雑貨屋ウィークリー1451号

雑貨屋のひとり言「現金払いの理髪店」

私が行く理髪店はお客さんが支払い機に現金を入れて支払いするシステムになっています。店員さんの手間を省くためにこのシステムを導入したと思うのですが、お客さんが来ると毎回、店員さんが支払機の所に来て、カットですか?シャンプーしますか?と聞いてからお客さんが支払っています。何か変だと思っていました。普通はお客さんが画面のメニューからサービスの内容を自分で選ぶことになっていると思うのですが、その操作を店員さんがお客さんの反対側でしていて、お客さんは料金を聞いて支払うだけになっているのです。支払い機を導入する時、お客さんに操作してもらおうと計画していたらしいのですが、1-2ヶ月毎にしか来ないお客さんにやり方を教えても、次来た時には忘れていて、毎回店員が教えなければならず、その手間を考えて今のやり方にしたそうです。それでも店員さんはお金に触れず、お釣りも間違わずに出ますし、最後の集計までやってくれるのですから省力化にはなっていると思います。たまたま私が挿入したお札が引っ掛かり機械がエラーになり、店員さんが直していた時にそんな話をしてもらい、キャッシュレス化、IT化が進みにくい一面を見た気がします。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )


練り上げた策に想定外の乱

歯ぎしりの音が譲歩を迫られる

赤勝て白勝て武器商人が声からす

世界地図赤く塗りたい国のエゴ

難民に住めば都のない地球

(ニュースひとりよがり)

「大谷選手結婚」

番外ホームラン  — ドジャース球場

「政倫審」

幕引きの儀式だよね — 自民党

「出生数最低」

生もう増やそう — ロボット

河合成近

龍翁余話(823)「耶馬渓・青の洞門」

いよいよ3月――3月は“弥生”とも言う。「弥生は、いよいよ草木が生い茂る月」と言う意味だそうだ。他にも“桜月”とか“花見月”、“夢見月”と言う別称もあるので「3月は、自然界の生あるものが本格的に活動を開始する月」と翁は解釈している。そこで3月初旬に何か興味深い記念日はないか、と調べていたら3月6日は(翁が大好きな小説家の1人)“菊池寛の命日”であることを知った。ご存知のように菊池寛(1888年12月26日~1948年3月6日)は大正・昭和の文豪。小説執筆のほかにジャーナリストとしても活躍、また文藝春秋社を興し、芥川賞・直木賞の創設にも加わった。翁が、菊池寛小説の愛読者になった同機は、中学1年生の時、彼の作品『恩讐の彼方に』に出会って以来だ。この小説は(大分県の)翁の故郷に近くて、よく知っている『耶馬渓・青の洞門』が舞台、それ故に翁、この小説を熱っぽく(一気に)読み切ったものだ。

『耶馬渓』(やばけい)と名付けられた奇岩景勝の地は、北海道から九州までの各地に約17か所もある。何と台湾にも4か所ある(新竹・南投・高雄・台東)。“台湾・耶馬渓”は多分、日本がかつて台湾を統治していた(1895~1945年)時代に命名されたものだろう。日本や台湾ばかりでなく『奇岩景勝地・耶馬渓』の名は、今や欧米にまで知れ渡っている。翁が今号で紹介する『耶馬渓』は、勿論、我が郷土(大分県)の『耶馬渓』である。

大分県の『耶馬渓』は、中津市・山国川(1級河川、別名“暴れ川”=大雨が降ると周辺の道路や樹木、家々を押し流すほどの猛威をふるう大河)の上・中流域及びその支流を中心とした渓谷、日本三大奇勝(日本新三景)に選定され、“名勝・耶馬日田英彦山国定公園”に含まれる。大分県の『耶馬渓』は本耶馬渓・裏耶馬渓・深耶馬渓・奥耶馬渓に分けられており、ここで取り上げるのは本耶馬渓にある『青の洞門』である。なお、中津市は日田市・宇佐市・玖珠郡玖珠町に隣接した城下町。(後述の禅海和尚と関係の深い)羅漢寺や、中津城・福沢諭吉旧居などの文化財、歴史建造物が多い観光都市。また、福岡県北九州市・行橋市・豊前市にも近いので豊後(大分県)と豊前(福岡県)両方の歴史や文化(方言・生活習慣など)が相交わる独特の“中津文化”を形成している。

さて――そもそも『耶馬渓』とは、頼山陽(1781年~1832年、江戸後期の歴史家・思想家・漢詩家)が今から206年前、九州を旅していた1818年(文政元年)の秋、天領地・日田郡(現在の日田市)から(旧地名)“山国谷”を訪れ、その入り口にさしかかった所の絶景に圧倒され「筆舌に尽くし難し」と言って筆を投げた“投筆の地”が今も保存されている。翌年(1819年)、頼山陽は「耶馬渓図鑑記」を描き、“山国谷”の“山”に“耶馬”の字を当て「耶馬渓山天下無」(やばけいのような素晴らしい所は天下に2つと無い)の歌を添えた。それが『耶馬渓』の名の起こりであると言われている。そして『耶馬渓』が広く知られるようになったのは菊池寛が “中央公論“に『恩讐の彼方に』を発表してからだ。しかもその小説の発表は、頼山陽が『耶馬渓』と命名した1819年のちょうど100年目の1919年(大正8年)のことである。

物語の内容については今更、であるが、主人公の了海(俗名・市九郎)が奉公先の主人・中川三郎兵衛を殺害して、その妾と出奔、その後、強盗を働いていたが、ある時、己れの罪業を悔やんで出家、これまでの罪滅ぼしに『耶馬渓・青の洞門』の開削を始め、数年後、三郎兵衛の息子(実之助・柳生流剣の達人)が“父親の仇討ち”として掘削作業中の了海のもとへやって来る。了海は“討たれよう”と覚悟するが、周囲の手伝い人(石工)たちから「完成まで仇討ちを待ってくれ」と懇願され、実之助もまた“掘削の意味”を理解して待つことを承諾、いや、結局は了海の誓願に共感して掘削を手伝うようになる。つまり“恩讐を超えて”最後まで行動を共にする、と言うストーリー。実は物語の主人公・了海とは――(実在の人物)江戸時代中期の曹洞宗の僧侶・禅海(1691年~1774年、越後国高田の生まれ、本名は福原市九郎)がモデル。禅海和尚が全国行脚の途中、羅漢寺(山の険しい岩場に造営された曹洞宗の古刹)参詣の折、山国川沿いの断崖に架けられた吊り橋が危険で,人馬がしばしば落下・死亡することを知り、これを哀れみ隧道の掘削を思い立った。1730年に中津藩の許可を得て掘削を開始、道具はノミと槌(つち)だけ。当初、村人たちから“狂人”扱いされたが次第に村民や中津藩ほか九州諸藩の援助を受け、33年後の1763年(宝暦13年)に完成させた。高さ約2.5m、幅約3m、距離約70m(いずれも翁が実際に歩いた時の目測量)。なお『恩讐の彼方に』の物語で主人公の了海(実は禅海和尚)が罪を犯し仇討ちに追われる話は史実ではなく(菊池寛の)創作である、と言われている。

実は翁、仕事が軌道に乗り始めた40歳頃から(母や兄が存命中は)毎年春の連休とお盆の2回故郷に帰っていたが、20数年前に2人が亡くなって以来、ほとんど帰省しなかった。それが昨年から急に“望郷の念”に駆られるようになり、冬(正月)・春(4月)・夏(お盆)の3回も故郷の空気を吸いに帰り、その都度、『耶馬渓・青の洞門』へドライブし、禅海が掘削した洞(円形の抜け道)を歩いた。今年も正月に帰省、5月の連休と夏のお盆の帰省も予定している。結びに翁の好きな菊池寛の遺訓を1つ紹介しよう「左系にせよ右系にせよ、独裁主義国家の民はけっして幸ではない」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「食べることは生きること」

数週間前に友人と大手町にあるレストランに行った。発芽玄米を食べている友人にとって、そこのレストランはお気に入りの場所で時々そこに食べに行くのだそうだ。今回是非、私にもそのレストランで食べて欲しいと友人から誘ってもらった。
とりあえずその日の日替わりメニューのランチを選んでみた。運ばれてきたランチを見たら何だか、いつも私が作って食べているものと似ているな~と言うのが最初の印象だった。
でも、いつも私が使っている調味料と食材の仕入れ先が違っているので私の作る料理の味とは多少違っている。友人がこの店が何故好きかと言うと私が作る料理がここの店の料理と似ているからなのだそうでコンセプトも同じようだったので納得した。

鶏の胸肉もしっとり仕上がっていて柔らかく美味しかったけれど別にこれと言った感動とか驚きとかは無かった。やはり自分ではなかなか作れない炭火を使った料理やかまどを使った料理、また異文化の食材や普段使う事のない調味料を使ったレストランにも今後はトライしてみたい。それにしても最近はこういう普通の家庭料理をレストランにわざわざ食べにくる人が増えているらしくお店は、たちまち人で一杯になった。

その数日後、今私が受講しているクラスで” 病院食のポイント ” について学んでいた時の事。
その日に先生から配られた資料の表紙を見たらまず最初に ” 人間にとって 食べることは生きること ”という言葉が書かれてあった。
あれ?最近も同じ言葉と遭遇したな~と先日行ったばかりのレストランの案内の言葉を思い出した。
そのレストランの案内をまだバックの中に入れっぱなしになっていたのを思い出して見てみたら、やっぱり同じ言葉が書かれていた。
休憩の時間に” 今日、先生から頂いた資料の表紙に同じ言葉が先日行ったレストランの案内に書かれてありました。” と先生にその案内を見せたら”あら、本当だ。同じ言葉ね”とニッコリ微笑んだ。食べることは生きることと同時に食べることは楽しみでもあり幸せを感じられる大事な要素だ。歯が悪かったり胃が悪かったり食欲不振だったり精神的な事だったりと様々な原因で食べたくても食べられない人もいる。

昔、病院食は、まずい、冷たい、早い(夕食などは4時半頃)で評判が悪かったらしいけれど今は調理技術の進歩と調理機器の高度化によってずいぶん改善されたらしい。今では病院食が美味しいと評判になっている所もあるらしく其々の病院で様々な工夫と努力をされているようだ。病院給食は治療の一環という事で医者、看護婦、栄養士、調理部門と一つのチームになって一人一人の患者さんの治療、回復に努めているそうなのだ。
受講クラスも半分以上が過ぎた。毎日、日替わりで各分野の専門の先生方から学べる事に感謝だ。

スパイス研究家 茶子

特別寄稿 ー 井出半句「Welcome to Los Angeles!(第一話)」

23年間米国で働き16年前にリタイヤして日本に戻った。その23年間の最後の14年間はロスアンジェルス(以下LAと略す)近郊の日系企業の多い地区だった。ニューヨークなどの東部と違い開放的なカリフォルニア(以下CAと略す)での勤務は自然と社外の友人も出来て、リタイヤ後もCAに年に一、二度通い続けた。それもコロナ期間は途絶えたものの去年から再開。いつもは家内同伴だが今年の1月は特別な用事があったので一人旅。用事以外は旧知の友人たちとのゴルフや食事を楽しみに出かけた。

ところで、Welcome to Los Angeles! と言えば、アナハイムからLAドジャーズに移籍したショーへイ・オータニを歓迎するLA市民とファンの歓喜の挨拶であろう。ところが、私も今回のLA訪問でそのような歓迎を受けたのである。 ただし、ショーヘイは天文学的な契約金と共に迎えられたが、私は身銭を捧げる形となったのだが・・・・まずは顛末を。

寒い日本を発つ前日に、エアチケットを買った旅行会社からメールが入った。 混雑するLA国際空港は通関後重い荷物を携えながらシャトルバスで一旦空港の外に出ないとタクシーに乗れないシステムになっていた。旅行代理店によると、最近トライアルとして国際ターミナルを出た筋向いの駐車場P3にタクシー乗り場が出来たので利用してはどうか、との連絡であった。バスへの荷物積み下ろしがないだけ楽なので利用することにした。

コロナが明けてからの通関はパスポートをスキャンするだけであっけないほど何もしない。通関後早速P3に行ってみるとTAXIと書いた看板があった。先客はおらずタクシーもいない。待つしかないか、と思ったところに男が現れタクシーを待っているのか、と聞く。そうだと答えると、こっちだと私の荷車を押してゆく。アフリカ系で190cm位のすらりとした30歳代の男で顔立ちは良い。ウーバー(予約タクシー)の帰り道で稼ごうということか、と勘繰る。行き先を告げ、知っているかと聞くと、Yes,メーターをオンにします。とスマホを見せ安心させる。立派な車だ。

混雑する空港を抜けフリーウェイ101から405サウスに流れるように乗る。降り口となるホーソン通りが近づいてきたが下りる気配がない。そこで下りないのかと聞くと次のクレンショーで下りると即答。ナビも示す。その手もあるな、と同意する。でも念を入れるために行く先々をチェックしながら「俺は最近までクレンショー通りの近くで働いていたんだ。去年来たときは銀行口座が詐欺にやられてね…」なんて話すと運ちゃんは「俺もクレジットカードでやられたよ。シカゴに行ったこともないのにショッピングしたことになっていたんだ。悪い奴はいくらでもいるよ」なんて調子を合わせてくる。そして間もなく予約したホテルに到着しホッとする。How much?と聞くと160ドルだと。 え、去年6月にはチップを入れて60ドルだったぞ!アメリカは極端なインフレだが半年余りでそこまで行ったか?と疑ったが、やっと「ぼったくりだ」と気づく。ホテルのロビーに駆け込んで助けを求めようかと一瞬思ったが、運悪く周りに誰もいない。ここでガンを突きつけられれば160ドルでは済まない。引っかかった自分へのペナルティーと考えるしかない。投げ捨てるように払った。現役時代なら決してこんなヘマしないのに・・・・。

Welcome to Los Angeles! と、言われた気がした。

教訓:
①TAXIの看板があるところに来た車以外には乗車しない。
②乗り込む前に行き先を告げ大体の料金を聞く。車にメーターがあるか確認する。
③おかしいと思ったら乗らない。人のいるところに戻る
これらの事は、タクシー乗り場を教えてくれた旅行代理店に伝え、社内展開なり、お客さんへの注意事項としてくれと報告した。30年以上付き合っている代理店なので担当者とは気心は知れているが、結果を聞いて盛んに恐縮するので、「ボケ浪人平和ボケして墓穴堀り ーー井出半句」と返した。

ただ、後で考えると、昔ここで働いていたなどと予防線を張らなかったら、彼の仲間のいる場所に車ごと連れて行かれ身ぐるみ剥がされていたかもしれない。そう考えるとまだいいか、と自分を慰めたのであった。
ところがこれは、Welcome to Los Angelesのほんの序章に過ぎなかった。

(第二話へ続く)

ジャズライフ Chuck Loeb Listen

春が近づいているので軽快なスムースジャズを選びました。ギターリストのChuck Loebは2017年に62歳でな亡くなりましたが、たくさんのアルバムを残しています。その中から”Listen”を選びました。Listenで歌っているのは愛妻のCarmen Cuestです。《R.O.》

01-Silver Star  
02-High Five   
03-Love Is All    
04-Right Down Broadway  
05-Shhh   
06-Listen     
07-Rock With You    
08-Geraldine     
09-Buttercup    
10-Chiringito   
11-Blue Kiss     
12-Listen To The Sound

編集後記「井出さんのご紹介」

今週から数回にわたって、井出さんに特別寄稿していただくことになりました。井出さんがロスに行ったときに起こった事件のことを紹介していただきます。これから米国に行く方の参考になればと思います。井出さんは1985年に米国ケンタッキー州に赴任、そこで9年間勤務され、ロスアンゼルスに異動し、14年間勤務されたあと帰国されました。帰国後はムード歌謡バンドを結成しフルート担当。15年間で133回の演奏依頼をこなし、今も継続中だそうです。
67歳から毎週一回尺八を習い始め、2年前琴古流師範取得。市の俳句連盟所属(月2回の句会)、写真五七五同好会所属。ゴルフは週2回のペースで年間100回前後プレーされているそうです。井出さん(奥様も)とは30年くらい前にロスでお会いしました。私が帰国する際、雑貨屋店主の送別会にも出席してくださっています。《R.O.》

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