will Say We’re In Love  04:39
09-Day In Day Out  03:17
10-The More I See You  03:36
11-My Favorite Things  05:02
12-Fly Me To The Moon  03:32
13-At Last  04:34
14-Come Dance With Me  03:48
15-Because Of You  03:07
16-Nice ‘N Easy  04:33
17-That’s All  04:45
18-What A Wonderful World  03:35

編集後記「小さな変化」

毎日、何か小さな変化を楽しんでいます。
70歳以上が利用できる市バスの割引カードを作りました。これから猛暑の日には、バスでお店に行くことにするので片道30分も歩かなくて済みます。
財布のカードが一枚増えたので、交通系ICカードをスマホアプリにして減らすことにしました。
先日、交番の警察官に来てもらおうとして110番に電話しました。「事件ですか事故ですか」と聞かれたので事情を説明すると、約15分で警察官が来てくれました。もう少し早く来てほしかったのですが、忙しいんでしょうね。
ハイボールを楽しむためにソーダを作るマシンの購入を検討しています。お酒を飲むよりソーダを作る方が楽しいかもしれません。
小さなことでもやってみると何か新しいことを見つけることができます。《R.O.》

コメント