雑貨屋のひとり言「萬古焼のおひつ」
先日、3月に放送された「がっちりマンデー」で取り上げられた萬古焼(ばんこやき)のおひつに心惹かれ、早速注文を入れました。このおひつは、萬古焼特有の緩やかな熱伝導と調湿機能を活かし、余ったご飯をまるで炊きたてのように保つことができます。従来、余ったご飯は冷凍保存するしかありませんでしたが、このおひつなら冷蔵庫で保管し、翌日には電子レンジで温めるだけで、美味しいご飯が再び楽しめます。
この商品は元々評判が良く、人気番組で紹介されたことで注文が急増し、生産が追いつかない状況です。全国からの問い合わせに対応するのにも手一杯で、配送状況の更新はメールで時折通知されます。私の注文したおひつは11月頃の到着予定ですが、私より2日遅れで注文した方は来年の2月まで待たされることになるそうです。手作りで量産が難しいため、生産量には限りがあります。待ち遠しいこのおひつが届く日を楽しみにしています。また、全国放送で取り上げられると、商品への注文が爆発的に増えることを実感し、テレビの影響力の大きさを改めて感じています。《R.O.》
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
七坂を越えて夫婦という絆
そんなことあったね笑い合う夫婦
この俺によくぞ女房の笑い皺
鍵いらぬ性善説の妻でした
モナ・リザよりお多福がいい妻がいい
(ニュースひとりよがり)
「身内から撤退論」
ジョー負けるなよ ーフミオ
「初仕事」
為替介入かな ー 渋沢栄一
「株価 新高値更新」
さすが渋沢さん ー 福沢諭吉
河合成近
龍翁余話(841)「ラジオの思い出」
7月12日の「ラジオ本放送の日」に際し、東京・港区愛宕山にある「NHK放送博物館」に行き、ラジオの歴史と戦後のラジオ番組で翁が子どもの頃、記憶に残る番組を懐古するために同館3階の展示コーナーを訪れた――1925年(大正14年)7月12日は東京放送局(現在のNHK)が本放送を開始した日である(仮放送はその年の3月22日)。勿論、翁はその当時のことは知らないが、とにかく昔の家庭での主な楽しみは『ラジオ』だった。
戦前、龍少年(翁)の記憶では軍艦マーチに乗っての「大本営発表」が(かすか、ではあるが)今でも耳に残っている。戦争への関心を高め、1億総国民を“戦争参加”に扇動させるため「日本優勢」の放送ばかりだった、と、そのことは後年、(大人たちに)教えられたことではあるが、まだ子どもだった翁は「大本営」って何のことか知るはずもなかった。そして『ラジオ』を本当に身近に感じたのは1945年(昭和20年)8月15日の“玉音放送”だった。その詳細は、2016年8月14日に配信した『龍翁余話』(437)「鎮魂と祈り」に詳しく書いたので今号は割愛するが、昭和天皇のお声(終戦の詔書)をレコード規格の録音盤に収録して放送されたもの。当日の正午前から我が家の座敷に集まった近所の大人たちが放送終了後に泣き崩れた情景を今でも思い出す。
翁の『ラジオの(楽しい)思い出』の一番は、何と言っても1947年(昭和22年)に始まったラジオドラマ『鐘の鳴る丘』である。♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台・・・(作詞:菊田一夫、作曲:古関祐而、歌:川田雅子)は子どもばかりでなく大人をもラジオ(機器)の前に集合させた。NHK放送博物館の資料によると「放送の初年は毎週土・日の午後5時15分から30分までの15分、翌年から月曜日~金曜日の連続放送に変更した」とある。1950年(昭和25年)12月末までの約3年半も続いたラジオ連続ドラマであった。
“ラジオ連続ドラマ”と言えば新諸国物語の『笛吹童子』(1953年1月5日~12月31日、毎週月曜日~金曜日の15分番組)や『紅孔雀』(1954年1月4日~12月31日、毎週月曜日~金曜日の15分間番組)も記憶に残る、余談だが翁が子どもの頃に楽しんだこのドラマの出演者で、当時は新人、のちに有名声優・ナレーターとなった黒沢良(ゲーリークーパーの声など)や来宮良子(テレビ東京「演歌の花道」のナレーターなど)が後年、翁の作品にナレーターとして出演してくれたことは実に感慨深いことであった。
ラジオドラマのほかにクイズ番組で『話の泉』、『二十の扉』、『とんち教室』などを思い出す。『話の泉』(1946年12月3日から1964年3月31日までの約18年間も続いた日本初のクイズ番組。アメリカのクイズ番組「Information Please」を真似たものだそうだ。翁がこの番組を(時々)聴いたのは1950年代に入ってから。司会は高橋圭三、解答者はサトウ・ハチロー(詩人)、堀内敬三(作詞・作曲家)、徳川無声(漫談・作家)、山本嘉次郎(映画監督)らを思い出す。NHK放送博物館の資料によると『二十の扉』(1947年11月1日~1960年4月2日の約12年続いたクイズ番組)もアメリカで放送されていた同様のクイズ番組『Twenty Questions』をモデルに、CIE(民間情報教育局=GHQ(連合国総司令部)の1部局)の指導(命令)で製作された番組だったそうだ。司会は藤倉修一(途中で長島金吾と交代)、残念ながら解答者については大下宇陀児(探偵小説家)以外の人は覚えていないが、かなりの人気番組で1953年から(1955年まで)テレビと共に同時放送されたそうだ(当時、学生だった翁、テレビは観ていない)。
もう1つ翁が特に好きだった番組は、1949年1月3日から1968年3月28日まで19年間に亘って放送されたバラエティ番組『とんち教室』である。印象に残っている出演者は青木一雄(司会)のほか石黒啓七(柔道家)、玉川一郎(ユーモア作家)、春風亭柳橋(落語家6代目)、桂三木助(落語家3代目)、渋沢秀雄(元東宝会長、渋沢栄一の四男)、柳家金語楼(落語家・喜劇俳優)らであるが、翁、1966年に映像制作会社を設立した年、石黒敬七氏(1897年~1974年)を一度、杉並のお宅でインタビューしたことがある(ので懐かしい)。
ドラマやクイズ番組のほか、ニュースや中継で幾つかの思い出がある。終戦の年(1945年)の11月に始まった「大相撲中継」、12月31日に始まった「紅白歌合戦」(当時の名称は「紅白音楽試合」)、1946年1月19日からの「のど自慢」(当時の名称は「のど自慢素人音楽会」)、更に思い出に残るのは1949年(昭和24年)6月にロサンゼルスで行なわれた全米水泳選手権に参加した古橋広之進が400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を樹立した時の中継放送だった。当時のラジオ性能や電波事情が悪かったせいか、途切れ途切れではあったが実況アナウンサーの絶叫が龍少年の心を躍らせたばかりでなく日本中のリスナー(ラジオ聴取者)を歓喜の渦に巻き込んだ。アメリカの新聞は「フジヤマのトビウオ」と称賛した。
再びラジオ連続ドラマの話――戦後のラジオドラマ史の中で最も脚光を浴びたのは1952年(昭和27年)4月から1954年(昭和29年)4月まで続いた『君の名は』(菊田一夫作)だろう。何しろ放送時間帯(毎週木曜日20時30分~21時)には女風呂が空になったとか。翁、その時期は神戸遊学(中学~高校)の時期だったから一度も聴いたことがない。ともあれ「ラジオは聴く人に特有のイメージを喚起させる、いわば“鼓動”を生む媒体である」故に翁、ラジオにもっと親しみたいと思う今日この頃・・・と、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「大人の休日倶楽部 (5日間、連続日帰り旅)」
1日目 6月24日(月曜) ファミリーヒストリー編 北海道 函館北斗へ自分の身内が1人欠け2人欠け、だんだんいなくなってくると今頃になって、ふと自分のルーツが気になることがある。そして自分の存在を意識し始める。私は祖母に性格や外見が似ていると言われ育った。そんな祖母とは反発する部分もあったけれど刺激的で個性的で面白い人でもあった。そんな祖母は幼少の頃、早く母親を亡くし、しばらくして父親と生き別れになったらしい。そして祖母から、その父親の話は殆ど聞いた事がなかった。祖母の父親と別れてその後、祖母と祖母の弟は誰が面倒を見てその後祖母の父親は何処でどのように生きたのだろう、、、
そんな興味が出てきて祖母の父親のお墓探しに弟と車で栃木を訪れたのが流行り病の前の年、、、それから、あっという間に数年が過ぎた。
その祖母の父親の足取りを辿る為に何の当てもなく役所に行って昔の住所と今の住所を聞きながら車で祖母が過ごした田舎町を車で走った。道中、道を尋ねようと庭で水撒きをしている女性に声をかけた。偶然そこの家が祖母の父親の本家だった。私達が見せた戸籍謄本を見て“うちにも同じものがあります”と驚きの表情で突然現れた訪問者にも関わらず私達を家に入れてくださった。そして本家の立派なお墓にも案内してくださった。後日、祖母の父親が写っている家族写真を送っていただいた。そこには初めて見る祖母の父親がその時代には珍しい7、3に髪を分けたケネディカットで着物を着て写っていた。そして本家の人から私達と同じ立場の人が北海道にいるので、いつか紹介しますと言われていたのだ。不思議なもので向こうのお孫さん達も同じように自分たちのルーツ探しをしたらしくその子孫の方が栃木の本家に尋ねてきたらしい。それも偶然が重なり合い導かれたような感じだったらしい。
100人いれば100通りの生き方があって皆、其々自分が主役の舞台で人生を生きている。平々凡々と生きた人もいれば波瀾万丈な生き方をした人もいる。祖母は明治、大正、昭和、平成と激動の時代を生き抜いてきた人であり自分の人生は小説にもなるくらい、いろいろあったのだとか、、、祖母より先に自分の息子である私の父が亡くなってから母はそんな祖母の話をポツリポツリ聞いていたらしい。
というわけでファミリーヒストリーを知りたくて東京から新幹線で函館北斗まで4時間ちょっと、遠い親戚に会いに出かけた。久しぶりの新幹線の旅、今日は長旅になるな〜と覚悟して3列席の通路側に座った。間も無く私の隣にご夫婦が座られた。“こちらの座席、いいでしょうか?”と尋ねられたのですぐに席を立って”どうぞどうぞ“と笑顔で答えた。第一印象は大事だ。初めて会ったのにお互いにとても話しやすく感じたと思う。ちょうど終点の北海道北斗まで一緒だったので道中、いろいろな事を話した。
私が今回の旅の目的を告げると旦那様も同じように自分の遠い親戚を探し尋ねた事があった話や病気の体験や良いお医者様と巡り合った事や食と健康の話、いくつも共通した体験があった。そして旅で感動した場所なども教えてくださり次から次と話題に花が咲いた。途中でそのご夫婦の家の庭で採れたトマトやおにぎりまで頂いてしまい何ともほっこりした気持ちになった。そしてあっという間に函館北斗に到着した。
ご夫婦の方は“私達は、もう歳ですからフェイドアウトしていく途中です。もし、まだ生きていたらお会いしましょう”と連絡先を頂いた” そして、そこでそのご夫婦とは別れた。駅の改札に行くと初めてお会いする遠い親戚の人が迎えに来られていた。そして、その方のご自宅に案内してくださり、その方のお父様が亡くなられてから自分で調べ家系図を作られたのだとかで、その家系図のコピーを頂いた。その後、海の見える小高い丘にある、お墓に案内してくれた。そこで祖母は1度も訪れる事がなかっただろう祖母の父親が眠るお墓で花を飾りお線香を立てた。そして祖母の代わりに手を合わせた。その後、函館のレストランでランチをして夕方、また新幹線で東京に戻って来た。行って良かった。祖母や祖母の父親が生きたその時代、その周りの人間模様、環境など何を考え、どんな風に生きたのだろうと思いを馳せてみた。何でわざわざ北海道まで行ったのか、、、私にも良くわからない。
私が突然思い立って行動する時は頭で考えて動くという思慮深さというものは、あまり持ち合わせていない。何か思いつきとか感覚で動いてしまう。自分の中の好奇心や興味が行動に駆り立てるのだ。旅は地元の美味しいものを食べたり、そこで見れる自然の風景を楽しむのもいいけれど人との出会いは、もっと人生をカラフルにするものだ。
スパイス研究家 茶子
逃げ場のない国 震災余話 井出半句
第六話 町の様子・水道復旧
大震災から9日目と10日目のメールです。
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Date: Sun, 20 Mar 2011 22:24:49 -0700
ご心配かけた皆さまに近況を報告します。シリーズで小分けにして送ります。
被害の大きい部分は報道でご存じの通りなので、私の身の回りのことです。
1.ひたちなか市(福島原発から120Km南)の我が家の現況:
今回の震災で比較的被害の軽度なひたちなか市ですが、井出家は断水、ガス欠、原発避難者5人を受け入れなどで動きがとれない状態が続いている。徒歩5分のスーパーも食料などを売りつくし閉店。
水道は近くまで来ているが、道路の陥没などで復帰工事が遅れている。市では3月末までには、といっている。ガソリンを購入するには3時間並び、やっと2,000円分の給油券をもらわねばならない。
燃料は東北の被災地優先なのでこちらは品薄、2,000円X300台で一日の営業は終り。まあ、家と米、貰い水があればなんとかなるだろう。
2.マンションの近所付き合い
普段、隣の人と会うこともないマンション生活ですが、飲料水が残っているタンクから7時と16時に分けあうため井戸端会議状態となり、情報共有、助け合いの機運が高まる。若い家族の名前、家族構成、勤め先なども分かってきた。原研、原発のある隣の東海村で働いていたエンジニアも2,3人いるためにチェルノブイリと福島の違いについてプリントを使って説明してくれる。(以下重複するので中略)
3.勤め人、町の状況
2週間目に入ってもこの付近の会社は、水もなし、損壊が激しく休業しており従業員は自宅待機。保全、営繕等の部門が復帰を目指している。以前勤めていた会社も昔私が座っていた管理棟の3階付近が崩落。日本全体の復興はいつのことやら。
町の商店も飲み屋もほぼ閉店。コンビニは流通し始めた。福島県いわき市の人から電話あり、原発の風評被害で物が届かずコンビニも閉店、ゴーストタウンだと。
井戸水をつかって弁当(500円)を売る店がちらほらある。ガソリンがないために車の数は少ない。自転車が目立つ。
4.家屋、道路
散歩がてら我が家の避難者(小4、高2、甥、兄など)をつれて3Km離れた那珂川に行ってみた。水戸と大洗町につながる橋は道路が陥没して段差ができて通行止。河口から8Kmのところだが、津波で押し上げられた瓦礫が散乱。大洗の津波の高さは4.7mだった。付近の地割れもひどい。液状化現象もみられる。その近くにある水道施設がやられ、JRの線路はぐにゃぐにゃ。不通となっている取手と水戸間で500か所の損壊ありと。復旧見通しがないので27日出発予定だった尾道・山口方面の3泊旅行はキャンセル。もっとも兄家族を置いて行けるわけもないが・・・今年はさくら前線を追うのは困難。我々が渡米前に住んでいた持ち家(現在は賃貸中)の屋根瓦も壊れた。町中のほとんどの石塀は崩壊している。
春のゆめ否これうつつ大津波・・・(大災害なのだが、信じられない、信じたくない)
避難所の毛布一枚冴えかえる・・・(季重ね。避難所の着の身着のまま冴えかえる、が良いか)
貰ひ水すその春泥かへりみず・・・(なりふり構っている場合じゃない)
半句
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Date: Mon, 21 Mar 2011 05:43:42 -0700
興味のある人だけ読んでください。
水道復旧
3/21午後2時 水道復旧なる。 10日目だ。いや~これですっきり!!
私はお通じは良い方なので時間がくればつるりと一発だが、家内などは慣れない大家族の中でのトイレ使用で四苦八苦だった模様。バケツの水を注ぎながらプカプカ浮かぶものを流すのはつらい。便器は水槽のないタイプなので、バケツの水だけで流すのはコツがいります。トイレットペーパーは流れないから、メキシコのようにゴミ箱へ。水は回転するように、そしておっかなびっくりではなく溢れんばかりに注ぐ・・・溢れるとみじめです。それでも小学校に避難した近所の人は、グランウンドに掘った穴で、若い女性とカーテン一枚隔ててだった、と。それに比べりゃ我々はウンがいいわい。食事中の人、ゴメン!
風呂の話
水道が開通するまでの10日間は風呂に入れない人ばかり。我が家の300m先にある会員制スポーツジム(夫婦で会員になっている)は断水でも井戸水使用なので、三日目に電気回復した翌日から会員以外にも風呂を無料開放。ただし寒さの中で2~3時間待ち。建屋に入ってさらに1時間待ち。会員から苦情が出て会員優先レーンがその三日後にできた。それでも1時間待ち。その後、寒い中を待たせるのも可哀そうと時間別の整理券発行。一日千人分。これを貰うのにまた2時間待ち。会員である私ら夫婦は不要だが、我が家の避難民のために私も並びました。私ら夫婦が代理で並んでいる間に兄と甥はガソリンスタンドの列で3時間待ち。まるで社会主義か共産国、もっとも中国では列にならず怒号と押しくらまんじゅうだが・・・。この非常事態でも日本人は静かにじっと待つ。それにしても日本人の清潔好き風呂好きは病的ではないか?長年住んだ米国ではまず考えられまい。特に女性の列が長い、ただし夕食時は女性が少ない、という発見もあった。
出産の経験のない家内は、この歳ではじめて0歳児の赤ちゃんを抱えて風呂に入ったそうです。知らない若い母親が髪を洗う間だけでしたが・・・。
ついでに女風呂の話。覗いたわけではなく家内の話なので念のため。「すごいものを見てきた」と家内。30代の子連れの女性がはしゃぐ子供を叱りつけるので振り返ると、なんとその女性の背中に見事な「登り龍」の入れ墨が・・・一同、熱い風呂の中で凍りついたそうです。
当然「入れ墨の方は入浴お断り」となっているが、一般開放のための珍事となった模様。
災害時の情報
地震発生直後から二晩は暗闇の中でろうそく生活だったが、カセットラジオ用の大型電池(単一)は手持ちなし。アメリカから持ち帰った手回しジェネレータのラジオが役立った。ただし、充電の容量は小さいのですぐにふにゃふにゃと音が消える。またジーコンジーコンと回す。NHKはまず東北地方主体の津波の高さの予報を流す。被害が分かるのは翌日だが「かなりの被害」だけで規模が分からない。市役所の放送は沿岸部の避難呼びかけだけ。他は何もない。そのうちに茨城放送が少しずつそれも翌日の夕方になり、家屋倒壊で死亡者、大洗、北茨城の津波の高さなど。ひたちなか市と大洗は津波が押し寄せるまで1時間近くあり結局死亡者はなし。30分で津波来襲の北茨城市の港では10名近くさらわれて死亡・行方不明、と明暗を分けた。この間、携帯はまったく繋がらず役立たない。三日目の午後になって通電し、倒れたTVを起こしてSW ON。東北の被害の大きさに唖然。兄の家族の安否はつかめず、5日後にいきなり「伯父さん、いま村を脱出しました。そこでお世話になります」という電話が最初だった。地震・津波に追い打ちを駆けるような原発爆発で村長が退避命令を発令したと。川内村に対する国の指令はいまでも「屋内退避」。国民の命を守るどころか、避難範囲を最小規模にして不幸最小社会ならぬ補償最小社会を目指しているとも見える。村長は、国の指示以上のことをしたので県や国の役人から避難にあたりサポートはなく個別交渉で避難場所を決めたとのこと。村長さ~ん、がんばれよ~。応援してっつお~!!(しているよ、の方言)
春の海なにゆへ二万の命飲む
井出半句
第七話につづく
ジャズライフ Mulgrew Miller & Niles-Henning Orsted Pedersen ‘”The Duo”
今週は音の響きが心地いいピアノジャズにしました。アーティストはアメリカのジャズピアニスト、Mulgrew Millerです。Duke Elington生誕100年を記念して企画されたアルバムです。落ち着いたピアノがとてもいいと思います。《R.O.》
1-C Jam Blues (Duke Ellington)
2-Sophisticated Lady (Duke Ellington)
3-Pitter Patter Panther (Duke Ellington)
4-I Got It Bad (Duke Ellington)
5-What Am I Here For? (Duke Ellington)
6-Mood Indigo (Duke Ellington)
7-Blues in The Pm’s (Mulgrew Miller)
8-Come Sunday (Duke Ellington)
9-Just Squeeze Me (Duke Ellington)
10-Solitude (Duke Ellington)
11-Caravan (Duke Ellington)
12-O. D. Blues (Niles-Henning Orsted Pedersen)
編集後記「脳と身体にいい卓球」
卓球は、私が3月から健康を意識して始めたスポーツで、私にとって非常に合っているようです。この小さなボールを使ったゲームは、限られたスペースで行われるにもかかわらず、娯楽と競技の両面を楽しむことができます。72歳で未経験から始めた私でも楽しめるのは、卓球の大きな魅力の一つです。速いボールに迅速に反応し、素早い動きが求められるため、脳と体の両方に良い運動になります。スピードとテクニックを磨くことは、チャレンジャブルでありながらも楽しいプロセスで、このスポーツを継続する動機にもなっています。さらに、友人や家族と気軽に楽しめ、良いコミュニケーションを築ける点も、卓球の素晴らしい特徴です。《R.O.》
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