雑貨屋のひとり言「楽しく生きる」
街を歩いていて、「あの人は毎日が楽しそうだな」と感じることがあります。表情が明るいとか、服装がおしゃれだとか、そういうことではありません。なんとなく全身から、前向きなエネルギーが伝わってくるのです。
では、楽しそうに生きている人と、そうでない人の違いはどこにあるのでしょうか。私が思うに、それは「楽しいことを常に探しているかどうか」です。
子どもの頃、遊び場なんてなくても、空き地や段ボール箱ひとつで想像をふくらませて遊べました。あの頃は誰もが“楽しいことの探求者”だったはずです。けれど大人になると、生活や仕事に追われて、楽しみは“与えられるもの”になっていきます。休日にイベントがあれば参加し、話題のレストランを予約する。もちろんそれも素敵ですが、本来の“楽しみ”はもっと自由で、もっと能動的なものではないでしょうか。
私の場合は、世界中のジャズをできるだけ多く聴いてみたいと思い、当初は近所のTSUTAYAを巡ってジャズCDを探していました。けれど次第に限界を感じていたところ、数年前にストリーミングミュージックに出会いました。専用ストリーマーを使えば、いまでは世界中のジャズを高音質で楽しむことができます。昨年からは卓球も始め、毎週の練習で少しずつ腕を磨いています。最近は、楽しさの中に卓球の奥深さを感じられるようになり、それがまた新しい喜びになっています。
小さな「楽しい」を拾い集めていると、不思議と心が軽くなります。結果として、日常全体が少しずつ明るく見えてきます。
楽しそうに生きている人は、きっと“楽しいことを見つけに行く力”を持っているのだと思います。《R.O.》
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
キーボード指八本は遊んでる
八起目を破れ太鼓に励まされ
真空管ラジオに八月の涙
八十の手習いもよし長寿国
百八つ鐘撞いてなお人の業
(ニュースひとりよがり)
「定員削減年内ならず」
一丁目一番地でつまずいた — 日本維新の会
「年収の壁越え」
また私が踏み台ですか — 赤字国債
「過去2番目の低視聴率」
べらぼうめ — 蔦重
河合成近
龍翁余話(913)「東京タワー」

12月23日は『東京タワー完工の日』である。翁、『東京タワー』には幾つかの思い出がある。テレビドキュメンタリー番組を手掛けていた翁がテレビ東京(旧「東京12チャンネル」が1981年10月に「テレビ東京」と商号変更直後)の「金曜スペシャル」や他のドキュメンタリ番組でお世話になった当初、テレビ東京本社スタジオは『東京タワー』の麓(港区芝公園18号地)にあり、その頃、翁はランチやミーティングで(テレビ東京のプロデューサーたちと)よく『東京タワー』を利用していた。(テレビ東京本社は1985年12月に港区虎ノ門4丁目に移転)。“『東京タワー』を利用していた”と言っても高所恐怖症の翁、『東京タワー』(高さ333m)のメインデッキ(地上150m)のカフェまでが精いっぱい、360度の展望台トップデッキ(地上250m)まで上ったことはなかった。九州や京阪神の親戚や友人が東京見物にやって来た時、翁の車で都内各所の名所旧跡を案内していたが、当時は“東京タワー見物”が客人たちの最大目的だった。翁は客人を展望台行きエレベーターまで連れて行き、彼らが降りて来るまで駐車場で待機するのが常だった。
『東京タワー』もう1つの思い出は――(話がちょっと本題からはずれるが)翁、30歳で映像製作プロダクションを興し、原宿・千駄ヶ谷に近い場所に賃貸マンションの自宅兼オフィスを設けていた。36歳で初めて(2LDKの)マンションを購入した。その場所は、JR五反田駅から徒歩5分の便利の良い場所だったが、何しろ当時の五反田駅周辺は飲み屋が多く、夕刻になると酔っ払いが溢れ、しかも駅近くを流れる目黒川の橋は鼻をつまんで急ぎ足で通らなければならないほどの汚染川だったので、環境的には“住み良い場所”ではなかった。そして40歳の時、知り合いの不動産屋に薦められたのがJR五反田駅から徒歩15分、池上線・戸越銀座駅から徒歩4分、中原街道沿いの(某地方銀行が建設した)現在地“西五反田”。購入するかどうかの意思決定をする前に大手建設会社の幹部だった翁の親友・I君に調べて貰ったら「10階建ての小振りだが、なかなかしっかりした建物、(翁が薦められている部屋は最上階の1001号室)東側にはリビングから手が届くほどの近さに感じる『東京タワー』、西側には左手に横浜みなとみらい街の“ランドマークタワー”、右手には“丹沢連峰”とその背後に“富士山”が見え、環境的には素晴らしい場所です」との診断で翁、早速購入を決意、現在に至るのだが、購入後の3年間は朝起きて、東側の朝陽に輝く(当時)世界一高い電波塔『東京タワー』に向かって“今日1日を頑張るぞ”と挨拶し、西側の遠くの“丹沢連峰”と後ろに姿を見せる“富士山”を遙拝するのがルーティン(習慣的・定型的な行動)だった。ところが3年後に翁のマンションの周辺には雨後の筍みたいに大小マンションやオフィスビル、病院などが建ち並び『東京タワー』も“丹沢”も“富士山”も視界から消えてしまった。今、辛うじて見えるのは“横浜ランドマークタワー”だけ。あれほどハイカラだった我がマンションも今や翁と同じ“老いぼれ”になってしまった。
さて――『東京タワー』は1958年(昭和33年)12月23日に竣工。当時は世界一高い電波塔で東京のシンボル、観光名所としてその名を轟かせた。その後、マレーシア・ロシア・カナダ・中国・ドイツ・オランダ・アメリカ・スリランカなどに『東京タワー』の333mを超える高さの塔が出来、更に2012年に「東京スカイツリー」(634m)が完成して世界一となるや『東京タワー』は何と世界第24位の高さにランクダウンさせられてしまった。ちなみに、あの有名なパリのエッフェル塔(1889年、324m)は第30位である。

何でも高ければいい、と言うものではない。やはり姿、形が美しくなければ観光スポットとは言えない。その点『東京タワー』は2018年に“グッドデザイン賞”に輝いたほどの美しさ。その賞は、単に“見栄えがいい”だけではなく、ビジネスモデルや各種イベント活動の内容までが評価対象となっている。『東京タワー』は建設以来、ことあるごとに“世の中の動きに合わせたタワーデザイン(ネオンサイン)”や“イベント”を展開して来た。それは現在でも続いている。例えば「ウインター・ファンタジー(クリスマスイルミネーション)(写真)、「初日の出を見る会」、「今年の“顔展”」、「600段外階段ウオーク」、「天空茶道会」、「タワー大神宮の御朱印授与」ほかに音楽ライブや○○ショーなど幅広い活動を行なっている。
ところで――『東京タワー』は今年12月23日で丸67年目を迎えるが、その人気はいささかも衰えてはいない。某調査会社の「東京観光スポット人気ランキング」を見ると、1位 豊洲にあるデジタルアートミュージアム「チームラボプラネッツ」、2位「東京スカイツリー」、3位「浅草寺」に続いて4位にランク付けされている。しかも日本人ばかりでなく、外国人観光客の評価も高い、と言うから嬉しいではないか。高所恐怖症の翁は(勿論、まだ一度も上ったことはないが)「東京スカイツリー」よりも『東京タワー』の方が好きだ。それは、翁が大分~神戸を経て東京人になってからずっと見守ってくれた『東京タワー』に対する深い懇親の情があるせいかも知れない。翁の生が続くならば3年後(2028年)の70年記念年には250mの展望台に上り“東京人・龍翁”を育て生かしてくれた東京の街に向かって思いっきり「ありがとう」を叫びたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「感動の再会」
” 私の命を救ってくれたあの先生に、もう1度会ってお礼が言いたい “ 母がそう言って私に催促し始めたのは、この秋LAから日本に戻ってきてからの事。
夏の間、母とLAで過ごしていた時に暑中見舞いを先生に出したら先生から直筆で返信を頂いた。通常は10年以上も前に手術した1 患者などに返答などしてくれない。
先生はメディアでも有名でTVにも度々出演なさっていて本も数冊書かれていて病院では外科手術のトップだった。だからとても嬉しかったし感動した。
“ 私が生きているうちに、まだ元気な内に先生に会いに行かないと意味がないから早く連れて行って ” と度々母からリクエストされていた。
母の9時間半に及ぶ手術の執刀医は、その先生だった。当初、母の主治医だった消化器内科の先生では手に負えないくらいあちこちに問題があって検査入院を勧められていた。
ところが病院のベットは満室で10日を過ぎても空く気配がなかった。そんな時、自宅で待機してる最中、母の容態が悪化して緊急でタクシーを呼んで病院に向かいそのまま入院になってしまったのだ。
その日は金曜日の夜、殆どの先生はいない。月曜日の朝までは何も出来ない。
点滴を打ちながら母は病院の上のフロアの個室に数日いた。まるでホテルのようで食事から置いてある洗面道具やタオルまで上級クラスのものだった。1泊、何万円もする部屋の支払いに当初は戸惑ったけれど病院の都合でそこに入った場合は普通の料金になる事を後から知ってホッとした。緊急入院になった母でさえ“ あのとき食べた魚料理は本当に美味しかった”と今だに言うくらい料理も部屋も素晴らしかった。
週末の病院は入院患者さんの家族や友人達が訪れるくらいで病院はひっそりと静かだった。そんな病院の1階にある小さな図書館で私は母の病気を調べたりしていた。その隣には本屋さんがあって日曜日は閉店していた。その誰もいない本屋さんのガラス窓をふと見上げると一冊の本が飾られてあった。
その本が母の手術を引き受けてくださった先生の本だった。それが運命の出会いに繋がったのだ。
その先生が今まさに母が入院しているこの病院にいる事、そして母の病気の専門医である事もビビビっと感じるものがあった。“ この先生だ! ” 私は1人で呟いて、その先生の写真を食い入るように見つめた。
ただ、どうやってその先生にお会いしたらいいのかもわからなかったし、悶々と不安な週末を過ごしていた。
そしてやっと来た月曜日の早朝、母の部屋のフロア行きのエレベーターの前で待っていると白衣を着た先生が私の横に立たれた。ふと見ると何と昨日、見た本の先生だったのだ。その瞬間、その場で先生に母を見てくださいと懇願した。
先生は快く承諾してくださった。“ 今日は午前も午後も患者さんの予約で一杯だから、お昼少し前に私の所にいらっしゃい、秘書には伝えておくから “ と言ってくださった。
先生は病院でも患者さん達からも信頼されている権威のある方だったのでその病院の患者さんの全てのデーターを見て判断し行動に移す事が出来た。それから即刻、母の手術に必要なチームが作られ既に予定に入っている手術と手術の合間に母の手術を入れてくださった。母の手術は他の臓器専門の執刀医も加わり、その先生と交代で9時間半もの長くて大変な手術を無事に終える事が出来たのだ。
そして母の手術が決まってから退院するまでの45日間、先生は毎日母の様子を見に来てくださった。患者さんは先生お顔を見るとホットするようで病室に先生が入って来られると先生の後光に部屋が照らされているようにパッと明るくなった。普通、あのくらいの大先生になると後ろにゾロゾロお付きのドクターが付いてくる。でも先生は超忙しかったので1人でも時間があれば行動しサッと母の病室にいらしてくださる時もあった。先生は今、執刀医の現場から離れられ近代的なビルの中にあるクリニックで内科医として働かれていた。
そのクリニックの受付に電話をすると個人の要件はお受けできないので直接先生と連絡を取ってくださいと言われてしまった。先生の個人的な連絡先などわからない。後は、もうダメ元で先生のいるクリニックに行くしかなかった。
そして先生から頂いたお手紙を持って受付に行き少しでも時間が出来たら私たちはここで待っているので一目でも先生にご挨拶させてくださいとお願いした。
もしダメだったらその時は諦めて帰るつもりでいた。受付の女性から手紙の確認をしていいか聞かれたので先生から頂いた手紙を差し出すと受付の女性は先生のアシスタントの人と連絡を取ってくれた。
祈るような気持ちで待っていたら”今ちょうど先生は次の患者さんまで少し時間があるので先生のお部屋にいらしてください“と連絡が入った。
10何年ぶりにお会いした先生はちっとも変わっていなかった。いい笑顔でお元気そうだった。”あの頃は忙しかったけれど楽しかったな〜“と懐かしそうにおっしゃっていた。
本当に母にとっても先生にとっても感動の再会になった日だった。
スパイス研究家 茶子
小春の気ままな生活 第五十話「テネシー・ライブラリー」
今週の半ばから、テネシー東部は少し気温が上がり外にも出やすくなりました。我が家の猫は、外の気温が寒いと思っているのでしょうか、最近は外に行きたがらなくソファーで気持ち良さそうに寝ている日々を過ごしています。
さて、昨年テネシーに引っ越してきてすぐに近所の図書館でカードを作って来ました。近所の図書館は小さいので置いてある本もあまり興味の湧く本がないのですが、テネシー州のデジタルライブラリーにアクセス出来ます。このようなシステムは、日本でもアメリカでも先進国ならどの国でも充実しているのではないでしょうか。カリフォルニアに住んでいた時も、ロングビーチ・トーランス・パロスバーデスで図書館のカードを持っていました。特にパロスバーデスの図書館は日本語の本も沢山ありましたが、オンラインでは日本語の漫画なども豊富でした。テネシーに引っ越してから、オンラインでの検索が上手に出来なかったこと、人気の本や雑誌は順番待ちが掛かることなどから頻繁に利用していませんでした。ふと、先々週くらいに再び検索してみたら、日本語の雑誌が沢山載っていました。それも最新版で家庭画報など米国の本屋さんで買うととても高い雑誌も読めます。ファッション雑誌(ヴァンサンカン・an-an・ku:nel等)や料理雑誌(dancyu・オレンジページ・クロワッサンなど)そのほかの分野も126 タイトルが載っています。文学本などは見つかっていませんが、こんな田舎に住んでいて日本語でYouTubeも見れ、日本語の活字にも触れることが出来る事はなんて幸せな事でしょう。年寄りの話し方になりますが、私がアメリカに来た80年代はそれこそインターナショナルのテレビ局があることも知らなかった為、ロサンゼルスに居ても日本語に触れることが全くなかったのです。東京銀行に行く機会があった時、初めて日本語のフリー新聞を見つけ頂いて来た時は感動したのを覚えています。今は、ニュースはネットを見ればほぼ瞬時に起っていることがわかります。その反面、様々な情報が溢れているので自分で情報を正しく見極めたり、鵜呑みにしない判断力を養わなければいけません。

そんな中、図書館での日本語の雑誌が読める事は、とても喜ばしい事です。最近はテネシー州に日本の企業も沢山あります。重機のクボタ・三菱重工・豊田通商・DENSO・ブリヂストンなどの影響なのでしょうか。ありがたい事です。
それではまた来週。
小春
ジャズライフ Queralt Camps “Triple Treat”
スペイン出身のベーシストQueralt Campsの”Triple Treat”の紹介です。このアルバムを聴いた時、いつもと何かが違うと感じました。ドラムレスジャズトリオ編成です。
20世紀半ばにはナット・キング・コールなどのドラムレストリオが人気を博したそうで、そのスタイルを現代に継承したプロジェクトだそうです。
このアルバムの最大の特徴は、「心地よいスウィング感」と「親しみやすさ」だと思います。本格的なジャズでありながら、聴き心地が非常に良く、リラックスしたい時やカフェのような空間にもマッチすると思います。同時に、各楽器の音色がクリアに録音されており、プレイヤーとしての技術の高さも存分に楽しめると思います。《R.O.》
1-Two Different Worlds
2-My Inspiration
3-F.S.R
4-Up There
5-Venice
6-These Are Soulful Days
7-One for the Woofer
8-Alone Wiht Just My Dreams
9-Watch What Happens
10-Ray’s Idea
11-Things Ain’t What They Used to Be

編集後記
先週、小学三年生の孫二人が、一緒に通っているバスケットボール教室の帰りに我が家へ寄りました。夕食のあと、久しぶりに三人でお風呂に入りました。ところが、以前よりも風呂場がとても狭く感じて驚きました。小さく可愛かった孫たちはいつの間にか大きく成長していたのだと、あらためて気付かされました。この調子では、孫たちと一緒にお風呂に入れるのも、もう来年は難しいかもしれないと思いました。《R.O.》


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