雑貨屋のひとり言「名前の紹介」
初対面の人と名前を交換することはよくありますが、名前を忘れてしまうことが多いです。これは単に私の記憶力の問題ですが、長い間知り合っているのに名前を知らない人もいます。例えば、ジムのヨガクラスで知り合って話をすることはあっても、お互いに名前を言わないことがあります。その結果、何年も顔見知りでありながら名前を知らないという状況が生まれます。ワイフと話していてその人の話題になると、名前を知らないので困ることがあります。そこで、その人に勝手な名前を付けて呼ぶことにしています。例えば、その方がB市に住んでいたことがあると聞いていたので、「Bさん」と呼ぶことにしています。どこかのタイミングで聞いておけばこんなことにはならなかったのにと反省しています。これからはこんなバカなことをしないで早いうちに名前を教えあってしっかり名前で呼び合うようにしたいと思います。3月から始めたカルチャーセンターの卓球教室のメンバー全員の名前をすぐに覚えましたが、9月から始まる卓球教室にはメンバーが40人くらいいるので全員の名前は覚える自信はありません。《R.O.》
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
ローン完済ガタピシ家も関節も
銀行の隣に住んでカネがない
両隣ビルで孤独な鬼瓦
助け合いみんな貧乏だったころ
枇杷の種お前 昭和のままだなあ
(ニュースひとりよがり)
「総裁選」
派閥か派✕か ―自民党
「早期解散論」
国会かい 党かい ―自民党
「リベンジ」
来年こそは日本一高に ―関東一高
河合成近
龍翁余話(848「明治の大横綱・梅ケ谷物語」
九州・大分県の北西部に位置する日田市、その隣に福岡県の中南部に位置する朝倉市杷木町(はきまち)がある。杷木町は、原鶴温泉に代表される観光業が盛んではあるが、あくまでも農林業が中心の町であり、特に基幹作物・柿の王様「富有柿」(ふゆうがき)の主産地として有名。柿畑は町の中央部に横たわる山麓地帯の東西帯状に(約1㎞にわたって)連なっており、11月から12月初旬にかけて柿畑の柿は真っ赤に色づき、実に美しく壮観だ。以前、「杷木の富有柿」については『龍翁余話』で紹介したことがあるが“柿好き”の翁、もう30年も前から毎年末に“杷木の富有柿”を送って(贈って)貰っている。その杷木町の出身力士に“明治の角界を代表する大横綱”がいた、と言う話を聞いて翁、お盆明けの某日、日田から車で国道386号線(大分県日田市―福岡県筑紫野市)を走り杷木町「道の駅原鶴」へ向かった。「道の駅原鶴」まではは日田市の中心部から約15km、車で約30分。そこに『明治の大横綱・梅ケ谷の銅像』が建立されている。
残暑厳しい某日の昼、天に向かってそそり立つ威風堂々たる『梅ケ谷像』に圧倒されながらカメラのシャッターを切る。汗だくになりながらの撮影を終え、『梅ケ谷』について町の人の声を聞こうと数人の人に当たってみたが、いずれも観光客で地元の人が見つからない。そこで(ランチタイムだったので)「道の駅原鶴」に隣接している食堂に入り“すき焼きうどん”を食べながら店員さんに質問したが「詳しく知りません」だったので、役場(朝倉市杷木支所)の所在地を訊いて食後、支所に向かった。場所は大分自動車道(高速道路)の杷木ICに近い所。何課の職員かは分からなかったが、親切に対応してくれ、かなりの参考資料を頂戴した(以下、杷木支所でいただいた資料を参考に記述する)。
『第15代横綱・梅ケ谷藤太郎』は本名・小江藤太郎(おえ とうたろう)。1845年(弘化元年、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の時代)3月16日に筑前国上座郡志波村梅ヶ谷(現・福岡県朝倉市杷木町志波)で生まれた。「信じがたい話ではあるが、赤子の頃から石臼を引きずるほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという逸話がある」っと、これは多分に“作り話”くさい。1863年(文久2年)18歳の時、大坂相撲の「湊部屋」に入門。ここで四股名(しこな)を故郷・志波村(しわむら)梅ケ谷に因んで『梅ケ谷』とした。明治維新後の1869年(明治2年)3月の大坂相撲で新入幕を果たし、いきなり小結となり、直ぐに大関へ。大関になった後、1870年(明治3年)の暮れに東京相撲へ加入して玉垣部屋に所属。玉垣部屋は、江戸時代には伊勢ノ海部屋と並んで隆盛を誇っていたが明治になって後継者が出ず『梅ケ谷』が所属した後、徐々に衰退、閉鎖した。その間『梅ケ谷』は連戦連勝、1876年(明治9年)から1881年(明治14年)にかけて58連勝、いったん負けて連勝記録は止まるも、その後また新たな連勝が続き、1884年(明治17年)2月に横綱に昇進して5月場所までに35連勝を記録した。なお、『梅ケ谷』の横綱在位は1884年2月から1885年5月までの1年と3カ月。その間の優勝は9回を数え、勝率は約95%、これは驚異的な記録である。明治維新で低迷していた相撲人気も『梅ケ谷』の活躍で一気に回復、政界の巨星・伊藤博文も『梅ケ谷』ファンだったとか。相撲好きだった明治天皇のために幾度か“天覧相撲”が行なわれた、との記録もある。なお『梅ケ谷』の取り口は、右上手を浅く引きつけ、わずかに左をのぞかせて寄る堅実な取り口だったと伝えられている。
“大横綱”の呼び声が高かった『梅ケ谷』ではあったが、1885年(明治18年)5月場所を最後に「横綱は不敗たるべし」の名言を残し引退、年寄「雷」を襲名、引退後は「雷部屋」を興し「東京大角力協会」(現・財団法人日本相撲協会の前身)の会長を務め、相撲界の発展に尽力した。なお“年寄”とは、(老人、と言う意味ではなく)協会及び大相撲の運営の主体となる地位(資格)であり、現役を退いた元力士が協会の正規の構成員としてとどまるには原則として“年寄”になる必要がある。
ところで『梅ケ谷』は“巨体”と言われていたが、身長176㎝、体重105kg、今の力士に比べれば、むしろ“小兵”、小兵でありながら明治時代前期の角界の第一人者であり、明治以後の“五大力士”や“古今十傑”に名を刻んだ所以は何か――それは、彼の鋼(はがね)のような筋力・素早い右上手取り・怒涛の寄り身で勝率95%と言う驚異的な記録を残したからだろう。なお“古今十傑”とは大相撲の歴史の中で、江戸時代から昭和初期にかけて特に最強と言われた10人の力士の総称である(谷風・小野川・雷電・稲妻・陣幕・梅ケ谷・常陸山・太刀山・栃木山・双葉山)。なお(前述の)『梅ケ谷』の58連勝は、双葉山の69、谷風と白鵬の63に続く第4位の連勝記録である。
江戸末期、明治、大正、昭和の4時代を相撲一筋に生きた『第十五代横綱・梅ヶ谷』は1929年(昭和3年)に83歳で死去。還暦が長生きの基準だった時代の力士としては非常な長命、横綱の長寿記録として現在もまだ破られていない。“相撲ファン”の翁、杷木の英雄『梅ケ谷』の大ファンとなったことは言うまでもない・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「涼む」
今年の夏は初夏から尋常でない暑さが猛威を振るっていて、この8月下旬になっても、なかなか30度以下にならない。
今まで経験をした事がないようなが酷暑が連日続くので私でさえ、うんざりして最近は散歩も行かず朝の日陰があるうちに買い物に行く程度で引きこもり状態だ。
この夏は音で涼もうと都内の風鈴まつりに友人と行こうと予定を立てていたもののあまりの暑さで、くじけて行かなかった。
夏の風物詩の花火やお祭りも今年こそ楽しみたいと思っていたけれど家でおとなしく映像を見るだけにした。
最近は風鈴の音を楽しむ事も少なくなったのか都内の住宅ではあまり風鈴の音を聞かない。自宅のウィンドチャイムも外に出していると風が強い日はうるさくて東京では近所迷惑になるからと母に言われ室内に移動した。
この猛暑のお陰で窓を開けられないままウィンドチャイムも音がしない。
昔は風情があって時々風に舞って聞こえてくるガラスの風鈴の音も良かったし竹で作られたウィンドチャイムもカラコロ音を奏で貝殻で作られたウィンドチャイムも涼し気な音がして其々に心地良かった音だったのを覚えている。
その中でも南部鉄で作られた風鈴の音色は透明感のある澄んだ響きがあって1番好きな音だ。どこかの番組で音によって体温がどのくらい下がるか実験をしていて本当に体温が下がるのを証明していた。
氷と氷がぶつかり合う音を集めてアイスサウンドを作っている人もいる。
川のせせらぎ音や森の中のカッコーの鳴く声、鈴虫も私達には涼める音色なのだろう。
次に目で涼むとしたらブルー系の色やグリーン系、白そして淡いパステルカラー等の寒色系の色も見ているだけで涼し気だ。
これらの色が目から入ってくると、やはり脳が反応して涼しく感じ実際、微妙に体感温度が変わるのだそうだ。
実際、白は陽射しを反射し黒は陽射しを吸収したりするので色も体温に影響する。
服の素材も麻は肌に涼しいし最近では新素材で接触冷感のものもあり毎年グレードアップした新商品が出ているのも興味深い。
暑い日のお出かけだったらマリンブルーの中の水族館もいいかもしれない。先々月、日帰りで出かけた山形鶴岡市には日本1のクラゲの水族館があったらしい。クラゲのフワフワした動きは見ていても飽きないし涼を求めて行くのもいいかもしれない。
そして最後に食で涼む夏の食べ物は冷たく冷やした白いソーメン、冷ややっこ、スイカやキュリやトマトも体の熱を下げてくれる。
今年はラムネ瓶の飲料水も売れ行きが好評だったらしい。透明感のある薄いブルー瓶を傾けビー玉のカラカラした音を聞きながら冷たいシュワッとした炭酸水が体を冷やしてくれる。昔から日本の代表的な清涼飲料水だ。
ところで最近、私がはまっているジンジャエールもどきの手抜きドリンクはさっぱりしていて飲みやすい。市販の飲料水だと甘すぎたり添加物が入っていたりして気になるのでもっぱら自分で作り置きしている。空いたガラス瓶に生姜を薄く切って半分ぐらい入れハチミツが充分隠れるくらい注いで一週間ぐらい置いておく。白いお砂糖以外だったら甜菜糖や黒砂糖、メープルシロップなど何でもいいと思う。冷蔵庫で1週間ぐらいすると生姜のエキスが出てくるので、それを適当に自分好みに炭酸水や水で割ってもいいしレモンやオレンジを絞ったりして飲むと清涼感があって美味しい。後は好みで生姜ハチミツをカクテルベースに使ったりミントの葉を浮かべたりいろいろアレンジが出来る。瓶に残った生姜のスライスは、そのまま食べてもいいし甘酢生姜にしたりお肉の炒め物に使ったり出来るので便利だ。
そのお陰で今年は清涼飲料水のペットボトルのゴミの量が少なくなった。
夏のピークは過ぎたから後もう一息、夏バテに負けずに頑張ろう!
スパイス研究家 茶子
逃げ場のない国 震災余話 井出半句
第十三話 再び町の様子
本題に入る前に最近(2024年8月)の話題から。
パリオリンピック2024は「雑貨屋」でも取り上げられた審判の不手際や運営のまずさを指摘された。それも事実ながら、私は日本はじめ各国の選手たちの人生を賭け、国を背負った一途な活躍から来る感動の方が数段素晴らしく感じた。不手際はあってはならない、しかし人間のやることに完璧はない。虚実こもごものネット情報を基に運営の不手際を責めても、選手の活躍自体を台無しにする非難は当たらにと強く思った。
それともう一つ、筆者の前シリーズ“Welcome to Los Angeles”で紹介した窃盗非難事件。ブラジルのかつてのサッカー名選手で鹿島アントラーズ元監督のジーコがオリンピックのパリで旧知の人と挨拶を交わす間に8,000万円相当の貴重品入りバッグを瞬間的に盗まれた。さらにゴルフで銅メダルを獲得した松山英樹はパリから米国への経由地ロンドンで財布を盗まれ、彼のキャディーとコーチはパスポートまで盗られてしまった。従ってこの二人は今年1月の私と同じく、日本から戸籍謄本を取り寄せてもパスポート再発行の時間はなく、一回きりの入国許可証をロンドンの領事館で取得して日本に帰国し、パスポートを取り直すこととなったわけである。一方松山は、パスポートは無事だったので予定通り次戦の米国に渡り、臨時のキャディーと共に戦い17,18番の連続バーディーで劇的な優勝を飾った(賞金は5億円)。つまり旅慣れているジーコや松山チームも”Welcome to Paris”, Welcome to London”と、かの地の窃盗団に歓迎されたわけである。悪人は常に善人の一歩先の行動をとっているのがここでも証明された。しかし松山は精神力の強靭さと世界一流の技術を同時に証明するドラマも見せてくれた。トラブルを超えた事実は深い感動を呼ぶ。
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4/1(金)晴れ 15℃
きのうはくだらない尺八の話でスミマセン。周りが重い話ばかりなのでつい。きょうはマジメに。
チラシ
今日初めてスーパーなどのチラシが新聞に挟まってきた。しかし数枚だけ。それも品数は通常の四分の一。その中に「アメリカ産豚ロース(とんかつ・ソテー用)100g 98円」とある。おっ、Wさん(*)がんばっているな!震災直後は新聞も来なかったが、3日目辺りから届くようになった。ただし当然チラシなどはなし。何日かして最初のチラシは予備校、学習塾のものだった。入試の時期でもあったからだ。震災前までは新聞の厚みの3~4倍のチラシが入っており、家内の朝食後の日課はこのチラシをじっくりみることから始まるのが常だった。それもそろそろ復活だろう。(* LA在住の豚肉輸出入業者。先祖は福島県会津出身。筆者と話が合い、定期的に食事会をして会話を楽しんだ仲)
インフラ:
*ガソリン:給油券なしで満タン買えるようになった。へなへなしていた体に血がみなぎる感じ。流通もぐっと良くなるはず。LAの人たちがガソリン無しとなったらどうなるの?
*鉄道:JR常磐線、上野から勝田(ひたちなか市)まで再開。JRは4月いっぱいかかる予測をしていたが前倒し実現。遅れて希望を裏切るより早めに実現したと思わせる方がまだいい。水道もそうだった。原発は先が見えない。
*その他の付近のJR:勝田ーいわき間は4月末予定。いわき以北は原発で未定。ふる里・川内村の玄関口である富岡の駅舎は津波に流されたまま。退避命令で人も近づけない。遺体が打ち上げられたままで回収にも行けない。つらい話だ。
【写真は筆者が震災2年後2013年3月に撮影したJR常磐線富岡駅】
下の写真の右端にある電柱の上部は「つ」の字に曲げられている。駅前と線路上には津波に襲われた車が放置されたままだ。原発事故による期間困難地域は2年後にしてこの状況であった。
水戸起点の水郡線(福島県郡山まで)、水戸線(栃木県小山まで)は依然不通。
前の句、三万人飲んだと言わぬ春の海
としたがいまだ見つからない人達や、探しに行けない人達もあり、
何人を飲んだと言へよ春怒涛 半句
だな・・・。
第十四話につづく
ジャズライフ Mason Embry Trio “Swingin’ On Star”
軽快でエレガントなピアノを聴かせてくれるアルバムを紹介します。
Mason Embry Trio の”Swingin’ On Star”です。彼のジャズトリオはテネシー州ナッシュビルに拠点を置き活躍しています。収録されている楽曲は何度聴いても飽きません。《R.O.》
1-Beyond The Sea
2-You Make Me Feel So Young
3-I Left My Heart In San Francisco
4-Swingin’ On A Star
5-Wives And Lovers
6-Nature Boy
7-On The Street Where You Live
8-Misty
9-Ain’t That A Kick In The Head
10-Where Do I Begin
11-Hallelujah, I Love Her So
12-That’s All
編集後記「ワーキングホリデー」
バブル崩壊後のデフレにより、日本の賃金は他国と比べて低い水準にあります。最近、ニュースで賃金格差が取り上げられ、若者が高時給を求めて海外に出稼ぎに行くケースが増えています。ワーキングホリデービザを利用して、海外で日本の倍以上の時給を稼ぐ若者もいますが、現実は厳しいこともあります。
例えば、オーストラリアで農場のアルバイトをしていた若者が、仕事をクビになり、炊き出しの列に並ぶ姿が報道されました。英語ができず、自分がクビになったことさえ理解できない状況でした。ワーキングホリデーが「仕事もできる」「旅行もできる」「遊びもできる」「ボーっと過ごすこともできる」といった自由なビザであるため、安易に考えて行くのはリスクがあるように思います。
若い時の海外経験は貴重だと思いますが、ワーキングホリデービザの良いところだけを見て、軽い気持ちで行くのは避けてほしいですね。準備不足で行くと、厳しい現実に直面して大きなショックを受けることになります。まあそれも経験ですが。《R.O.》
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