雑貨屋ウィークリー1473号

雑貨屋のひとり言「暑い日本」

猛暑が続く中、外でのスポーツは要注意です。卓球場はクーラーが効いているのでいいのですが、ゴルフは半日も外ですから辛いですね。1985年の夏、フロリダのフォートローダデールというところでゴルフをした時のことを思い出します。その地域はゴルフ場の池にワニが生息する湿地帯でした。朝からじっとしていても汗が吹き出す蒸し暑さで、とてもゴルフをやる環境ではありませんでした。ゴルフ場の周辺にある家はどこもクーラーの室外機が回っていて、一日中ついているようでした。当時の日本では考えられないことでした。それを見てこんなところには住みたくないと思ったものでした。あれから40年、日本の夏は体温より熱い気温になり熱中症で多くの死亡者が出ています。現在のフロリダフォートローダデールの気温を調べたらこちらより過ごしやすそうに思えます。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )

年金の脳に乾燥注意報

脳細胞もう三分ほど死にました

分別収集ボクの肩書はどっち

日々好日頷くだけの首になり

駒一つ足りぬジグゾー組んでいる

(ニュースひとりよがり)

「株下落」

根性なしだな —物価

「不合格」

不測の事態が —敦賀原発2号機 

「着地」

金メダルにピタリ —男子体操

河合成近

龍翁余話(845)「今年もまた慰霊と感謝と祈りの月」

今年もまた慰霊と感謝と祈りの月がやって来た。毎年8月には本欄で“慰霊と感謝と祈り”を書いている。いよいよ凝り固まる翁の国粋主義(愛国心)が書かずにはいられない心情を搔き立てる。そこで今号は、昨年8月6日に配信した『龍翁余話』(793)「8月は鎮魂の月」を再現する。

8月は日本にとって特別な月なのだ。8月6日は「広島原爆の日」、8月8日は「ソ連が対日参戦を宣告した日」(詳しいことは後で述べる)、8月9日は「長崎原爆の日」、そして8月15日は「終戦の日」――これらの日を知らない(または何の感慨も持たない)世代が多くなった。それはそれで仕方のないことだ、と若者寄りの発言をする人もいるが、中高年者、特に翁のような(多少は)戦中・終戦直後を知っている世代は、これらの日を忘れることは出来ない。それぞれの時刻、テレビの前で黙祷を捧げる人も多かろう。勿論、翁もその1人である。そして、この時期には戦争関連のドラマやドキュメンタリー番組などが多く放送される。近年のドキュメンタリー番組で、特に気になるのは大東亜戦争(太平洋戦争)の“戦争体験者”が超高齢化し、あるいは、その体験者(証言者)の数がだんだん少なくなっていることだ。実は翁、1999年の靖国神社御創建130年記念年に戦争ドキュメンタリー映画『私たちは忘れない』(60分)を製作した。その時、元陸軍兵士、元海軍兵士と陸・海の元航空隊員、及びご遺族の方々約20人の“戦争体験者”を取材(インタビュー)した。その映画を見直すと、どなたも矍鑠(かくしゃく)としておられた。が、聞くところによると、その半数以上の方がお亡くなりになっているとのこと。翁、先日(7月末)手元にあるビデオを見ながら、インタビューに応じて下さった方々に改めて感謝し、亡くなられた方々のご冥福をお祈りした・・・

さて、翁が未だに(と言うか今もなお)絶対に許せないのが旧ソ連(現ロシア)である。他人の土地(領土)に土足で踏み込む(侵攻する)ことや、国際法や人道をわきまえず、屁理屈をこねて自分たちの行為を正当化する為政者たちの思想回路は昔も今も変わらない。――大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年8月8日、ソ連は1941年(昭和16年)4月に締結した“日ソ中立条約”を一方的に破棄して日本国に対し宣戦を布告した。そして、日本が“終戦”を宣言した8月15日以降も日本領土侵攻を続けた。“終戦”以後、日本軍は武器弾薬を放棄していたが、それでも日本領土と邦人(日本人)の生命を守るために、(ほとんど武器らしい武器を持たないまま)ソ連軍に立ち向かった。その間、約8万人の日本兵が戦死、約57万人がシベリア抑留(うち、約7万5000人が過重労働・厳寒・飢えで死亡)、更に約20万人の民間人が野蛮なソ連兵によって強姦・虐殺され、挙句の果てに北方領土を不法占拠された。当時、北方4島=択捉島(えとろふとう)には3,608人、国後島(くなしりとう)には7,364人、色丹島(しこたんとう)には1,038人、歯舞群島(はぼまいぐんとう)には5,281人、合計1万7,291人の日本人が住んでいた(千島歯舞諸島居住者連盟調べ)。が、1948年(昭和23年)までに全島民がソ連によって強制的に退去させられた。以来、ソ連(現ロシア)は79年間、不法占拠を続けている。それ故に長年“北方領土返還”を叫び続けて来た翁、ロシアの為政者に対し“ドロボー猫”と蔑み、忌み嫌っているのである。そのロシアが、79年前のスターリンの暴挙に倣って今度は狂人大統領のプーチンが2022年2月24日、突然、ウクライナに軍事侵攻を開始、世界を唖然(呆然)とさせた。そこには国際法も倫理も(つまり、何の正義も)ない小心者プーチンの妄想による暴挙である。ついでに言うが“狐のプーチン”・“狸の習近平”・“豚の金正恩”は、まさに“21世紀の極悪3人組”であり、彼らの共通点は“妄想にとりつかれた小心者独裁者”である、と翁は断言する。

話は変わる――(戦争には関係ないが)翁には「もう1つ鎮魂の日」がある。それは1985年(昭和60年)8月12日、日本航空123便が群馬県・御巣鷹山に墜落した事故だ。毎年、ご遺族が御巣鷹山の事故現場で犠牲者に合掌する映像をテレビで視て心が痛む。実は翁、母が生存中は毎年春と夏の年2回、故郷(大分県)へ帰省していた。その日(1985年8月12日)の朝、同機(羽田―福岡の便名は363便)に乗って羽田空港から福岡空港へ向かい、出迎えに来てくれた兄夫婦と一緒に福岡県内の名所旧跡をドライブして回った。夏の日は長い、まだ明るさが残る7時半頃(数年前に翁が母のために購入した”我が家“へ)帰宅した途端、待ち構えていた母に一喝された「あんたたち、今まで、どこをうろついていたんじゃ、どれだけ心配したもんか」・・・兄夫婦も翁も、母の怒りの意味が分からなかったが、翁たちが帰宅したほんの30分ほど前に日本航空(羽田―伊丹は123便となる)の墜落事故でテレビがそのニュースを流しっぱなし。おまけに翁の会社(東京)から「社長は無事にお帰りでしょうか?」の電話で母の心配は更に高まったそうだ。余談だが、当時はまだ携帯電話はなかった。携帯電話をはじめとする移動通信サービスの発展・普及は1993年(平成5年)頃からだった、と記憶する――翁が夏休みを終え帰京して数日後、群馬県警から翁の会社へ捜査員2人がやって来た。「当日、福岡空港までの機内で、何か異変を感じたことはなかったか?」が質問の主旨だった。驚いたのは、当日の翁の座席番号まで調べていたことだ。「日本の警察は凄いね」と2人の捜査員に告げたら「当日の福岡便の乗客全てのお名前と座席何号を把握しています」とのことだった。しかし、翁のところにやって来た捜査員には気の毒だった。何故なら、何1つ、異変を感じた記憶はないし、第1、翁は搭乗すると直ぐに寝入ってしまう習性があったから・・・それはともかく、8月12日のお盆入り(13日)の前に520人のご冥福を祈るのが翁の習慣となっている。

冒頭にも述べた通り「8月は日本人にとって特別な月」。絶対に忘れてはならない「慰霊・感謝・祈りの月」。2024年の8月、翁、故郷(大分県)にて「戦没者に対する慰霊・感謝の眞を捧げ、平和への祈りの灯をともしたい」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「大人の休日倶楽部 山形県編」

連続日帰り旅5日目

今回の旅の最終日は山形の庄内地方でお米を作られている井上農場さんを訪問させて頂いた。この春に新宿で一合一会のラベルを貼った雪若丸のお米をいただいた事がご縁で、いつか、ここの農場を訪れてみたいなとずっと思っていた。井上農場さんのパンフレットを見ると農場でイキイキと働いているご家族の姿が写っていて、その一人一人の笑顔が輝いていて実に幸せそうだった。
“ 食べた人が幸せを感じる農作物 それが井上農場の想いです“ と書かれてあってそのコンセプトがとても気に入った。実際、井上農場の社長さんにお会いした時も自分は政府のために米を作っているわけじゃない、美味しいものを家族に食べさせたくて作っているのだとおっしゃっていた。
これが一番のパワーの源であり大切な家族があって、その家族の集合体が市町村であり大きな集合体である日本の国に繋がっていく。家族が幸せに、これが基本なのだと思う。

政府の言われるままに減反し他の農作物を作って補助金をもらうのでなく自分が好きな作物を好きなように作りたいと社長さんは言っていた。そして農協に頼らず自分達で販路を開拓し米を販売しているという姿勢もいい。土作りにもこだわって有機質肥料や自然由来の活力剤を使い自然に優しい農業に取り組んでいる事も消費者にとって安心だ。
食の分野でも医療でも芸術でもモノ作りに携わる人の基本は努力に培われた信念があって、そこがブレていない人達だ。そういう人達は良い結果を生み出している。

私は“ひたむき”な真っすぐな生き方をしている人が好きだし、そういう人達に出会うと自分も勇気がもらえるし元気になる。井上農場さんの栽培作付け面積は東京ドーム約16個分、ハウスも16棟、米以外も完熟トマトや小松菜、加工食品なども手掛けているそうだ。温度管理が出来る自家用のライスセンターもあり農作物の作り手と消費者が交流出来るゲストハウスもあって忙しい中、いろいろな試みをされている。
それに社長さんの名刺に趣味は” 妻を愛する事が1番最初に書かれてあって次にピアノ“と。それを見て思わず笑みを浮かべてしまった。これが夫婦円満で家庭が明るくなり、子供たちはそんな両親を見て育ち家族が皆仲良く農場を支え繋がっていくのだな〜と。そいう幸せの波動は地域にも他の人にも伝わっていくものだ。ゲストハウスに飾られていた地域のお祭りに参加している家族の写真を見てそう思った。

今、残念な事に日本で耕作放棄地が何と半分もあるのだとか、、、、だんだん日本の原風景である水田の景色が見られなくなってくる事は寂しいし、今後日本人にとって主食である米が食べられなくなる日が来るのではと心配されている。戦前、日本人はお米を中心に食べお米と共に暮らしその中から伝統文化が育まれて来た。長い歴史の中で私達は米を食べて命を繋いできた。だから私達の体もお米との相性が良く健康にいいのだという事が今頃になってわかってきている。母の先生もうどんやパンでなく基本はご飯を食べなさい、日本人の腸に一番合うのがお米なのですとアドバイスしている。山登りの時もお握りが1番。力が出るのと持続力が違う。体の中で完璧に消化して体に負担が無いのもいい。氣と言う文字に米が使われていたのも先人達は米に秘められたパワーを感じ取っていたのかもしれない。

庄内平野の水田が地平線まで続くその向こうに山が見えた。東には月山、北には鳥海山その山と豊かな日本海の水が注ぎこむ最上川と赤川。
サンサンと降り注ぐ日差しを浴びて秋には黄金色に輝く稲穂に成長する。

先週、山形を襲ったゲリラ豪雨で米農家さんの被害状況はどうだったのだろう、、、、
こういう時こそ政府がため込んだ税収や(今年は4年連続で過去最高)隠れ資産を吐き出して農家さんの被害に使うべきだ。守るべきものは何なのか、何を大事にするべきか、、、そういう事がわかるリーダーでないと日本の米が日本から消えてしまう。

スパイス研究家 茶子

逃げ場のない国  震災余話 井出半句

第十話 流言飛語

3/29/11(火)晴、今日も寒い。

きょうはある人とメール交信していて「座布団一枚!」と言われたのでその話から入ります。

東電

前の余話で東電の計画停電は思わせぶりだと感情論を書きました。

きょう東電は計画停電を予告していた地域の停電をやめると発表。

理由は気温が上がるので暖房などの電力が予測より減るから、と。

ほら、ネ。やらなくてもいいんだよ。

最初は「地震のせい」次は「電力使いすぎるお前らのせい」

今度は「天気のせい」・・・・これこそホントの能天気だ!!

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何でも人のせいにすると気は楽なのでしょう。想定外、という言葉もそうだ。

話のレベルは違うが、ゴルフをしていてミスをすると、大抵のシロートは

①キャディや同伴者のせいにする(サイテー)

②道具やボールのせいにする(他人に当たらないだけまだまし)

③自分を分析し、改善策を考える(藍ちゃんとか遼君タイプ)

に分類される。①、②のタイプが上達しないのはだれが見ても明らかだが、本人だけ気づかない。

つまり自分の姿や態度は自分で見えないのだ。人と話す時に鏡を持ち歩くわけにはいかないからね。もっとも自分の顔がいつも見えたら気持ち悪くなって話もできないが・・・。

流言飛語

きのう、原発事故・自主避難範囲の少し外側(原発から40Km)のいわき市に残っている三歳違いの甥(65)に電話した時の話です。(私は3歳から叔父さん=おんつぁ、である)

甥は原発近くの老人施設に両親(彼の母が私の姉)を預けており、その施設は原発騒ぎで別な町に移転している。甥曰く「施設でおまえの親爺が亡くなったと親戚から電話があり、よりもよってこんな時にどうやって葬式しよう、火葬もできない、と往生したよ」と。

甥は長男だが家を出て、弟に家を継がせている。川内村から山形に避難していたその弟に連絡したら彼もびっくり。川内村役場が移転している郡山に連絡したら、そういうことらしい、と。で、親を預けていた施設に電話を入れると「健在ですよ!」とこと。

一体どうして死んだ話になったか未だに分からないとのこと。この話を私のところに避難している兄にすると、兄は一瞬考えて「分かった!同じ名前の人が最近亡くなった。そう言えば、その人の長男と長女の名前も全く同じだなあ・・・」「苗字も同じなの?」「川内は苗字では呼ばないから」う~ん、ファーストネームだけか、アメリカ並みだなあ、と私はヘンなところに感心する。

私は甥に謎解き結果の電話を甥にすると「そういうことかあ、迷惑な話だよなー」

「笑い話で良かったね」「それが笑っていられないんだよ」「どうした」「親しかった江名(近くの漁港)の友人が奥さんともども打ち上げられたって今知らせがあったんだ」

「ん・・・・・・・ゴメン」

311(さんいちいち)紙一枚の悲喜あまた

                     半句

米国に長く住み、帰国してこの悲劇に遭う。

日本人の悲しみの表現は米国や韓国のそれと全く違うことを知る。日本人は悲しみに面しても、まずハグはめったにしない。大泣きもしない。せめて抱きしめてやればいいのに・・・と思う。耐えて、わめかず、精神を昇華して、それをばねにする民族なのかもしれない。

心で嘆きつつも諸行無常感をいち早く悟り、立ち直る比類の力を有するDNAを持っている民族なのかも知れない。

【上左】いわき市薄磯海岸でわがバンド「ヒマナスターズ」が「花は咲く」を献歌。(111人が津波に飲まれた。甥の友人夫婦も含まれている。家屋の85%が損壊、流失)

【上右】いわき地方で新盆の家々を巡って鎮魂する「じゃんがら念仏踊り」。2011年のお盆時期、薄磯海岸でこの写真を撮って良いかこの家の許可を得ようとしたら「どうぞ、どうぞ。ついでに上がって線香をあげて行ってください。故人も喜びますので」と言われその通りにした。じゃんがらで故人を偲ぶに際し、出来るだけ多くの人に加わって欲しいというのような意味合いもあることを知った。

第十一話につづく

ジャズライフ George Benson “20/20”

今日はロスにいたころ良く聴いたジャズ、フージョンのギタリストGeorge Bensonのアルバム”20/20″の紹介です。このコーナーのアルバムを検索してGeorge Bensonが出てこないのでなぜこれまで紹介していないのか不思議なのですが、このアルバムがポップ調だったからかもしれません。《R.O.》

1-No One Emotion
2-Please Don’t Walk Away
3-I Just Wanna Hang Around You
4-Nothing’s Gonna Change My Love for You
5-Beyond the Sea (La Mer)
6-20/20
7-New Day
8-Hold Me
9-Stand Up
10-You Are the Love of My Life

編集後記「姿勢は見かけ年齢に現れます」

私の五十肩の施術をやっていただいている(もうすぐ終わります)重症専門の整体院には身体の痛みの問題を抱えた人が最後の手段として来られています。先日、その整体院に行ったら背中が大きく曲がっている人を見かけました。見た目から受ける印象はかなり高齢に見えました。その人はまだ50代だと知って驚きました。背中が曲がっているとかなり老いて見えるということです。顔の美容に気を遣って若造をしていても姿勢が悪いとその努力も台無しになります。自分の歩く姿を確認して姿勢が悪くなっていると思ったら、意識して修正したいと思います。《R.O.》

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