雑貨屋のひとり言「サポート詐欺に遭遇しました」
先日、ネットニュースで記事を読んでいたときです。記事をスクロールしていたら突然、画面上に「あなたのPCはウィルスに感染しています」と画面に警告が出てきました。
警告音のような音も出ていたと思います。画面はフリーズしブラウザーを終了しようとしてもできません。Microsoftからの警告とあるのですが何か怪しい感じがしました。初めての経験だったので一瞬、戸惑いましたが、私はこんな詐欺があることを聞いていたので、トラブルになる前に、PCの電源をオフにして、リセットすることにしました。再起動後は出てこなくなりました。警告を読むとサポートの電話番号に連絡するように書いてあります。絶対電話してはいけません。カーソルも警告画面のところしか動かないので何もできない状態になります。つまりサポート電話番号のところにかけさせるように誘導しているのです。他人事だと思わないでください。もしこの警告が出てきたら、書いてあることは無視して次のように対処しましょう。
対処1)
キーボードの左上にあるESCボタンを押します。するとブラウザーの右上に✖︎ボタンが出るのでそれでブラウザーを閉じます。
対処2)
これでできない、うまくいかないときは
ESC、Shift、Ctrlボタンを同時に押すとタスクマネージャーが出てきます。そのリストに今、開いているブラウザー(例えばGoogle Chrome)が出てくるので、それを閉じます。
対処3)
わからなかったら私がやったPCの電源ボタンを長押しして電源を切ります。
これでリセットされるので、次から出てきません。
動画で詐欺サイトの実情がわかります
“サポート詐欺”と分かって電話してみたら…窓口に3人の「マイク・ミラー」 記者が直撃 /(2023/06/01 OA)
【だまされるな!】実際に電話をしてわかったサポート詐欺の手口
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
もういいかい土手の土筆が風に聞き
タンポポの空き地にビルの設計図
雑草の根が踏まれても踏まれても
一筋の道野の花に励まされ
風に泣き風に笑った葦の詩
(ニュースひとりよがり)
「尊富士、大の里」
うちにはそんな新鋭はいないよな ― 自民ベテラン
「異次元」
大相撲にお株を取られた ― 岸田首相
「水原一平事件」
まさかのシナリオもあった ― 大谷劇場
河合成近
龍翁余話(826)「気象庁と桜の標本木と靖国神社」
気象庁は「3月24日が“東京の桜の開花日”」と予想発表していたが、24日午前8時現在では、まだ“宣言”は出ていない。直前の寒気の襲来で平年並みとなったようだが、それでももう時間の問題だ。気象庁では、東京の桜の開花日宣言・満開日宣言は、靖国神社の境内(神門をくぐって直ぐ右側の能楽堂の手前)にある『標本木』の桜(ソメイヨシノ)のつぼみが5,6輪以上の花を咲かせた時が“開花日”、『標本木』の桜のつぼみが約80%以上開花した状態になった時を“満開日”としている。
気象庁と桜の関係――気象庁は1875年(明治8年)に東京気象台(後の中央気象台)として発足。1923年(大正12年)に麹町区(現在の千代田区の1部)竹平町(現在の一ツ橋)に庁舎を構えた。東京の桜の観測は1927年(昭和2年)から、と言う記録もあるが、本格的に観測し出したのは1953年(昭和28年)から。なお、中央気象台が気象庁に改称されたのは1956年(昭和31年)7月。そして(それまで桜の『標本木』は気象庁の敷地内にあったのだが)1964年(昭和39年)3月、気象庁が竹平町から大手町1丁目に移転した年、気象庁から遠くなく、また土地開発の影響が少なく長期の観察が可能な場所、と言うことで靖国神社の桜が選ばれたとのこと――同神社の話によると、現在の『標本木』の樹齢は不明だが選定された時はすでに成木、それから今年で60年も経っているので当然、老木化しているが神社としては丁寧な保持・管理作業を行なって樹勢の衰えを防いでいると言う。しかし(気象庁では)台風などの自然災害でいずれは観測不能な事態も起こり得ることを考え、代わりの『副標本木』を用意しているそうだが、その所在は明らかにされていない。
余談だが、1964年と言えば、4月1日「日本人の海外観光渡航が自由化」――翁の初めての海外取材(7日間の東南アジア)が翌月の5月。当時の米ドルレートは、1ドル360円、日本からの持ち出し限度額は500ドル(18万円)だった。翁が東南アジア取材を終えて間もなく6月16日に「新潟地震」――翁が被災地(新潟市内)を取材したのは地震発生から2か月後の8月下旬だった。今でも記憶に残っている惨状は(市内)信濃川左岸の県営川岸町アパートが液状化現象によって8棟のうち3棟が大きく傾いたままだった。また、信濃川に架かる橋のうち、1929年(昭和4年)に架けられた古い橋・万代橋(コンクリート橋)は多少の被害はあったが車両の通行が可能な状況にとどまった。一方、新しい橋・昭和大橋は(地震発生が)竣工の1か月後だったにもかかわらず橋桁が倒れ橋脚2本は砂に飲み込まれ(流され)壊滅状態。工事のずさんさが問題になった。翁が撮影した写真ではないが、この昭和大橋の落橋写真は“被害の象徴”として全国(もしくは世界中)に拡散されたと言う。なお、「新潟地震」の震源は新潟県栗島南方沖約40km、規模はマグニチュード7.5、最大震度6強、日本史上、最大級の石油コンビナート災害のほか、市街各地の被害も目を覆うばかりであったが、死者は26人、負傷者447人、世界のメディアから「奇跡」と報じられた。「新潟地震」後、9月17日「東京モノレール開業」(片道250円)、10月1日「東海道新幹線開業」(東京―新大阪ひかり2,480円、こだま2,280円)、10月10日~24日「東京オリンピック」(93の国と地域、選手数5,152人、男子柔道が初めて正式競技に認定。なお女子柔道が公式種目になったのは1992年のバルセロナオリンピックから)・・・以上、余談で長々と“出来事”を取り上げたのは、実は1964年は翁のドキュメンタリー映像作家としての出発年(忘れ難い年)であるから。忘れ難い、と言えば、もう1つ――
翁、靖国神社御創建130年記念年の1999年4月から2009年の3月までの10年間、“やすくにの祈り ともに未来へ”の標語を提唱して靖国神社の広報活動に協力(映像製作・講演・エッセイなど)、靖国神社の重要な年間祭事1月1日「若水奉奠~新年祭」、2月11日「建国記念祭」、4月21日~23日「春季例大祭」、6月29日「御創立記念祭」、7月13日~16日「みたままつり」、8月15日「終戦記念日」、10月17日~19日「秋季例大祭」などには我が社の撮影クルーを派遣し、祭事の全てを収録した。映像制作の中で特に忘れられない(翁が手掛けた)作品の1つに『ドキュメンタリー戦史映画・私たちは忘れない~感謝と祈りと誇りを~』(50分)がある。〇明治維新を成功させ欧米列強の脅威から日本の自主・独立を守り抜いた日清・日露の大戦〇満州事変の真実〇日中全面戦争の背景(米英仏ソの暗躍)〇日本参戦を仕掛けた米国の陰謀〇東京裁判の不当性〇祖国日本防衛のために散華した若き将兵(英霊)たちの思いに迫る、などの内容。が、これは、いずれも、日本側の視点であり翁の思想がベースになっているので、この作品を公開した当初、左傾新聞や左傾団体から猛烈な批判があり、国際的な評価もさまざまだったが、遊就館(靖国神社の戦史博物館)の映像ホールで上映されていた間(2003年~2018年?)、アメリカ・オーストラリア・韓国・中国ほか諸国の公人・観光客ら多数が参観したことが記録されている。
ともあれ、いよいよ本格的な“花見シーズン”、桜を詠った有名句は沢山ある。【花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける】(西行法師)。【さまざまの 事思ひ出す 桜かな】(芭蕉)、【靖国の 桜の下で 盃(さかずき)を】(散華した某特攻隊員の遺言)そして、良寛和尚の辞世の句【散る桜 残る桜も 散る桜】(桜は咲いた瞬間から散る運命を背負っている。人の命も同じだ)――桜開花に寄せて翁も1句【春うらら 心弾ます 花見かな】・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「いわき市での見学」
寒さが緩んで春の日差しが届くようになると何か新しい事にチャレンジしたくなる。先週の土曜日は日帰りで福島県いわき市主催のバスツアーに参加させていただいた。目的は地域の医療クリニックで活躍なさっているオーナーの方が作られた小規模のデイサービス、通所のリハビリテーション、ショートステイなどの施設を見学して回るツアーだった。在宅医療だけでは間に合わない事など患者さんからの依頼で小規模多機能サービスが出来る施設を開設したのだそうだ。
誰だって最後まで自宅で元気に暮らせたら理想的ではあるけれど、そういう事情ができなくなってくる場合もある。少しでも家族の負担を減らしたいという思いで作られたそうだ。
LAにあった日系ホームも不本意に売却されて無くなってしまった今、今後LAでも様々な課題に取り組まれている事だとは思う。
数か所の施設を見学しながら施設内の厨房も外から少し覗かせていただいた。小規模とはいえ45人分の食事を2人だけでテキパキ作っていた。その調理場には新機種のおそらくスチームコンベクションオーブン(空気加熱、蒸気加熱、通常のオーブン機能が付いたもの)で1度に煮魚、肉じゃがなどが出来るものを使っていたのではと思われる。配膳車も暖かいものは温め、冷たいものは冷たくして出す事の出来るものなどいろいろな工夫やアイディアが盛り込まれている。
今回、メディカルフーズ、給食のクラスでこういった調理機器で作られた料理を前菜、主食、デザートと試食する日があった。目の前のステージで手早く調理された料理を試食させてもらいながら料理の温度がより料理を美味しくし、これなら誰が食べても美味しいと満足した。医療機器の進化も驚くけれど大量の人の食事を安全に美味しく作れる調理機器の進歩にも驚く。
また、今回受講したクラスの先生の中で都内の病院の敷地内に4つある井戸で全ての病院で使用する水を賄っている所に見学に行かれたという話を聞いた。その病院では井戸水を浄化するりっぱなシステムがあって圧倒されたらしい。何かあった場合の自家発電装置などもちゃんと用意されているらしい。人々の支えあいも大事だけれど水も食べ物も電気も最低必要なものをどうやっていざという時に確保するのかという事はどこでも同じ課題だ。
福島を含む東北の地震、今回の能登半島の地震、千葉をはじめ関東の度重なる小さな地震と今はどこで何が起きてもおかしくない。
東京を離れて地方に行くと皆其々の地域で頑張っているな~という事を感じる。東京での試みと地方での試み、今後、若い人も中高年の働き方もフレキシブルに新しい働き方が模索されているようだ。
スパイス研究家 茶子
特別寄稿 ー 井出半句「Welcome to Los Angeles!(第四話)」
シェリフ・ステーションと犯行現場
事件後、砂漠の避寒地・パームスプリングスでゴルフを2回やり、電話送金も済ませ、盗難品リストも書き終えた。帰国まで残るは三日間。シェリフ・ステーションに盗難リストを届け、領事館で帰国書類申請をするだけだ。
避寒地からLAに戻る2時間のフリーウェイは大した渋滞もなく、レンタカーは日本車に切り替えたので運転しやすく快適だった。ただ、一人なので睡魔が襲って来る。水を飲んだり飴玉をなめたりして何とか凌ぎ、以前と同じホテルに再チェックインした。フロント担当は日本人の女性だった。前回の部屋の苦情を言うと「お客様はプレミアムカスタマーですので良い部屋を準備できます」とのこと。与えられた部屋は以前と雲泥の差だった。それでやっと気づいた。LAに到着した日は、私の非白人の風貌から上手に差別を受けて最低レベルの部屋を与えられたのではないかと。現役時代もニューヨークやボストンなど東海岸に出張すると度々そんな扱いを受けたものだった。そんな場合は毅然と「道路側で騒音がうるさい」「エレベータの音がする」などと申し出て、部屋を替えてもらったものだ。そういう感覚も忘れていた。とにかくこの国は主張することが肝心なのだ。
LAに戻った翌日、シェリフ・ステーションに向かった。盗難事件のあったゴルフ場から2ブロック程のところだった。立派な建屋で受付には先着が一人いるだけ。直ぐに順番が来て盗難品リストを提出した。受付のシェリフは盗難品リストを受け取り「OK. Done」と言い、帰っても良いと。せめて受け取りのサインをしたものが欲しいいというと、リストにスタンプを押したコピーをくれた。それを貰って一旦建屋の外に出ながら「待てよ、盗難品リストだけで事故証明として通用する筈はない」と考えた。すぐ引き返し同じシェリフに正すと「アクシデントレポートが欲しいのか。それなら刑事課にここから電話しろ。私は受付だけだ」と。電話すると「レポートは出来ている」と係官が3ページ渡るレポートを持って来てくれた。提出した盗難品リストを加えると4ページになる。これが無ければ何の証明にもならない。ここでも自分から申し出なかったら問題となるところだった。危ない、危ない。
シェリフ・ステーションからの帰途、例のゴルフ場に寄ってみた。防犯カメラの有無を確認し、自分の目で犯行現場を再確認してみたいと思った。駐車場の混み具合は事件当日と同じ程度だった。マネージャーに会うと「話は聞いているよ」と。防犯カメラは設置されてないのかと聞くと「No!」、近くのストリートには?「No!」とのこと。この無防備さを知り、あらためて犯罪者楽園の実態に納得してしまった。まさしくWelcome to Los Angeles, Welcome to California!の大合唱が聞こえる。日本では数か月前に東京銀座の高級時計店に押し入った窃盗団は、至る所に設置されている防犯カメラの映像で数時間後に御用となったのとは大違いだ。
駐車場を改めて眺め回して見る。まさか“二匹目のどじょう”を狙って犯人がきょうも来ているとは思えないが、仲間なら来ているかもという目で見ると・・・・・それらしい車はある。日本で駐車する際は、ほぼ100%バックで、いわゆる車庫入れ状態で駐車するが、米国では逆でほぼ100%が頭から突っ込むのだ。それなのにたった1台だけバックで入れた車があった。つまり用が済んだらサッと逃げられる体制だ。しかも塗装が剥げていてゴルフ場に乗って来るような車ではない。その上ナンバープレートが前部に付いていない(以前カリフォルニアでは合法だったが今は違法)。しかし怪しいとは思っても犯行を目撃しているわけではないので何の証拠にもならない。
ところで、シェリフとポリスの違いはご存じだろうか。私が現役時代、セールス部門にいた女性の夫がLAのシェリフで時々顔を出してくれたものだ。今でも彼等からクリスマスカードが届く。その夫婦にも聞いたことはあるが、シェリフは市の枠を超えて郡内(今回の場合LA郡)の治安を担当し刑務所や裁判所と連携しているのに対し、ポリスは市内の治安担当に限られている。つまりシェリフの守備範囲の方が広いのだ。それにシェリフは選挙で選ばれるのに対し、ポリスは試験に受かれば誰でもなれる職業である。
【後日談】私が帰国後2~3日してからLAシェリフから電話があった。「その後の被害状況はどうだ?」という質問だった。私は「カードはブロックしたので、盗まれた日以外は使われていない。詳しく報告したいが日本はいま午前2時。電話で目覚めたところです」と返すと「アイムソーリー、こちらは午前9時だ」。米国内でさえ時差があるのに、日本はカリフォルニアと同じ時間帯とでも思っているのだろうか?? なんとも迷惑な時間帯だった。
さて残るはあと二日。あしたは大本山、領事館だ。
第五話へ続く
ジャズライフ Keith Jarrett and Charlie Haden “Last Dance”
冷たい雨が降って寒い週末でした。早く春らしい陽気になってほしいと春らしい曲を探していました。Keith Jarrettの”It Might As Well Be Spring”という曲名のジャズを見つけました。日本語の曲名は”春の如く”で盟友のCharlie HadenとKeith Jarrettの自宅スタジオで収録したデュオのアルバムの中にあります。ちょっと聴いた感じは地味な曲ですが、一音一音にじっくりと耳を傾けて聴くと、二人が対話しているようです。この曲はなんと12分近くあります。《R.O.》
01. My Old Flame 10:18
02. My Ship 9:36
03. ‘Round Midnight 9:33
04. Dance Of The Infidels 4:22
05. It Might As Well Be Spring 11:54
06. Everything Happens To Me 7:12
07. Where Can I Go Without You 9:31
08. Every Time We Say Goodbye 4:25
09. Goodbye 9:06
Keith Jarrett (p) / Charlie Haden (b)
編集後記「タコス」
ロスにいた頃、家族で良くトーランスにあったメキシカンレストランに行きました。それ以来、タコスが大好きで、今でもたまに家に集まってタコスパーティーをやります。具を包むトルティーヤはKALDI、成城石井などで売っていますが、以前からとうもろこしのトルティーヤでタコスを食べたいと思っていたので家で作ることにしました。好きなときに好きな具を入れてタコスが食べられるのでトルティーヤのプレス機を購入しました。1回目はとうもろこしの生地の練り具合にちょっと苦戦しましたが、美味しくいただけました。もう少し慣れてきたらタコスパーティーをやろうと思います。タコスは調理も簡単で生野菜をたくさん食べられるのがいいと思います。《R.O.》
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