雑貨屋ウィークリー1475号

雑貨屋のひとり言「夏の工作」

先々週、暑い日が続く中、ちょっとした工作をすることになりました。マンション掲示板の掲示物を貼り付けている部分が経年変化と暑さのせいで、粘着力が低下して、掲示板の機能を果たさなくなっているので、なんとかしようと思いました。押しピンなどで留める手はあるのですが、ピンが外れて床に落ちると危ないということで別の方法でやる必要がありました。コストをかけたくないということもポイントでした。そこで近所の100円ショップに行き、アイデアとパーツ探しをしました。思案した末に、クリップボードを木ねじで固定する方法が簡単で安上がりだと考えました。掲示板を採寸して、A4サイズのクリップボードを使って、A4とA3の掲示物がうまく収まるように設計図を作りました。大量のクリップボードが必要になるので、DAISOの大型店がある大阪梅田のDTタワーに行き購入しました。一部のクリップボードの切断、木ねじで掲示板への取り付けなどをやっていたら、子供の頃の夏休みの工作を思い出しました。改良を急いだのは来月、消費生活センターに出前講座で詐欺対策の話をしてもらう予定なので、掲示内容を見やすくし興味を持っていただきたかったのです。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )

戦争も飢えも昭和の数え歌

もったいない死語に8月15日               

年号が変われど8月15日

まだ生きています8月15日

永久欠番ボクの8月15日

(ニュースひとりよがり)

「5号、6号、7号」

ラッシュ引き継ぎます ー台風

 「総裁選に不出馬」

フミオは付き合いがいいなぁ —ジョー 

「大揺れ臨時情報解除」

今度は永田町周辺に ー気象庁

河合成近

龍翁余話(847)「福沢諭吉と北里柴三郎」

今年(2024年=令和6年)7月3日に新しい一万円札、五千円札、千円札が発行された。翁は、千円札は早々に入手したが一万円札と五千円札の現物には、まだお目にかかっていない。新しいお札は、およそ20年ごとに発行されているそうだが、2004年(平成16年)の発行では、五千円札の肖像は「新渡戸稲造」(1862年~1933年、教育者・思想家・農業経済学者)から「樋口一葉」(1872年~1896年、小説家)へ、千円札は「夏目漱石」(1867年~1916年、小説家・英文学者)から「野口英世」((1876年~1928年、医師・細菌学者)へ。一万円札の肖像は1984年(昭和59年)から40年間変わらず「福沢諭吉」(1835年~1901年、啓蒙思想家・教育者・慶應義塾の創設者)が採用されて来た。2000年(平成12年)には二千円札も登場したが他のお札と異なり、肖像ではなく沖縄サミットに因んで「守礼門」だった。翁の印象だが、このお札は実に使いづらくて、今はほとんど見かけない。

さて、新しいお札は(ご承知の通り)一万円札は「渋沢栄一」(1840年~1931年、実業家)五千円札は「津田梅子」(1864年~1929年、女子教育家・女子英学塾=現・津田塾大学の創設者)、千円札は「北里柴三郎」(1853年~1931年、微生物学者・教育者・学校法人北里研究所=創立者兼初代所長・北里大学学祖)が登場した。

ところで翁は、福沢諭吉出身の大分県中津市と北里柴三郎出身の熊本県阿蘇郡小国町には、それぞれに親戚が住んでおり、若い時から幾度も訪問しているので市勢・町勢には比較的詳しい。この夏(2024年8月)も中津市(旧福沢諭吉邸)と小国町(北里柴三郎記念館)を訪ねた。

 JR中津駅の壁面に、高さ3m、幅6mのフレームに、1cm四方のタイルを敷き詰めた福沢諭吉の一万札を題材にしたアート作品が先月(7月)に設置された(写真左)。一万札の顔として40年に亘って親しまれた中津市出身の思想家で教育者の福沢諭吉に対する中津市民の強い“想い”が感じられる。中津駅を後にして翁、「福沢諭吉旧居」(写真中)へ向かう。ここは諭吉が幼少年期から青年期を過ごした木造茅葺きの旧家(国史跡)で、敷地内には、それは見事な藤棚(「昇龍の藤棚」)が庭園の中央を陣取っている。母屋に並んで、諭吉が幼少の頃、勉強部屋にしていた2階建ての土蔵も保存されている。その旧居の隣に建っている「福沢記念館」(写真右)も訪ねた。1階は展示室と視聴覚室(ビデオルーム)。

展示室は2階へと続く――そこには諭吉の著書『西洋事情』(初編)、『咸臨丸』(1860年に勝海舟・福沢諭吉・ジョン万次郎ら遣米使節団を乗せた幕府の軍艦)の模型、『文明論之概略』、そして「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で有名な『学問のすゝめ』などが所狭しとばかりに展示されている。そんな中、翁『福沢諭吉と北里柴三郎』の深い関係を知ることが出来た。

北里柴三郎は1886年(明治19年)から6年間ドイツ留学、その間、1889年に破傷風の純粋培養に成功、それを応用して血清療法を開発し世界的な研究者としての名声を博するに至った。福沢諭吉はこの若き研究者に注目、北里が1892年(明治25年)に帰国後、「伝染病研究所」を設立しようと四苦八苦している時、諭吉はその研究所設立実現に多大な支援を行なった。当時諭吉は57歳、北里は40歳、それ以来、2人の親交は深まる一方で、北里は生涯、福沢諭吉を“師”と仰いだそうだ。なお、北里は1894年(明治27年)に香港で蔓延したペスト菌を発見“感染症学の巨星”とも呼ばれた。

諭吉の死(1901年)後、慶應義塾は創立60年を期して大学部に医学科を新設、北里柴三郎を初代医学科長(後の医学部部長)に迎えた。その記念パーティで北里は「予は福沢先生の門下生ではないが、先生に恩顧をいただいた門下生以上の関係である」と述べたそうだ。1928年(昭和3年)まで医学部長を務めた北里は、その後も顧問として慶応義塾大学医学部を支え続けたと言う。余談だが翁、2009年以来、その慶應義塾大学病院で3度の癌手術を受け、現在もなお、お世話になっている。

 さて『福沢諭吉と北里柴三郎』の深い関係を知った翁、思い立って北里の出身地・熊本県阿蘇郡小国町へ車を飛ばした。大分県中津市を起点に日田市・杖立温泉・熊本県小国町・阿蘇町に通じる国道212号は、偶然にも福沢諭吉(中津)と北里柴三郎(小国)を繋げている。そんなことを思い、ウキウキしながら小国町の「北里柴三郎記念館」(写真右)に辿り着く。記念館の近くには「千円札の顔・北里柴三郎先生」の“祝い幟”(写真中)が数か所に靡いていた。「北里柴三郎記念館」の展示室には、氏の偉業を讃え、学術論文や「北里研究所」など公的活動の資料、恩師・福沢諭吉らの恩人に関する回顧録などがいっぱい。

なお、1962年(昭和37年)に創立した北里大学の源流は、北里柴三郎が設立した「北里研究所」であり「開拓・報恩・叡智・不撓不屈」の大学理念は北里柴三郎の思想を継承したものである、と伝えられている・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「ワンピース」

“ 今度、日本に行ったらワンピースの関連グッズの店に行きたい“ とリクエストされたのは、この5月に日本を訪れた友人家族。それまでワンピースが日本のアニメで世界的にも有名になった尾田栄一郎氏の作品だった事は全く知らなかった。
LAでも日本のアニメブームの勢いは年々人気が高まっていて毎年コンベンションで行われるイベントでの盛り上がりが凄い事ぐらいは知っていたけれど、、、、

日本の漫画ブームのせいなのか一時、廃れていたリトル東京が数年前は賑わっていた。その時にコスプレをした若者でリトル東京は溢れ日本食のレストランが行列だった事は驚きだった。私にとってアニメの世界は一部の限られたオタクの世界なのかなと遠くから見ているだけで興味を持つまでには至らなかった。だから友人家族の子供や親までがこれほど夢中になる日本のアニメの魅力に関して改めて再認識した日になった。

最初にワンピースのアニメグッズが売っている麦わらストアーがある澁谷に向かった。そこで友人家族の子供は目をキラキラさせて熱心に自分の欲しいものをショッピングカートに入れていった。そして自分のお財布から約5万円、惜しげもなく購入していた。見回すと、その殆どが大人も含めた外国人でショッピングカートには、たくさんのグッズが入っていて何万も何十万円も買っているのだ。その購買力に圧倒された。

その後、東京タワーのアニメグッズのコーナーにも行った。
帰る間際に時間切れで池袋やお台場にある麦わらストアーに行けなくてがっかりして悲しそうにしていた子供の姿は本当に気の毒だった。

家族の人にワンピースのアニメの何処に惹かれたのか聞くと意外な答えが返ってきた。アメリカは個人主義だけれど、この漫画の中に流れているスピリットは友達との絆や友情で、どんな困難な事があっても皆で助け合い、協力しながら乗り越えていくという所がいいのだそうだ。海賊船に乗って世界を旅し宝探しをしていく夢とロマン溢れる冒険物語は毎回ワクワクするのだそうだ。アニメに登場する人物も其々個性的で存在価値があるらしい。主人公だけでなくその友人や登場人物に至るまでファンがいるそうなのだ。日本の漫画やアニメの世界がいつの間にか私の知らない間に成長し世界の人をこれだけ魅了していたとは、、、そういうアニメや漫画が国や文化を超えて受け入れられ感動を与える事が出来るという事こそが多様性だと思う。

先日、米国の投資会社ブラックストーンが日本の電子漫画配信サイトめちゃコミックを買収したというニュースを聞いた。この事が日本にとって良かったのかは素人の私にはわからないけれど今後も日本の漫画やアニメがどんなふうに世界に広がり影響を与えていくのか静かに見守っていきたい。

スパイス研究家 茶子

逃げ場のない国 震災余話 井出半句

第十二話 尺八

10日ほど前(2024年8月8日)の宮崎沖地震の後発令された「南海トラフ臨時情報」は一週間を経て終了した。大きな地震はなかったものの、台風の来襲があり交通は混乱、なんとも落ち着かないお盆となってしまった。しかし、いまのところ大きな被害がでていないのは救いだった。

さて、古い話に戻ります。

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2011年3月31日

尺八は腹式呼吸で

甥の嫁から「お世話になります」と電話があった日は2週間前の水曜日。夕方5:30から尺八の稽古がある日でもあった。震災後最初の水曜日である。尺八はリタイヤして半年後の2009年4月から習い始めた。まだ2年も経っていない初心者だ。

村長の突然の全村避難指示により、逃避行の甥と兄家族はその後渋滞に巻きこまれ、茨城に入ってから動けないとの電話。6号国道をあきらめて海岸から山越えして常陸太田街道に迂回するように誘導。何度も通過点を電話でチェックする。3月16日に川内村を脱出してからはじめて携帯がつながるようになっていた(後でわかったが川内村の電話施設は3/11の地震で損壊、3月31日現在も村とは不通)。途中経過から彼らの到着時間は夕方5:30ころと推定。2時間で着くところを9時間かかる計算だ。この状況では仕方あるまい。

私は「五時半か・・・ちょうど尺八の稽古時間だなあ」とつぶやいた。

「尺八、ですか?」と家内の平坦かつ冷徹な口調が耳に入る。

さすがのB型人間も「・・・いや、きょうはキャンセル」(実は先ほど先生に電話したら茨城訛りで〝やってるよー”とのことで、分かりました、行きますと返事したばかりだったのだ)なので、今度はこっそり稽古断念の電話をするはめに。

そうだよな、この期に及んで尺八はないか・・・。ここでやっと私はスイッチ・オンになった。追いかけるように「のんきなもんだ」と家内の声・・・。グサリ。

きょうはそれからさらに一週間後の水曜日。
避難長期化を覚悟して甥家族の住居を見つけ、生活用品の第一陣を届けたのは述べた。その家財道具と一緒に尺八もこっそり車に積んで、帰途師匠宅に寄ることにした。ところが甥の住居のガスや電気の手配などの手配で時間がかかり、稽古時間が迫る。車を飛ばすも3,4分遅れて師匠の前へ。と、尺八を吹くが音が出ない。あせればあせるほど出ない。どうしたの?と茨城訛り。とうとうこの日はスカスカ。「来週やり直しだね」と言われる。初めてのことだ。普通の人は尺八の音が出るまで何カ月か苦労する。1年かけて2~3曲と言う人もいるらしい。私は独学でケーナを吹いていたせいで音は最初から出た。いま尺八を習い始めて2年弱、27曲目を習っている。しかしこの日は初めてのダメ出しを受けた。

避難者を抱えて尺八もなかろうと練習不足ではあったが、後で考えると「息が浅かった」ことに気づいた。つまりヘソの下にある「丹田」に気合いが入っておらず、口先だけの息遣いであったのだ。家内の「のんきなもんだ」の一声が突き刺さって腹から空気が抜けたのだろう。まして隠れて稽古に来たわけだし・・・・。

さて、きょうは震災から3週目の水曜日。家内の安息日(外食)を制定した代償として、公に稽古に行くことを許可された。平常心、丹田、腹式呼吸、姿勢に注意・・・・結果は師匠の「いいでしょう」と27個目のハンコを頂く。きょうの曲は「竹生島」。今まで習った全てが江戸時代の古典ばかり。4月に初めての昇段試験を受ける予定だったが試験場が地震で損傷し、5月に延期と。合格すれば「初傳」に昇格。その後、中傳、奥傳、皆伝、準師範、師範と続く。何年かかることやら、先は長い。

TVでも報道されている通り、体育館などでの避難所では気が滅入り、息は浅くなる。狭くて動けず足がむくみ、エコノミークラス症候群となり血栓が血管をブロックして死に至るとも。

そういうこともあるので、震災前まで通っていた太極拳のクラスに震災後はじめて家内を連れ出す。ゆったりとした二胡の音楽に合わせて深い息をしながら体を動かす。面前の処理に翻弄された3週間だったので体がふらつきバランスがとれない。浅い溜息ではなく遠くを見て深~く息を吸い込み、ゆ~っくり最後まで吐き出す。めまいがして倒れてしまうような感覚になる。これを繰り返すと、冷蔵庫運びで痛みのある体にだんだんとバランスがもどる。

マイペースなB型人間(LAの銘酒会ではいつもこう言われた)でも心身ともに結構疲れていることを自覚した一日だった。

いろんなイベント(ゴルフも)も自粛、自粛でますます経済効果があがらない。自粛した分が全部義援金になるならいいが。 

それに最近、花粉飛散量の予報がTVから消えた。花粉症だと?甘ったれるんじゃねえ!!ということか?花粉症のクシャミも自粛しろ、ってか。

花粉症吹っ飛びベクレル・シーベルト 半句

第十三話につづく

ジャズライフ Richard Elliot “Ballads”

今週はガラッと変わってスムースジャズです。雑貨屋ウィークリー 1456号で初めて紹介したRichard Elliotは、スコットランドのグラスゴー出身のサックス奏者で、スムーズジャズやフュージョンのジャンルで活躍しています。一曲目のHere and Nowは爽やかで美しいサックスの音がとても印象的でとてもリラックスできます。《R.O.》

01-Here And Now  
02-ADIA   
03-Song For Her  
04-When A Man Loves A Woman 
05-All Night   
06-Sweet Dream   
07-I’ll Make Love To You  
08-Judy’s Song    
09-Bridge Over Trouble Water 
10-MIKAYLA’s Smile  
11-Because I Love You   
12-Imagine   
13-Just Me And You  
14-Over The Rainbow  
15-I’m Not In Love-Bonus Track  
16-Saving All My Love For You-Bonus Track

編集後記「セルフレジ」

スーパーのレジでの支払いはクレジットか現金ですが、ポイントが多くつく日はレジは混雑します。でも最近は、セルフレジができて並ばなくて良くなったのでとてもスムースになりました。レジで思い出すのが、北米にいた時のことです。週末にまとめて買い物する人が多いのでレジはいつも長い時間並ばされました。その原因の一つはパーソナルチェック(小切手)で支払う人が多かったからだと思います。現金はあまり持ち歩かないので、たいていの場合はパーソナルチェック(小切手)で支払っていました。小切手に金額を数字でそして同じ額を英語で記入し、サインして支払うのですが、慣れない時はスペルを間違えないように気を遣って書いていました。うれしいことに少しくらいもたついても後ろに並んでいる人に文句を言われることはありませんでした。それにしてもあんな紙切れで支払えるなんて面白い国だなあといつも思っていました。《R.O.》

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