雑貨屋のひとり言「雑貨屋の集い」
私たち夫婦は、栃木県日光への旅行に合わせて、東京で開催された「雑貨屋の集い」に参加しました。このイベントは中條さんとさくらさんが企画・準備してくださり、心から感謝しています。この集いのおかげで、私たちの旅行はこれまでで一番楽しく、充実したものになりました。
10月9日、ワクワクしながら妻と一緒に7時台の新幹線に乗り、上野駅へ向かいました。当日はあいにくの雨模様でしたが、それでも気分は高揚していました。
上野駅で皆さんと合流し、故河合将介さんのお墓がある誓教寺(東京都台東区元浅草)にお参りに行きました。誓教寺は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」などの作品で知られる浄土宗のお寺です。
お参りの後は、上野駅前の広東料理「龍城」で食事をしながら歓談しました。中條さん、さくらさん、河合成近さん、高島さんと久しぶりに再会し、龍翁さんと茶子さんにも初めてお会いすることができました。やはり、顔を合わせて話すと、その人の気持ちが伝わってくるものです。話が弾み、故河合将介さんをはじめ、雑貨屋に関わってくださった多くの方々の名前がたくさん出てきて、とても懐かしく感じました。楽しい時間はあっという間に過ぎました。
雑貨屋を創刊する前から、ここまで多くの仲間に支えられて続けてこられたことに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。私は、本当にたくさんの素晴らしい人々に出会えている幸運な人間だと思います。
《R.O.》
川柳(東京・成近)
(川柳)
パラの拍手野心を逆撫でる
乾杯の音頭が過去に蓋をする
背に隙を見せ祝杯に酔っている
そのやる気裏目 見方も持て余し
風吹いて止んで支持率が踊る
(ニュースひとりよがり)
「究極の願望」
平和賞不要の世界を ― 日本被団協
「W解散」
国会もかよ ― 自民党派閥
「賞味期限」
投票日まで ― 公約
河合将介
龍翁余話(855)「大倉集古館」
東京都港区虎ノ門に『大倉集古館』という(私立では日本初の)美術館がある。場所は、あの有名なホテルオオクラのすぐ目の前。『大倉集古館』とホテルオオクラとは姉妹関係だ。それもそのはず“オオクラ”と言う名が示す通り、ホテルも美術館も創設者は大倉財閥の始祖である大倉喜八郎。喜八郎(1837年=天保8年~1928年=昭和3年)は、明治から大正にかけて財をなした実業家。貿易・建設・化学・製鉄・繊維・食品などの会社を多く興した“大倉グループ”の総帥。渋沢栄一らとともに鹿鳴館(ろくめいかん=ヨーロッパ文化を採り入れるために設立された西洋風の社交場)を設立、また、現在の東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。その大倉喜八郎が長年に亘って収集した古美術・骨董品などを収蔵・展示するため、1917年(大正6年)大倉邸の一角に美術館(古美術が中心であるから『集古館』と命名したそうだ)を開館。1923年(大正12年)の関東大震災で展示館と1部の展示品を失ったが1927年(昭和2年)に耐震耐火の中国風展示館が再建され翌年再開館。1923年(昭和3年)に喜八郎死去後、嫡男の大倉喜七郎が跡を継いで日本画や仏像の収集に努めた。戦後、大倉邸の敷地内に、ホテルオオクラ(ホテルオオクラ東京)が建設された際、『集古館』の1部が整理解体されたが1990年(平成2年)(展示室は)歴史的建造物に選定され、1998年(平成10年)には国の登録有形文化財に指定された。余談だが翁、1980年代から2005年にかけて、ホテルオオクラとは縁が深かった。というのもホテルオオクラの近くにテレビ東京(本社)があり、同局のプロデューサーたちと番組の打ち合わせなどで同ホテルの待合室(談話室)やレストランを頻繁に利用、(当時の)フロア支配人とも親しくして貰っていた。個人的にも同ホテルをよく利用した。そんなことを思い出しながら先日『大倉集古館』へ足を運んだ。
このたび『大倉集古館』行きを思い立ったのは、1つは、翁の出身地・豊後の国(大分県)と縁の深い「法蓮上人」(鎌倉時代~南北朝時代・室町時代の僧侶)の坐像(重要文化財)と「普賢菩薩」(国宝)の仏像(平安時代)を拝観するのが目的であった。ところが、受付で入館料(1000円)を支払う時「本日の展示は、近年、篤志家から寄贈された陶磁器が中心の展示です」との説明に翁、がっかり・・・本来、『大倉集古館』が収集した絵画・書跡・彫刻・陶磁器・漆工・金工・刀剣・能装束・考古遺物などは合計2,500点に及び、そのうち国宝は3点、重要文化財は13点、重要美術品は44点あり、これらは常に展示されているもの、と(翁は)思い込んでいた。ところがそれらは年間5回に分けて“特別展”として展示するとのこと。“特別展”は分かるが、これまでに国の内外の博物館・美術館を比較的多く見て来た翁にすれば、今回の“寄せ集め展示”は何とも貧弱この上ない。2階の展示ホールに入って、その寒々とした空間に(翁以外に)わずか6人の参観者、彼らはまるで何の興味(魅力)もないかのように急ぎ足で展示ホールを出て行った。翁も正直「こんなつまらない展示は初めてだ」・・・と、愚痴っていても仕方ない。そこで(展示ホールの中ほどに備え付けてある)“代表的展示物の紹介”(ブック)を開いて、参観目的の「法蓮上人」と「普賢菩薩」のページを開きスマホで写真を頂戴した(館内は撮影禁止だったが)。
現物を観ることが出来ず、“盗撮写真”だけでは読者に申し訳ないので、翁の手許にある資料に基づいて2つの彫刻(2人の聖人)のプロフィールを簡単に紹介しておこう。「法蓮上人」――英彦山(ひこさん=現在・耶馬日田英彦山国定公園)や国東六郷満山(大分県国東半島の霊山)で修業した“山岳仏教の祖”。大分県宇佐神宮(現在、全国約44,000社ある八幡宮の総本山)は神仏習合発祥の地、その神宮の境内に神仏習合思想に基づく寺院(神宮寺=弥勒寺)が奈良時代前期に創建され初代の別当(べっとう=宮司を補佐する長官)を務めた。また「法蓮上人」は医薬に長けた僧でもあり、豊後国内の多くの村民を病魔から救った、と言う記録も残されている。実は翁、「法蓮上人」を知ったのは昨年5月に大分県宇佐市院内町に在る「平家の里・平家七人塚」を参詣した際、そこで出会った“平家の語り部”門脇正夫さんから聞いた話がきっかけ(そのことは昨年5月12日に配信した『余話』(833)にも書いた)。門脇さんの話の中に「大倉集古館に法蓮上人の坐像が展示されている」と聞いていたので当館参観の時期を見計らっていたのだが今回は展示無し、残念。それだけに「法蓮上人」(坐像)に会いたい執念は、これからも更に続くだろう。
もう1つの彫刻「普賢菩薩騎象像」(象に乗っておられる普賢菩薩)の拝観は翁の以前からの願望であった――その名の如く“慈悲と理知をもって人々を救う仏様”と言われている。元来、翁は特別な宗教を持っている訳ではないが、とにかく神社仏閣巡りが好き、とりわけ神仏のお姿(彫刻や絵画)に出会うとこの身が引き締まる思い。「普賢菩薩」は、真理と悟りを求めて白象にまたがり、広く行動する仏様であるから別名「行菩薩」とも言われているそうだ。老いてなお“煩悩に喘ぐ翁”故に「普賢菩薩」のような“真理と悟りを求めて行動する仏様”に憧れる。今回『大倉集古館』では“2聖人”にお会い出来なかったが、いつかまた、きっと・・・と、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「読書の秋」
最近、LAからアトランタに友人が引っ越していった。長年住み慣れた場所を離れる決断をするに至った理由はいろいろあるけれど家族と話し合って家族が同じ意見だった事は良かった。友人の家はすぐに売却が決まりアトランタに新しい家を購入したのだ。昔の古き良きアメリカの雰囲気が残る小さな田舎町は皆フレンドリーでのんびりしている所が気に入っているらしい。
ともかく、その友人から読みたい本があるので送って欲しいと頼まれた本が昨日アマゾンから届いた。私が気付くより先に、その友人からメールで“もう配送されたようなのでポストを見て”と連絡が入ったので見に行ったら本が届いていた。それが今話題になっている “ 私たちは売りたくない ” というタイトルでチームK著による本だった。
友人からは“私に送る前に貴方も是非読んで”と言われた。本の帯に “これはワクチンを一番販売してきたMeiji Seika ファルマ現役社員が全力で警鐘を鳴らす!と書かれてあった。あ~これは並々ならぬ強い決意で書かれたのだなと言う真剣な気持ちが本を開く前の帯を見ただけで伝わってきた。そして今後、日本だけでなく世界を動かすとてつもない巨大な力とも戦わなくてはいけない危険性もはらんでいる事を感じた。
それでも彼らを突き動かしたパッションが何だったのだろうかという事が私は知りたくなった。そして吸い込まれるように第一章を読んだ。もっと読みたいという衝動を抑え、この後は機内の長旅の中で一人ゆっくり読もう、、、そう思って本を閉じバックに入れた。
世の中には情報が溢れている。今やネットも加わってTVや新聞、週刊誌もあり実際現場で見たり聞いたりした直接情報もある。政府が言う、それは誤情報です。デマですという根拠は言ったからには国民に示されなければならないと思う。
ネット動画もある言葉に触れると禁止用語になっているのか運営側の判断で消されるらしい。これは世界で同じ言葉や事柄で共通している。ただ何故その情報に触れてはダメなのかという理由は一切教えてくれないらしい。
いつから、こんな言論統制が始まったのだろうか、、、まるで世界中が赤い国の統一国家のような思想教育になってしまったのだろうか、、、、
私達はそんな馬鹿で従順ではない。ちゃんと情報を与えられたら自分の頭で考える事が出来る。ただし、片方の情報だけ、一部の人間だけが知っていて平等に情報を与えないというのは不公平だと思う。
リーマンショックの時もある金融関係にいた友人の知人は、この情報を知っていて直前に自分の資産を銀行や株から出していたらしい。この事を後から知って友人は怒っていた。自分には知らせてくれなかったと、、、、
私だって401Kが、あっという間に1/3も吹っ飛んだ。その後、間もなく会社を辞めてその401KをIRAにただ移動したので減った金額のまま増えもしないでそのままになっている。おまけに今の物価上昇では目減りしているくらいだ。
911のツインタワーの爆破の時も事前に仕事に行かなかった特定のグループは難を逃れているし事前予告のような某飛行機会社の雑誌を見せられた時には驚いた。それにはツインタワーに飛行機が突っ込む写真が数か月前に掲載されていたのだ。
これは、ほんの一部の例に過ぎないけれど、、、、
だから与えられた情報だけでなく、自分から情報を取りに行き調べる必要がある。
何か変だなという違和感は大事だ。そう思って調べて行くと時と共に点と点が繋がって線になり立体的に物事が見えてくる。
今回友人に頼まれた本の出版社の人も、よくこのような本を世に出してくれたなと思う。今は検閲が酷くメディアでも扱わない、動画でも消される。講演会となると面がバレてしまうし危険だ。そうなると、やはり本を出すという手段でしか無かったのだろうと思う。だから情報は本で出すという人もいる。本は後々残るものだからいい加減な事は書けない。しっかり調査し調べないと責任も問われる。
ダラダラ長い夏がやっと終わり短い、秋の夜長、本と対話する時間をもっと持つべきだな~と最近活字離れをしていた自分に反省。
スパイス研究家 茶子
逃げ場のない国 震災余話 井出半句
第二十話 真の悪い余震
井出半句
2011年4月13日(水)はれ 春爛漫
間の悪い余震
このところ震度6前後の余震が多い。余震といえども死者もあり、復旧したばかの水道管破裂・断水あり(福島、宮城)、さらに茨城でもJRストップ、高速道閉鎖なども引き起こした。このマンションではエレベータ停止が一日間あった程度で済んだ。
その余震の時、人間ドックから家に帰った私は、バリウムを早めに排出するため下剤を飲んでいたので、トイレに「座って」いた。その時、ゴゴゴゴという地鳴り。その響き方で次に来る揺れの大きさが分かる感覚が身に付いていた。これは大きい!と、大きいのをしながら予感した。そのまま紙も使わず逃げ出すのには少なからず抵抗があった。それに紙を使えるような優しい揺れではない。観念して座り続けた。水がぽっちゃんぽっちゃんと無防備な部分を撫でる。思わず腰を浮かす。こぼれる。座る。撫でる。・・・このプロセスを何度か繰り返す。揺れが収まってから恐る恐る覗いてみるとバリウムで白濁した水がまだ揺れている。比重の重いバリウムに感謝!ぷかりぷかりはなかった。
まずまずのケツ末ではあったが、なんとも間の悪い余震だった。3/11の本震の時はすっぽんぽんの時だったし、どうもスポーツジムとトイレは風水の方角が悪いようで、細木サンの占が必要か?
ゴルフをしていてよくオナラをする男を知っている。その後で「出物、腫れ物、所構わず」とよく言う。ちょっとそれは違うと思う。「たしなみ」がないだけだと思う。が、代わりに地震をそこに追加すべきだろうか?
出物、腫れ物、地震、所構わず
どうも話が落ちる。品格の感じられないレポートでスミマセン。
3.11の当日、福島原発3号炉建屋で働いていた男 の話
郡山の避難所でばったり出遭った幼友達は、3号炉建屋の排気ファンの点検をしていて激しい揺れに襲われたことは述べた。天井のダクトが折れて「粉」を沢山かぶった。と同時に停電で真っ暗になった。逃げ場を探し階段を下がろうとするが、人が殺到して15分ぐらい外に出られなかった。事務所に戻ると物が散乱して滅茶苦茶な状態。一端全員が屋外に集結したところで「津波が来るぞ!」と言われ、海の方を見たら白い波が押し寄せてくるのが見えた。即解散となり駐車場に走った。6号国道は混むと考え山道に入り、自宅の川内村への道も崖崩れがあるかもと288号(大熊・都路線)を大回りして都路(みやこじ)経由で川内の家に帰った。
【上の写真はNHK及び東電の資料、図は朝日新聞。福島第一原発は海側の3.3m、側壁の2.8mの側壁を津波が越え、冷却用のポンプが使用不能となり、後の水素爆発事故に繋がった】
被曝検査はしたのか、と幼馴染への問いに「そんな余裕なかった。その位は平気だ」と。
「俺は何十年も原発で働いているので、何百ミリも浴びている。若い人は仕事が分からず、作業も遅いので自分が代わってやることが多い。胸に付けた警報が鳴ったら、待機している人の警報機と交換してまた自分でやっている」と平然という。
つまり、警報を無視してダブル、トリプルで被曝しているわけだ。だからもうすぐ69歳になるのに重宝がられて働いている、というわけか・・・。
事故処理の当初、警報機が鳴るのに「警報機が故障していると思った」とのことで被曝し、3人が病院に運ばれたのは以前に書いた。・・・・幼友達の話と不気味に一致する。
東電さん、現場は下請けに丸投げなんですか?
米国なら間違いなく安全順守しないという内部告発があって、責任者はJail行き、会社は操業停止、罰金うんミリオン、ですよ。(環境・安全には特に厳しいカリフォルニアでの操業には気も金も使い、時間もかけ、監査も受けたものだった)。前述したとおり、東海村臨界事故から全く学んでいない。命を顧みず効率を優先する、という悪しき日本の労働習慣なのだ。元請けが下請けに発注し、それを受けた会社がまた小さな会社にやらせる。7次、8次下請けもあるとの、これは別情報源からだ。元請け会社はマニュアル通りにしろと伝える、次の会社も、次も・・・文句を言ったら仕事がもらえない数人規模の会社は危険覚悟で受け入れる。これは私の憶測だ。憶測で物を言っちゃいけない。独り言にする。
一方、政治家、電力会社、原子力安全・保安院の癒着を指摘する報道も出ている。チェック機能が働かないと怖い。「安全」と言う前提が消えてしまうからだ。で、安全神話が崩れたか。宮城の女川原発も東海村原発(我が家から10Km)も津波に襲われたが防波壁が福島のそれより高く、電源もポンプも被害を受けなかった。癒着関係がチェック機能をマヒさせて安全を損なったとすれば、それこそ国民にとっては「想定外」だ。いや想定していた人もいる。前・福島県知事は内部告発を受けて東電に改善を求めたが、握りつぶされ、脅かしも受けた、と公言している。
二十一話につづく
ジャズライフ Ituana “Chill in Saint Tropez”
日光の鬼怒川温泉で5年ぶりに再会したMさんにポータブルハイレゾ音楽用アンプとイヤフォーンで高音質なストリーミング音楽を聴いていただきました。思った通り、Mさんは高音質ミュージックにとても感動され、興味を持たれたようです。今週紹介するアルバムもこのシステムで聴いて決めました。
今週はボサノバ、ジャズのカバーで有名な音楽グループItuanaのアルバム”Chill in Saint Tropez”にしました。女性ヴォーカルの甘い魅力的な声が耳に心地よく残る楽曲です。ゆったりとワイン片手に聴くのもいいかもしれません。《R.O.》
1-Waiting in Vain 4:37
2-Don’t Cry 3:57
3-Light My Fire 2:34
4-Kind of Magic 3:54
5-You Can’t Always Get What You Want 4:06
6-It’s a Fever 3:31
7-Garota de Ipanema (The Girl From Ipanema) 3:23
8-As Tears Go By (Luxury Strings Mix) 3:15
9-Michelle 3:03
10-Amanha Talvez 4:57
11-Smells Like Teen Spirit 4:22
編集後記「東京見物①」
上野で河合さんのお墓参りと懇親会が終わってから東京見物をしようと考えていました。しかし東京のどこに行けばいいかよくわからないので、はとバスで少し東京を見て、東京の雰囲気だけでも感じてみようと思いました。スカイツリーの展望料金も含んでいるナイトツアーもあるのですがツアー時間が4時間とちょっと長すぎるのでやめました。
二階建てオープンバスの1時間ツアーがあったので16時発を予約しました。東京駅に着くと、雨が降りだしそうな空模様でした。乗車するとき、二階は屋根も幌もなく途中で下車できないと言われ、配布されたポンチョを着て二階のシートに座りました。バスが出発した途端、雨が降り出しました。「左手に見えるのが東京タワーです」と言われたころはそれを見る気も起きないほど雨と風があり、ツアーに参加したことを後悔しました。レインボーブリッジを通過しているときは最悪で、早くツアーが終わってほしいと思っていました。他の数組の人たちも同じことを考えていたと思います。後ろのほうから「気分が悪いから降ろしてくれ」と言っている声が聞こえましたが、どうなったのかわかりません。ツアーが終わるころに雨がやみ東京駅周辺は夕日に照らされきれいに見えていました。このちょっと珍しい経験はこれからの話のネタにできるとポジティブに考えながら宿泊ホテルに向かいました。
東京見物の続き、栃木日光旅行記は次回以降で紹介します。《R.O.》
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