雑貨屋のひとり言「ゴミが落ちてない街」
10数年前になりますが、仕事でフィリピンからの研修生をお世話したことがあります。初めて日本に来た彼らが驚いていたのは、日本はどこに行ってもゴミが落ちていないということでした。いつからでしょうか、街からゴミ箱を無くしたときに、こんなことをしたら街がゴミだらけになるのではないかと気になったのですが、そんなことにはならず、街の中でゴミが落ちていることはまれです。不届者がゴミを捨てていても、いつのまにかそれらはなくなり、きれいになっています。日本人は世界に誇れる高い民度を持っています。海外から日本に来ている多くの旅行者はきっとこの凄さに気がついているはずです。《R.O.》
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
生涯をシテになれない太郎冠者
暗証番号機械によしと言われてる
ロボットのタクトで社歌が勇ましい
改革を唱え痩せ蛙のジャンプ
太陽が二つ絶頂期の誤算
(ニュースひとりよがり)
「営業益5兆円超」
チョー快調 ―トヨタ
「4ヶ月半ぶり生産再開」
連休はコリゴリです ―ダイハツ本社工場
「丁髷」
小結です ―大の里
河合成近
龍翁余話(833)「平家の里 平家七人塚」
翁、今年5月の連休中は故郷(大分県)で過ごした。2022年の暮れから再三帰省しているが、そのたびに、今まで知らなかった郷土(及び周辺地域)の観光スポットや歴史・文化に触れることが出来、「ふるさとは遠くにありて思うもの」ではなく「ふるさとは近くにありて愛おしむもの」を実感している。
今号は宇佐市院内町(いんないまち)の『平家の里 平家七人塚』を紹介する。が、その前に――『平家の里』(平家の落人伝説)は日本各地に伝わっていることはご承知の通り。平安時代の末期、1167年(仁安2年)に平清盛(武将・公卿・貴族)が日本初の武家政権(平氏政権)を樹立、驚異的な栄華を誇り「平家にあらずんば人に非ず」と言う平家一門の傲り高ぶりを象徴する言葉まで横行した。言い出しっぺは平時忠(清盛の妻・時子の弟)だったそうだ。しかし、平家の傲り高ぶりに立ち向かったのが源頼朝と弟の義経、源氏と平家が雌雄を決した戦いは「一の谷の戦い」(1184年3月20日、現神戸市兵庫区・須磨区)「屋島の戦い」(1185年3月22日、現高松市)、「壇ノ浦の戦い」(1185年4月25日、現下関市)の3つ(いわゆる“源平合戦”)であるが、この「壇ノ浦の戦い」(源義経の勝利)をもって18年間の“平家の栄華”は幕を閉じることになる。
“平家の落人伝説”は(上記)3つの戦いによって生まれる。これらの戦いに敗れた平家の武士や家族、平家寄りの商人や農民などが各地の山・谷・森の中などに逃げ込み、身を寄せ合って生き延びた人たちを“落人”と呼び、彼らが潜んだ場所や地域を平家谷・平家塚・
平家の隠れ里・平家の落人の里(総じて「平家の里」)と言う。「平家の里」は全国各地に存在しており、東北地方では青森(八戸)・宮城県仙台市・山形県酒田市・福島県南会津郡・岩手県久慈市・北上市・大船渡市、関東地方では茨城県久慈郡・栃木県那須塩原市・日光市・群馬県利根郡・神奈川県横須賀市・千葉県千葉市、中部地方では新潟県佐渡市・中魚沼郡・岐阜県白川郷・富山県五箇山・石川県輪島・加賀市・福井県福井市・越前市・大野市・長野県伊那市・静岡県富士宮市、近畿地方では三重県津市・伊勢市・志摩市・度会郡・大阪府豊能郡・兵庫県赤穂郡・奈良県吉野郡・和歌山県東牟婁郡・日高郡、中国地方では鳥取県鳥取市・八頭郡・東伯郡・岡山県久米郡・広島県庄原市・福山市・尾道市・山口県岩国市・下関市・萩市、四国地方では徳島県三好市・愛媛県四国中央市・伊予郡・八幡浜市、九州地方では福岡県北九州市・宗像市・糸島市・那河川市・柳川市・長崎県対馬市・佐世保市・佐賀県唐津市・熊本県八代市・球磨郡・大分県宇佐市・宮崎県東臼杵郡(椎葉村=翁はここをよく知っている。宮崎県の代表的な民謡『ひえつき節』発祥の村)・鹿児島県指宿市・薩摩川内市・種子島、硫黄島(この島は実は東京都。太平洋戦争末期、日米が死闘を繰り広げ地獄絵図と化した激戦地。現在、無断上陸禁止の島)翁はこの島に取材で2度行ったが、残念ながら「平家の里」らしき跡を見ることはなかった。それに、奄美大島や沖縄諸島に「平家の里」があったとの文献もあるが(それらの研究者には申し訳ないが)ここでは、いずれも史的根拠の薄い”想像話“としておこう。
さて、大分県宇佐市院内町(いんないまち)に在る「平家の里・平家七人塚」――院内町は“石橋”で有名な町。宇佐市から熊本市へ通じる国道387号が院内町を縦断している。この国道は翁が帰省の際に時折ドライブする馴染みの道路である。院内役場から隣接する玖珠町方面へ約1km行った所の分かれ道・大分県道27号(耶馬院内線)のやや登坂を走ると、右手に「龍岩寺」と言う古刹がある。ここは746年(天平18年)に宇佐神宮を参詣した行基(ぎょうき=飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した仏教僧)によって開山された曹洞宗の寺院。奥の院礼堂と白木の三尊像(阿弥陀如来・薬師如来・不動明王)はともに国の重要文化財。翁、そこにも参詣したかったが時間の都合で(龍岩寺の)直ぐ近くに在る『平家七人塚』へと急いだ。
山奥の『平家七人塚』に到着した時は午後3時を回っていた。他の参詣者はもう誰もいない、翁1人だ。駐車場に車を停め外に出ると、心なしか“心霊スポット”の感を強める。
そこへ1人の初老の男性が近づき翁を案内してくれた。その人・門脇正夫さんと言う『平家の里・平家七人塚』の語り部である。以下、門脇さんの説明による『平家七人塚』の伝説――壇ノ浦の戦いに敗れ、それまで、平清盛の参謀として猛勇ぶりを発揮していた門脇中納言平教盛(たいらののりもり=平清盛の弟で通称“門脇どの”)と家来・家族らは山河を超えて宇佐に落ち延びた。その一族が「平家の里」を築いたのが、ここ院内町大門である。したがって語り部の門脇正夫さんの先祖は門脇中納言平教盛であり“門脇家第35代当主”であるとのこと。訊いてみたらこの院内町大門には“門脇性”が今でも多数あるそうだ。“七人塚”の7人とは?門脇さんいわく「追手の源軍に殺された武将たちですが、その中に教盛が含まれていたか、とにかく7人の名前は分かりません」とのこと。門脇さんの熱のこもったお話は実に楽しかったし“平家落人の悲哀の事実”を学ぶことが出来た。
約30分のインタビューが終わって翁の頭に『平家物語』の冒頭文がよぎった【祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色(盛者必衰の理)、奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し】――そして翁が最も嫌っている今世紀の極悪3人組(プーチン、習近平、金正恩)に「盛者必衰」の声を投げかけた・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「日本をぶっ壊す」
ここ数年、勝手にどんどん進められている日本政府の政策は、まるで日本をぶっ壊すような政策ばかりのような気がする。官邸で大臣ごっこをして辞めさせられた岸田首相の息子さんは、いつの間にか秘書活動にこっそり復帰していたのだから呆れる。裏金事件も他人事。外国人からの献金や金額の多さは上位を占めているにも関わらず後ろには戦後、民主党時代に米国肝入りで作られた東京地検が付いているから安心しているのだろうか、、、米国の為に動く政治家だけが守られ逆らうと潰される。米国のポチに徹している岸田首相の顔を見ていると情けなくなる。
昨年の春頃だったろうか、岸田首相がバイデン大統領と会って肩をポンポン叩かれて弟分のように扱われていた写真が出ていた。その後、議会で自分は岸田にウクライナ支援の金を出せと言ってやったんだと自慢していた事が米国のニュースになっていた。その後、2兆円だったろうか正確な数字は覚えていないけれどウクライナに寄付をした。そして日本はウクライナ難民として昨年の秋ぐらいで、すでに2千人を受け入れている。
ともかく昨年の春に今後のウクライナの戦後処理のお金を表はアメリカが実際は日本が肩代わりする約束をさせられた。ウクライナ支援のお金をアメリカの税金で賄う事にあれだけ反対していたトランプさんが突然、融資だったらいいと転向して議会でその予算が通ってしまった理由はこれだったのか、、、、と。これで日本人の税金の9兆4000億円が持っていかれる事になった。これには怒りしかない。このところ日本の世界にばらまいたお金を調べたら具合が悪くなるほど多く途中で見るのを止めた。今も能登半島の人は断水している地域もあって復興が遅れに遅れている。先に助けるべき人、使うべき所に予算を出さない。自分達は脱税、我々には増税を押し付ける。財務省は円安で儲かったお金で、また埋蔵金が増えてホクホクだ。経済学者の高橋洋一氏は国民一人当たり30万円ずつ還元すべきだと言っていたけれど自分達の天下り予算を増やすのに懸命だから無理だろうけど欲深すぎる財務省。ここも日本人より外国に予算を使う。
それにしても、岸田首相は米国で米国民主党が喜ぶような演説をし日本から沢山の手土産を持って行ったのにも関わらず、その後のバイデン大統領の日本を蔑む発言には驚いた。“日本人は外国人嫌いで移民を望まないから経済的な問題を抱えている。自分達は移民を受け入れてきたから経済発展を遂げられた”と自慢して見せた。
ともかく、どうやって日本の経済が潰されてきたのか本当に知らないのだとしたら無知すぎて言う言葉もない。その言葉に先日、参政党の神谷国会議員が“我々は移民政策の失敗をヨーロッパやアメリカで見てきている。その失敗から学んで慎重になっているけれど外国人を排斥したり差別をするような事はしていない”と反論した。そしてその事を米国のフォックスニュースで取り上げられ、それに対して不法移民が増え続け治安が悪くなっている米国の人の賛同と評価は大きかったようだ。
日本はカリフォルニアにすっぽり入ってしまうくらい狭いのに昨年でわかっているだけでも400万人近い外国人が暮らしている。不法滞在者やなりすまし日本人も含めるとどのくらいかはわからない。それなのに政府は移民をその倍にしようと画策している。“新しい日本人を作る”と豪語していたデジタル庁の大臣も日本人より帰化人を政界に入れたがっているように思える。
岸田首相の弟さんの会社、株式会社フィールドジャパンwith Kは特定技能制度でアジア人を採用して日本に送りこんでいる。人手不足という言葉でライドシェアとして外国人ドライバーを入れるようにしたり一定の業種が儲かるようなシステムだ。日本には20万人も職に就けていない人がいるのにと、これも高橋洋一氏が言っていた。
世界報道自由ランキング毎年70位あたりにいる日本のメインメディアは肝心な事は言わない。米国からの圧力でLGBT法案もたいした審議もされず反対の議員の数が多かったにも関わらず1日で強行採決された事も酷い事だ。国の潤沢な予算で現在、子供達の性教育組織が着々とすそ野を広げている。メディアの広報活動も活発になってきている。おそらく日本人の人にLGBT法案と言ってもその真意がわかっている人は、ほんの一部だと思う。それがどのくらい恐ろしく日本の文化、精神、家庭を滅茶苦茶にしていくのかは早く気がついてほしい。先日、米国の友人と話したらトーランスあたりも治安が悪くなってきていて昨年もデルアモショッピングセンターで発砲事件があり10代の子供達が暴れて店を滅茶苦茶にしていったとかでショッピングセンターに入る時に18歳以下は親が同伴でないと入れなくなっていてセキュリティーチェックがあると聞いて驚いた。不法移民と共に麻薬や銃も入ってきている。こういう連中は真面目に働き税金を納めてきた移民の人にも迷惑だ。日本での外国人犯罪も調べるとすごい事になっている。ラインヤフーの情報流失も度重なる。サーバーが日本に無い事もあまり知られていない。TikTokやHuaweiの危険性も伝えられていない。日本はスパイ防止法も無いし犯罪天国だ。今の日本の政治家の顔を見ると、やる気のない魂の抜け殻のような議員が多い。こういう人達を放置しておいたら本当に日本がぶっ壊されてしまう。早く若手のやる気のある人と交代して欲しい。その後押しをしていくのが私のようなおばさん、おじさんの責任なのかなと思うこの頃、、、、
スパイス研究家 茶子
特別寄稿 ー 井出半句「Welcome to Los Angeles!(第十一話)」
最終章・後日談
いよいよ最終章になった。
こんなに長く引っ張るつもりはなかったのだが、読者の方々からの反応や情報に後押しされた形となった。その一つをご紹介しよう。
運転免許証の収入印紙領収証に、通し番号も支払者の名前も記載されていないことを第九話で指摘した。(添付の通り、日付と金額のみ)
この件に関して読者から「警察と警察の委託事業者である各県の交通安全協会の不正経理を、内部告発者およびメディアが何度も訴えているのでウィキペディアを読んで見ろと」のメールを頂いた。
見ると、ある、ある。しかし内部告発者は左遷されたり、長期間の自宅待機処分を受けたりしたという。つまり、告発されても、問題視されても、改善どころか組織ぐるみで報復に出ているというのだ。小生の質問状など出しても屁の河童だろう。また、その読者からは「質問状などを出すと、逆に警察や公安から嫌がらせ、盗聴、挙句の果ては免許更新時の不合格などあるかも」との冗談とも本気ともとれるアドバイスを頂いた。
さらに関連記事を読むと「公安委員会・警察署単位の交通安全協会は、財団法人なので情報公開の対象外である」と記されている。もともと私のような軟弱市民じゃ太刀打ち出来ない仕組みになっているようだ。
ついでに、運転免許証更新時に支払う交通安全協力費(本来は任意支払なのだが、有効期限により1,000~1,500円支払う)の8割は天下り警察官の退職金などに当てられ、交通安全に向けられるのは2割程度との記述もあった。ウィキペディアの記述がすべて正しいとは思わないが大きく外れてもいないだろう。闇は深いままだ。
お口直しに話題を変えよう。
日本列島はほぼカリフォルニア州のサイズだが、日本の歴史ある豊富な多様性と素晴らしさには到底及ばない。日本は単一民族ながら、一本の川、一本の山脈を超えれば言葉も食べ物も習慣も変わる。特に地方に行けば人情の深さも味わえる。それをことさら感じるのは日本一周の船旅だろう。
4月下旬からのGW、まずは横浜から一昼夜かけ佐賀県唐津港へ。「唐津くんち」で有名な14台の見事な曳山を展示場で見た。その展示場の路地向いに曳山の数と合わせて14軒の屋台があった。真昼間ながら一軒だけ暖簾が掛かっているので中を覗き「入っていいの?」と聞くと「よかよか。入らんね」。地酒を注文し、地元の酒の肴は何かと聞けば「魚(ぎょ)ロッケ」と。白身の魚をすりつぶしコロッケ風に揚げたものだ。「旨かよ」と言われたがバスの集合時間が迫り腰を上げる。「またきんしゃい!」の声が背中に快い。
翌日は島根県の浜田港に入り、世界遺産・石見(いわみ)銀山へ。ガイドが80歳の地元男性で石見弁を多発。私には入社以来の出雲・松江出身の親友がいる。私は「同じ島根でも松江の言葉と違いますね?」と水を向ける。すると「出雲弁はズーズー弁じゃけ。ワシら石見は標準語に近いけん」との反応だった。確かにズーズー弁ではないが・・・・。
石見地方の家々の屋根瓦は石州瓦と呼ばれオレンジ色なのが印象的だ。これが雨に濡れるとさらに輝きを増す。昔、スペイン人、ポルトガル人がこれを「金の瓦」と称したと、石見出身のゴルフ友が誇らしげに教えてくれた。
そんな屋根の列なる谷間の銀山。最盛期は20万人が住む栄華を誇った。しかも米国西部のゴールドラッシュのような無法地帯ではなかった。関が原で勝利した徳川は、毛利から銀山を奪い統治し、セキュリティーは厳重だったと。それでも一家の働き手が病気になると扶養家族の養育費(米みそ類)を支給するなど福利厚生も充実させた。ただ、鉱夫の給料は高かったものの、粉塵被害で平均寿命は15年ほど短かったらしい。ハイリスク・ハイリターンということだろう。
銀山の間歩(まぶ)長々と五月闇 井出半句
数百ある間歩(坑道)の中で一か所だけが整備され公開されている。江戸時代には五時間三交代の手掘りで一日30cmほどしか掘り進めなかったという。見学者は450mほどを一方通行で歩き別の出口に出る。その450mは1,500日間(4年間)掘り続けた長さに匹敵する。当時はカンテラ代わりに、サザエの貝殻に油を入れ、紐に火をつけ腰にぶら下げ、その細々とした灯りの下で掘り続けた。辺りは漆黒の闇だ。外部の者には想像もできない。
さらに船は北上し酒田港に入った。かつて北前船の寄港地として栄えた街だ。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といわれた豪商・本間家の山居倉庫も現存する。豪商と言えば、時代劇で悪代官が「お主も悪よのう」と裏金を受け取るシーンを思い出す方もあろう。本間様はさにあらず。武士や大名にお金を貸すことはしたが、借りた侍には返済期限なしで生活の再起を促し、藩内外の大名には財政改善のアドバイザーとなりともに藩の財政立て直しに尽くした。さらに防砂林の植樹、酒田港の築港、飢饉時には穀類の放出・・・と何代にも及び民衆と共に歩む家訓により、現代でも地元では本間様と親しみを込めて呼ばれていることを肌で感じた。
その本間家山居倉庫の展示室には「おしん」の作者・橋田寿賀子のエピソードが掲示されている。橋田が最上川近くの集落に疎開した時に「10歳ぐらいになると女の子は酒田に奉公に出されたもんだ」と聞いた話が「おしん」のヒントになったと。雪の降る中、最上川をいかだに乗せられたおしんが「カーちゃん、トーちゃん」と泣きながら米一俵と引き換えに奉公に出るシーンの撮影では、橋田も撮影スタッフも全員が涙を流した・・・と。そして全国民も、世界68か国でも涙を流した。
チャーターバスで名峰・鳥海山の五合目まで登った。前日までは天気に恵まれなかった旅だったが、酒田は快晴。田に水を張った荘内平野はもちろん日本海の飛島、さらに秋田の男鹿半島まで眺望が開ける。鳥海山は雪解けが進み、雪形が農作業を促す。
鳥海の雪形押すや耕運機 井出半句
港の臨時売店で、自作の米で作ったおこしを売る農家のご夫妻が「きょうは天気えぐて、えがったの。船でえっぺ来てけで、もっけだの」といわれた。筆者は福島生まれ、女房殿の父は津軽生まれなので、大抵の東北弁は理解できるが、もっけだ(ありがとう)は知らなかった。
東北弁の短い方言には標準語で説明のつかない意味が複数含まれる。その典型が「しゃべる」。吉幾三の歌に「しゃべればしゃべたてしゃべられる。しゃべねばしゃべねてしゃべられる」とある。しゃべるには「普通に話す、知らせる、公言する、おしゃべりする、うわさ話をする」など状況により意味合いが違う。岩手県久慈港から出る臨時バスの運転に市役所の係員が「時間が来たらマイクでしゃべってから出発してけろ」というのを聞いた。
クルーズ船のもう一つの楽しみは、港々の歓迎の仕方だ。観光者馴れした港などは何もないし、島根県浜田港などは中学生のブラスバンドと共に県知事のお出迎えと挨拶だった。トップダウンで観光に力を入れているのがわかる。
酒田も負けてはいなかった。写真のように「花笠音頭」の歓迎で、後ろにはWelcome to Sakataとあるではないか。このWelcomeは筆者がLAで感じた別の意味のWelcomeとは違い、どこまでも温かく感じるものだった。それは、わずかに残る方言がそう感じさせてくれるのかもしれない。今では鹿児島も会津も中高生は標準語で話す。若者はジーちゃんバーちゃんの方言をわずかに理解する程度だ。地方のガイドさんたちは「XX弁検定試験」なるものを受けて方言を旅行者に披露する特殊検定者となっているのが現実だ。方言の消えるのが実に惜しい!
余談が長くなった。
最後に日本は安全、と結論付けたいのだが、最近国内でも物騒な事件が後を絶たない。手放しで安全とは言い切れない。観光立国ジャパンに外国人訪問者が増える中には窃盗団も含まれるし、あっさり人を殺める日本人も増えている。これからは日本人も国際レベルの防犯意識を同時に備えなければならない。そのためには、さんざこき下ろした警察の方々の意識も変えて頂かなくてはならない。頼みますよ、本当に!
意識を変えろ、と言ってもにわかには無理だろう。私のこの失敗談を聞いても、反応は大きく二つに分かれた。例えば、海外経験者の一人は「で、どうしたの・・・面白い、いつまでも聞いていられる・・・」とまさに「人の不幸は蜜の味」を地で行く反応を示した。それは恐ろしい体験をした男が目の前で語っていることを認識しているからだ。
一方、田舎の兄などは「あ、そう」で終わりだった。無理もない、家に鍵をかける風習のない地方である。それでも、原発被害で家を空けた期間に空き巣が横行した時期があり、鍵をかけるよう村からの指示で、やっと一年ほど前から母屋と隠居に鍵をかけるようになったとのことだ。
日本が観光開国したことで、日本は防犯維新時代に入ったのかもしれない。
(おわり)
オーディオは衰退している
ジャズをいい音で聴きたいという思いで、オーディオの世界にすこしだけ首を突っ込んで楽しんでいます。若い頃、オーディオがブームでしたが、音源であるレコードが高価でそんなに買えなかったことや音質がもう一つだったのでそこまで熱心ではありませんでした。あれから数十年経ち、高音質の音楽を好きなだけ聴けるようになった音楽ストリーミングは夢のようです。
レコードからCDに変わったころから、オーディオ機器は高性能化し原音の忠実再生ができるようになっています。オーディオ機器の性能は低スペックな人間の耳の性能を遥かに超えています。ですから高価ブランドのアンプと廉価なデジタルアンプで聴き比べても音質の差など感じられません。個人的な意見ですが、歪みとノイズが多く(ダンピングファクターが低いので)スピーカーの影響をもろに受ける真空管アンプの音が味があるとありがたがって聴いている人はノスタルジックな世界に浸ることがオーディオだと信じているだけだと思います。オーディオ機器の売り場に行くと、こんな高価な機器を買って何をするのかと思ってしまいます。興味深いことがいっぱいある今の社会でオーディオにだけ興味を持つ人は少なくなっていると思います。目新しい技術もなくなっているオーディオは中国のメーカーが台頭しているので日本の老舗オーディオメーカーも次々倒産しています。オーディオに大金を注ぎ込むことを趣味としている特殊な人を奪い合っているだけのオーディオ業界はもう衰退してしまっているということでしょうね。私は細々とイヤフォーンを取り替えて音の違いを楽しむことにします。《R.O.》
ジャズライフ Alfonso Gugliucci “My One and Only Love”
頭を休めたいときは静かな曲がいいです。Alfonso Gugliucciのピアノはちょうどいいと思います。紹介するアルバムはMy One and Only Loveです。これまでに2枚紹介していますが、同じような印象のアルバムです。一曲目はAutumn in New Yorkですがそんなことは気にしないで聴いています。とても落ち着く曲です。《R.O.》
01-Autumn in New York
02-My One and Only Love
03-Over the Rainbow
04-Moon River
05-My One and Only Love (Jazz Trio)
06-Theme from The Bodyguard
07-Quanno Chiove
08-Cry Me a River
09-When I Fall in Love
10-Body and Soul
11-Round Midnight
12-Fly Me to the Moon
編集後記「井出さんいつでもWellcomeですよ」
11週にわたってWell Come To Los Angeles!を特別寄稿していただいた井出さん、本当にありがとうございました。読者の皆さんも興味を持って記事を読まれたと思います。長年、北米に暮らしていた井出さんでも、こんな事件に遭遇するんだと思いました。これから海外に行く人の参考になればいいと思います。私が井出さんとロスで知り合ったのは30年以上前です。1999年11月9日、有志の皆さんに開催していただいた雑貨屋店主の送別会にも参加していただきました。それ以来、井出さんにお会いできていませんが、その時のお顔を思い出しながら読んでいました。今年の10月にトロントで知り合った友人ご夫婦二組と栃木の日光で会うことになっていますので、その前後に雑貨屋に関わっている皆さんにお会いしたいと考えています。その時にお会いできればと思っています。もし井出さんが記事を書きたくなったらいつでも歓迎しますのでよろしくお願いします。《R.O.》
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