雑貨屋ウィークリー1439号

雑貨屋のひとり言

テレビ番組でマンションの大規模修繕費の大幅値上げをするところが増えていて、突然値上げと言われた住人が困っていると報じられています。知人が住んでいるマンションはあと数年で大規模修繕工事が予定されているようですが、修繕積立金が不足しているので値上げをしたいと管理会社から提案されているようです。大規模修繕工事の内容やそれぞれの内訳を示して本当にいくら不足しているのか示してもらわないと、住人は納得しないので、その内訳やできれば長期修繕計画を示して説明してもらうようアドバイスしました。不動産会社は新築マンションを売りやすくするために管理費や修繕積立金を安くして意図的に買いやすくしている傾向にあります。マンション購入者が近い将来発生するマンションの修繕費のことなど全く考えずに購入を決めてしまうことはとても危険なことだと思います。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳  )

血を流し合う宗教の罪作り

進化とは猿に問われる核兵器

反戦と太字で祖父の雑記帳

米櫃が満タン平和ありがたし

平和っていいなリンゴの唄が言う

(ニュースひとりよがり)

「新聞一面に”更迭”の大活字」

さすが松野さん ― 以前更迭の3政務官

「パー券裏金疑惑」

派✕(ばつ) ― 国民

「高校実質無償化」

親のすね保護法 ― 東京都 

河合成近

龍翁余話(811)「ハワイ日系人と日本名(漢字)」

今から155年前の「ハワイ移民」の話から始める。1860年(万延元年)、日米修好通商条約批准書を交換するため遣米使節団77名(司令官・木村喜毅、木村の補佐・福沢諭吉、艦長・勝海舟、通訳・ジョン万次郎ら)を乗せた「咸臨丸」がサンフランシスコからの帰路、ハワイ・オアフ島ホノルルに寄港し、木村や勝、福沢、万次郎(通訳)らがカメハメハ4世とエマ王妃に謁見、その際、カメハメハ4世から“日本からの移民”を要請された。時代は下り江戸幕府が終わって明治になる。1868年(明治元年)、のちに“元年者”と呼ばれるようになったハワイ移住希望者153人が(横浜港からサイオト号で)ホノルルに渡ったが、幕末の混乱の中で集められた人々は、幕末に禄(ろく=主から給与された金銭・物資)を失った武士や定職を持たない連中(それに彼らの家族)が中心だったためハワイでの(主に砂糖農園での)労働が身につかず男性53人、女性6人が日本へ逃げ帰り、残りの約97人はまるで”奴隷的“な扱いを受けながら艱難辛苦に耐えた

1886年(明治19年)1月28日、「日本ハワイ移民条約」が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり“官約移民”(政府が斡旋する移民)がスタート、最初に945人が横浜港から(汽船“シティ・オブ・トウキョウ号”で)ホノルルに渡った。その後、ハワイ第7代国王カラカウアが1891年(明治24年)に外遊中のサンフランシスコで客死、その後、妹のリリウオカラニ女王が第8代国王に就任するも内乱が起こり、1893年(明治26年)リリウオカラニ王朝は崩壊、したがって“官約移住”も終了、翌1894年(明治27年)からハワイ移住事業は民間に委託されるようになった。なお“官約移住”時代の約8年間の移住者数は約3万人、彼らの出身県は(多くは)広島・山口・熊本・福岡の順だった。1898年(明治31年)にハワイがアメリカ合衆国に併合された後、法律も米国の法律が適用されることになり、従来の移民が奴隷と同じような位置づけにあったことからこれを法改正、ハワイ移民は1900年(明治33年)から1907年(明治40年)までの期間は”自由移民”の時代となり、この間、約7万1000人が移住した。(以上――これまでの記述は、翁所有の『ハワイ日本人移民史』を参考にしたものである。)

“自由移民”になった2年目の1902年(明治35年)、熊本県玉名郡(現・玉名市)から、1人の幼女を連れた1組の夫婦が大勢の移住者と共に横浜港から(汽船“SSコプティック号”で)出港した(乗船者数は不明)。その夫婦の名は田代市蔵(たしろ いちぞう)と妻・ナツ。市蔵夫婦はオアフ島からすぐに(割り当てられた)ハワイ島へ渡り、白人が経営する砂糖農園に身を寄せた。その時代の移住者は、すでに”奴隷的“ではなかったが労働条件は過酷で、困窮に耐える生活が数年続いた。当時の移民は日本人ばかりでなく中国人、ポルトガル人、フィリピン人、プエルトリコ人などいたが、彼らは日本人ほどの辛抱強さはなく、定着率のいい、そして礼儀正しい日本人移住者は地元民に大いに歓迎された。律儀な市蔵夫婦も評価され、数年後、独立してコーヒー園経営のかたわら燃料会社を設立、コークス・練炭・薪・オガライト(おがくずをかためて造った木質系固形燃料)の販売で経済基盤を確立、6人の子ども(女4人、男2人)を立派に育て上げた。日本人移住者の子孫は増大、市蔵も沢山の子孫を残した。市蔵・ナツの子孫もハワイ(オアフ・マウイ・ハワイの各島)をはじめ米国本土・ヨーロッパ(イギリス等)で現在もなお多くの子孫を増やしている。そんな中、主だった子孫(特に3世たち)からの提案で1997年に第1回の「タシロファミリー・リユニオン」(市蔵・ナツ移民100年祭プレイベント)がオアフ島で開催された。実は1990年(平成2年)から“タシロファミリー”の1員になっていた翁、(第1回のリユニオンから5年後の)2002年にハワイ島コナで行なわれた“市蔵・ナツの移住100年祭本番”「第2回タシロファミリー・リユニオン」に参加、以後、5年ごとに開催される同イベントに毎回参加した。そして2017年の第5回リユニオン(参加者120人)の際、翁自慢の筆字で“漢字1文字”(仁・智・礼・義・信・徳・真・優・輝・恵・雅・明・雄・佳・耶・栄・華・邁・凛・美の)20文字を(1枚ずつ)書いて、6人掛けテーブル20卓の各卓上の中央に展示、パーティの終盤『漢字の魅力』についてスピーチした(通訳付き)。

パーティに参加している120人のファミリーのほとんどが日系でありながら日本語を知らないアメリカ人であるから『漢字の魅力』を(日本的に)説明してもなかなか理解はして貰えない。漢字の持つ芸術性・文化性を簡単に述べた後、翁は「漢字1文字に含まれる意味合いの深さと広がり」を強調した。例えば『仁』――主な意味は「他人に対する親愛の情、優しさ」であるが、この言葉は日本を中心とする東アジア諸国の“倫理の基盤”であること。つまり社会秩序「礼」の精神、道義的「徳」「孝」「譲」なども『仁』の中に含まれることを説いた。(元来、儒教の国でありながら、近年『仁』をわきまえない国が日本のすぐそばに在る、ことを言いたかったが、それは避けた。)

日系アメリカ人の3世までは、ミドルネームに日本名を付ける習慣が残っていたようだが、4世・5世となると、段々と日本名が使われなくなっていると言う。そんな中で翁が1員に加わっている「タシロファミリー」は、3世は勿論、4世・5世もミドルネームに日本名を付けている。翁、頼まれてこれまでに同ファミリーの4世・5世のミドルネーム(漢字)を筆で色紙に書き、その子らの安全成長を祈願している。前述の卓上に展示した「漢字」20文字の中に、4世・5世の子どもたち(12人分)の日本名が含まれている。そう言えば12月12日は「今年の漢字」発表の日。某調査会社が行なった「企業が選ぶ今年を表わす漢字」は1位「変」2位「忍」3位「耐」つまり企業にとって2023年は「変化の年」、「忍耐の年」と言うことか。読者各位の「今年の漢字」(1文字)はどんな漢字だろうか?それにしてもハワイ日系人の子孫のミドルネームに日本名が消えて行くことは実に寂しい。せめて「タシロファミリー」だけでも日本人の血脈(日本名)が繋がることを願うばかり・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「23カ月ぶりのLA」

久しぶりのLAは穏やかな気候に恵まれて一見以前と変わり無さそうに見えたけれどやはりショッピングモールやオフィスの空きスペースが目立っていた。ユタから娘さんのいるオレンジカウンティーに来ている友人と話したら近くのBeach Blvdあたりは昼間から娼婦が立っているのが目立つようになってきたと、、、明らかに治安は悪くなっているらしい。ダウンタウンなどホームレスが多くて怖くて行けないと。数年前にリトル東京を訪れた時もその周りにいるホームレスの増加に驚いた。

2年前、流行り病で外出や移動に制限がかかっていた頃と比べると今は、やけにポリスカーや消防車のサイレンの音が頻繁に聞こえる。ホームレスが外で煮炊きをするのでその為火事も増えているのだそうだ。LAの山火事も多く火災保険会社も逃げだしている状態だ。街は活気が無くなり、店に並べられている商品の数も減っている。

ただコストコなどのまとめ買い出来る安売りの店だけはいつも混雑していて駐車場のスペースを探すのに大変な状況。人々は車のガス代も高くなっているのでまとめ買いをして買い物に行く回数を減らし節約をしているらしい。特に銀行は人がいなくなりガランとしている。クローズした銀行の跡地は新しいビジネスがオープンするわけでもなく、そのままになっている。普段、東京の賑やかな商店街やデパートや観光客の活気を見ているから一層そんな風に感じたのかもしれない。

今回、米国の銀行関係、保険関係、移民弁護士、税金関係の事で直接其々の担当者の方と話せいろいろ日本では出来なかった確認がとれクリアになった。荷物もだいぶ整理する事が出来どのボックスに何が入っているか仕分け作業をする事も出来た。まだ、書類や名刺を整理するまでの時間は無かったけれど少し重荷だった用事がかたずいてほっとした。

そんなわけで久しぶりにサンペドロのハイキンググループのイブニングハイクに参加した。新しくボートを買ったリーダーのLさんは、まだそのボートを見ていなかった私の為にボートに立ち寄れるハイキングコースを企画してくれた。クリスマスライトを見ながらサンペドロの港までハイキングをしてLさんのボートにたどり着くとLさんはアイリッシュコーヒーを皆に振舞ってくれた。そこで皆で乾杯をして久しぶりに会うハイキンググループの人と記念撮影をした。皆変わりなく元気だった。

来年早々、台湾の選挙、そして米国の大統領選挙がありアメリカも日本も世界も揺れている。大きな力の前に私達は抗う事が出来ないかもしれないけれど何とかその中で不のエネルギーに流されないように踏ん張って生きていきたい。その為に心と体の健康維持に努めたい。そう思いLAから持ち帰ったWhole Food Medicineホールフーズメディスンの本を読み始めている。

スパイス研究家 茶子

ジャズライフ Antonio Forcione “Sketches of Africa”

ディジタル技術の進歩のおかげで私たちの生活が豊かになりました。スマホはその恩恵を受けた最高の製品だと思います。そして私が好きな音楽を聴くという場面では、世界中の音楽アルバム情報がディジタル化されてサブスクサービスでいつでもどこでも聴けるようになって本当に楽しませてもらっています。そんな気持ちで毎週、アルバム探しをして音楽を楽しんでいます。今週はギタージャズが良いかなと思って、 Antonio Forcioneのアルバムにしました。彼の指の動きが伝わってくる素敵な音が楽しめます。

Antonio Forcione “Sketches of Africa”

1 Madiba’s Jive
2 Song for Zimbabwe
3 Stay Forever
4 Africa
5 Tarifa
6 Tar
7 Clear Day
8 Sun Groove

編集後記「スマホの機種替え」

2年ぶりにスマホの機種を替えました(iPhone13mini⇒iPhone14)。最近のようにスマホを一日中、多用するようになるとバッテリーの消耗が激しく充電回数が増えてきています。2年使っただけでバッテリーの性能がかなり落ちてきているように感じます。余談ですが、EV車に使用されているバッテリーは厳しい環境下で使用しているのですから、2年も乗ったらバッテリーの劣化はかなりのものだと想像しています。補助金が出るとはいえ高価なEV車を購入し、所有するのはかなりリスキーなことだと思います。前回スマホの機種を替えた時は、古い機種からのデータ転送はiCloudでやりましたが、今回はブルトゥースで直接伝送(クイックスタート)でやりました。比較的簡単にできたように思うのですが、前回に比べるとお金に絡むアプリが増え、個人情報が多くなった分、少し引っかかることがある(ちょっと面倒くさいことが多くなった)という印象でしたが、なんとかできました。新しくするとなにか問題も起きますがワクワクもあります。2年後はどうなっているのか楽しみです。《R.O.》

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