雑貨屋ウィークリー1478号

雑貨屋のひとり言「なぜなぜ分析」

私達の身の回りで起きるあらゆる問題には必ず原因があります。真の原因を見つけて対策すれば再発は防げるのですが、その原因の追求が表面的なものだと解決にはならず再発することになります。よく会社や団体が問題が起こすと記者会見で謝罪して「再発防止に努めます」と決まり文句を言っていますが何度も同じことが繰り返されているのは真因が解明されないままだからだと思います。知事や視聴のパワハラ問題、高速道路の逆走問題、ブレーキとアクセルの踏み間違いによる事故など、何度も何度もニュースで聞くので、未だに真因がつかめないままだからだと思います。問題の根本原因を探るための有効な手法として広く認識されている「なぜなぜ分析」があります。この手法は、特定の問題に対して「なぜ?」と問い続けることで、表面的な原因だけでなく、その背後にある真因を明らかにすることができます。ぜひやっていただきたいと思います。私もこの「なぜなぜ分析」をやっていろんな問題を解決させようと思います。

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )

歩とはいえ と金王手という野望

躍り出た舞台奈落に気がつかず

天秤に乗せて野心の量り売り

反省のポーズは猿に負けてない

変わり変わり身の早さで主流派の尻尾

(ニュースひとりよがり)

「20人の壁クリヤー」

梯子を外されずにすんだ ―立民 泉代表 

「代表交代」

15年の壁に止められた ―公明 山口代表

「横綱への道」

15人の壁が待っている  ー琴桜、豊昇龍

河合成近

龍翁余話(850)「名護屋城跡と唐津城を遠見」

8月初旬に(大分県へ)帰省していた翁、8月下旬に帰京の予定だったが台風10号のせいで飛行機欠航、仕方なく帰京を遅らせたが、その間(若い時から一度は行きたいと思っていた)『名護屋城跡』へのドライブを思い立ち、台風一過の某日、大分自動車道から長崎自動車道へ、多久ICで一般道へ出て、まずは佐賀県唐津市の呼子町(よぶこちょう)へ。

ここは漁業の町。飛騨高山の朝市、千葉県勝浦の朝市、石川県輪島の朝市と並ぶ“呼子の朝市”で知られるが、何と言っても“イカの活き造り”が有名で“コロナ禍”以前は年間100万人の観光客が訪れていたそうだ。町の中にある“イカの活き造りの店”で、まだ目が動いている新鮮なイカの姿造り(刺身)と(刺身後の)天ぷらに舌鼓を打つ。満腹のあと、いよいよ『名護屋城跡』へ――

“歴史好き”を自認している翁なのに、実は『名護屋城』に関する知識は極めて浅かった。第一、ドライブしていて『名護屋城跡』は直ぐに分かる、と思っていた。しかしカーナビが「目的地到着」を告げているのに見渡せど“城跡”らしきものが見当たらない。見えるのは2,3のこんもり山(丘陵)ばかり。確かに(カーナビが告げた)道路脇には“城跡”の標柱や案内板はあるが、見た感じでは、ただ平場となっているだけで、特に城郭遺構のようなものは見当たらない。車を停めて急いでスマホで『名護屋城跡』を検索した。以下の記述は、翁の浅学を補ってくれたスマホ情報を参考にしたものである。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、国内を掌中にしたことでは飽きたらず、海の向こうの大陸への侵攻を企てる。この「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」は秀吉の錯乱や誇大妄想による突発的な思いつきだと言う人もいたが、実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だったことが明らかになっている。その証拠になるのが、この『名護屋城』の築城だ。「文禄の役」が始まったのは1592年。『名護屋城』はその前の年(1591年)に完成している。玄界灘を望む高台はまさに朝鮮を睨む最適地だ。豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行なった。築城に当たっては築城の名手・加藤清正(熊本城主)や黒田長政(福岡城主=秀吉の参謀だった黒田官兵衛の嫡男)らによる突貫工事で、しかも、わずか5カ月で完成させたそうだ。険峻な山の頂や尾根に築かれた城を「山城」と言うが標高約90mの丘陵に五重天守閣を築いた『名護屋城』は、典型的な「平山城」(小山や丘陵に築かれた城)。

当時は大坂城に次ぐ規模を誇り、全国から160に及ぶ大名・武将が集結した。周囲約3km内に120ヵ所の陣屋が置かれたそうだ。現在、城の周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、そのうち次の23ヵ所の陣跡が国の特別史跡に指定されている。生駒親正(高松藩主)、上杉景勝(米沢藩主)、片桐且元(大和国竜田藩主)、加藤清正(熊本藩主)、加藤嘉朗(松山藩主)、木下利房(備中足守藩主)、木下延俊(豊後日出藩主)、木村重隆(豊臣家臣=木村重成の父)、九鬼嘉隆(豊臣家臣)、黒田長政(福岡藩主)、小西行長(肥後宇土藩主)、島津義弘(島津氏第17代当主)、伊達政宗(仙台藩主)、徳川家康(当時;岡崎城主)、豊臣秀保(豊臣家臣)、鍋島直茂(佐賀藩主)、長谷川秀一(豊臣家臣)、福島正則(広島藩主)、古田重然(豊臣家臣)、堀秀治(越後福嶋藩主)、前田利家(加賀藩主)、毛利秀頼(信濃飯田城主)・・・この中の多くが関ヶ原合戦後、徳川の傘下に加わったことはご承知の通り。

さて――『名護屋城址』から『唐津城』へ向かう。約18kmの距離だ。『唐津城』は唐津市の北部に位置し松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山(みつしまやま=標高42m)の山頂部を本丸とする“平山城”である。北面は唐津湾に面するため“海城”とも呼ばれ、翁がよく知っている大分県中津市の「中津城」によく似ている(と思った)。また松浦川の右岸には“虹の松原”(国の特別名勝)があり、更に城から左右に広がる砂浜が、まるで鶴が翼を広げ舞っているように見えるところから「舞鶴城」とも呼ばれている。そう言えば幅広い松浦川を渡る橋の名は「舞鶴橋」だ。豊臣秀吉が1598年8月に死去した年に『名護屋城』も廃城、その4年後の1602年(慶長3年)に『唐津城』築城に着手、廃城となった『名護屋城』の遺材を多用し、完成は1608年(慶長13年)、つまり『名護屋城』廃城から10年目。その間、九州各地の大名から支援を受け、今でも柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した領地名が堀の名に残されている・・・急ぎ足、遠見の『名護屋城址』『唐津城』であったが、400年以上前の出来事が胸に迫った(台風一過、帰京直前の)ドライブであった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「外国人による犯罪」

日本政府は人口減少なので2024年から2028年の間に82万人の外国人労働者を受け入れる事を決定した。それに伴って職種の幅も広げ今までの規制を緩和して外国から家族も日本に連れて来られるようにしたらしい。外国人留学生も3か月滞在で日本の健康保険が使え、その家族まで使っていたというのだから、、、今でも外国人による日本の健康保険を使った高額治療や医療費は増え続けている。中には偽造パスポートや偽造保険書を使い支払いをせずに逃げられてしまった事など度々聞く。そのお陰で私達日本人の健康保険料の負担も多くなるばかりだ。

昔は経営者も人を育てようという信念をもった尊敬出来る経営者が多かったと思う。尊敬出来る経営者の元に人は集まり頑張れる。けれど今は経団連の人達も政治家も含め今だけ金だけ自分だけというスタンスが感じられる。社員より外国人株主を優先して社員の働く環境や給料などは考えていなさそうに見える。嫌なら辞めてくれていい。派遣社員なら、いくらでもいるし安い外国人を雇えばいいという安易な考え方がいろいろな対立を生み出しているのではないだろうか、、、

そう言えば日本に入って来た外国人労働者で行方不明になっている人がわかっているだけで現在7万人いるそうだ。それに加えて旅行者も帰国しないまま日本に滞在している人、移民や難民手続きをしている人、正当な方法で入国している人、不法入国した人も含めると日本は、すでにものすごい数の外国人がいる。欧米を見れば、どこも移民問題で失敗し犯罪が増え経済が疲弊し問題を抱えている国ばかりで大変な状況になっている。

私の家の近所でも家の解体労働者は言葉の通じないクルド人らしき人達だった。ルールを守らないので何度も警察の人が来てしばらく業務停止命令を出されていた。

TVでは控えめに外国人犯罪がニュースになるけれど実際はもっと多いし其々国別にネットワーク化され組織があるらしい。そしてそういう人達の手引きしている業者もいるので犯罪は、もっと巧妙になっているらしい。

昨日、防犯のために取り付けてあった電話の機器が古くなって作動しなくなってきたのに気が付いた。先日も貴金属や着物などありませんかと母が受けた電話がしつこかったと聞いたので警察の安全課に問い合わせたらすぐにその日の午後1で来てくれる事になった。新しい機器を持ってここの家までわざわざ取り付けに来てくれると言うので、お願いした。その後で警察の方は制服で来られるのだろうか、、、もし、そうだったらご近所の人が心配されるだろうかとふと考えていたら玄関のドアベルが鳴った。玄関を開けると私服の警察官の方が金ピカの菊の御紋でかたどられた紋章と警察手帳を見せてご挨拶をしてくれた。その菊の御紋の何と光り輝いて見えた事か、何だかそれだけで感動してしまった。もっと、まじまじ見せてもらえば良かった、、、、、

私が“こんな事まで一件一件対応するのも大変ではないですか?”と聞いたら今、外国からの事件に巻き込まれる人が多くてその対応に追われるより防犯のお手伝いの方がずっと労力が少なくてすみますので、、“とおっしゃっていた。”出張費は?“と聞いたら“何もありませんのでご心配なく、我々は皆さんから税金を頂いているので”と笑って答えられた。警察官は夜勤もあり心身共にタフでなければ務まらない仕事だ。こういう職種を選んで働くという事はそれなりの覚悟があるのだろうし決して楽ではないと思う。でも、そういう人がいないと私達も困るので感謝だ。

今LAで日本人の警察官ゆりさんと言う人が日本人に向けていろいろな情報を動画で発信してくれている。何しろ米国もわかっているだけで700万人の不法移民が入り込んでいるので用心に越した事はないし自分の住んでいる身近な地域で何が起きているのか知る必要がある。まずは知る事でその対策や防犯も出来るので時々でも警察庁のホームページや政府の公式ページ、自分の町や市の情報を見ておく事も大事かもしれない。

スパイス研究家 茶子

逃げ場のない国  震災余話 井出半句

第十六話 民謡の宝庫・相馬

2011年4月5日(火)はれ

風は寒いが桜のつぼみはピンクっぽくなってきた。毎年掲載される桜前線の記事は今年はない。

上野のお山も宴会お断りとの記事を見た。こんな年でも季節は確実に巡るが、人の気持ちはなかなか切り替わらない。

相馬と伊達

  桜咲け花は相馬で実は伊達に   井出半句

 これは民謡「相馬二編返し」の一節を借用した。

♪ 伊達と相馬の境の桜 アーコラヤノヤ 

    花は相馬で実は伊達に、実は伊達に

     ハーイッサイコレワイ パラートセ                   

         サイナンオキマデ パラートセ ♪

母がオハコのこの歌を風呂で歌い、子供7人のバッチ(末っ子)である私にアーコラヤノヤ・・・と合いの手を入れさせるのが母の息抜きだった。その歌も情景もよく覚えている。その相馬も伊達も津波にのまれた。家族と家を失った人が新潟に避難してお世話になった御礼に新相馬節を歌っているのをTVでみた。

  ♪遥かかなたは相馬の空かよ~ ナンダコリャヨート

         相馬恋しやなつかしや~ ナンダコリャヨート♪

よく最後まで歌えたもんだ・・・聴いているこちらが涙目なのに。

この二番は、

 ほろり涙で風呂炊く嫁ご 煙いばかりじゃないらしい

と続く。こちらは父の得意歌だった。相馬は民謡の宝庫とも呼ばれる。津波も放射能も似合わない。

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【余談】相馬野馬追(そうまのまおい)

相馬と言えば民謡以外でも1,000年以上の歴史を誇る国の重要無形美族文化財「相馬野馬追(そうまのまおい)」が有名だ。筆者の実家から相馬は遠くないが見物する機会はなくリタイヤ後に初めて見に行った。

7月末の暑い盛りに実施されていたが2024年からは暑さを避けるため5月最終週の土・日・月に変更された。私が行ったのは5年ほど前だったので暑かった。三日間の行事ではあるが、圧巻は二日目300~500騎の甲冑武者が雲雀ガ原という会場に出陣し、神旗争奪戦や甲冑競馬が見ものだ。近郷の武者集団を率いるリーダーが会場に到着すると総大将(今に続く相馬家33代当主)に馬上から口上を述べる。「XX郷よりXX騎を率いて参上仕ったXXである。これより総大将をお守り申しあげる!」「ご苦労!」と総大将。侍言葉はそれだけではない。「競馬場第四コーナーのカメラマン!そこは侵入禁止区域である。下がれ、下がれー!」と、場内アナウンスまで侍言葉なのである。

  【神旗争奪戦】打ち上げ花火から落ちてくる神旗を奪い合う。勝者は大将の表彰を受ける。 【甲冑競馬】甲冑と旗指物を付けて疾走。迫力満点。旗指物を落下すると勝利資格なし。

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【自助・共助・公助】

津波来襲!の知らせに集落の人たちは高台に逃げて生き延びたが、陸の孤島と化した三陸の小さな集落の話。部落の長(おさ)の下で津波からまぬがれた各家の米や食料を供出して、道がつながり助けが来るまでの日数を逆算して炊き出しの共同生活をし、屋敷を開放して寺子屋のように子供に勉強もさせた、と。つまり自助・共助を実践して公助(役所や国の援助)を待ったというわけだ。悪名代官に米を取り立てられた名残り、と物知り顔の解説もあったが、非常時にこのようなコミュニティが日本にどのくらい形成されるだろうか。

前述したが、我がマンションではこれに似たような状況になり、タンク内の水道水の残量と水道復帰の予想日を想定して一日2回、バケツ1杯の給水を実行した。マンションの古株の役員が立派で、若手の役員をリードしつつそう持って行った。家内などは小さい子供のいる家族や火事に遭った家族に炊き出しまでした(筆者の実家から原発避難民が転がり込むなど想像もしない間だったが)。おかげでお互いの名前もおぼえ、エレベータでの話も弾むようになった。きのうはかわいいお客があって「お返しです」とせんべいをもってきてくれた。避難していた大阪から戻ったと。

隣のマンションではそうはならなかった、と先日の地域の自治会で報告があった。判断力のある強いリーダーがいなかったようだ。我がマンションの理事長はまだ40歳代の現役だが、地震の時は東京に出張中で、電車は止まり、バスもない。家族も心配だし理事長としての立場もある。考えた末に自転車を買い、茨城までの130Kmを夜通しこいで来たのだと。これじゃ回りも黙ってはいられまい。今の若い者は、と批判的にいう人もいるが、このような人物は一定量いると私は経験上実感している。しかも我々の時代に比べ、頭脳明晰で知識も豊富だ。頼もしい限りである。

一方、行くべき時でない時に原子炉の上にヘリで行き、水素ガス放出のタイミングを遅らせ結局爆発に至らしめた、と批判されたリーダー。彼が津波の被害地に立ったのは2週間後だった。公助が遅い。

【余話の余話】

民謡と風呂の話で思い出した。

田舎の風呂場は母屋と独立した離れ屋にある。7人姉弟の末っ子の私が小学校入学前に母と一緒に風呂に入り、いつもどおりに母の「おはこ」である相馬二編返しに合いの手を入れた。母は上機嫌。風呂場と母屋の間に積もった雪の上に一年生になるからと名前の書き方を教えてくれた。いざ入学して先生が「自分の名前を書ける人は書いてください」といわれ、私は迷いなく母の教え通りに書いた。カタカナで書いたのは私だけだった。昭和23年のこと。母は明治32年生まれ。母にとっては他の子どもたちは戦前・戦中に入学しており、カタカナでも良かったのだろう。兄らからお下がりの教科書は黒塗りだらけだった。きれいな教科書は2,3年生くらいのときだったろうか。

第十七話につづく

ジャズライフ Leif Shires “Beautiful Love”

今週はとても落ち着くアルバムです。穏やかな気持にさせてくれるスタンダード曲を集めたトランペット奏者Leif Shiresのアルバム”Beautiful Love”です。バランスの良いアルバムでおすすめです。《R.O.》

1-Beautiful Love
2-La Lie En Rose
3-Dreamsville
4-Long Ago and Far Away
5-When You Wish Upon a Star
6-Poinciana
7-Stella by Starlight
8-When Sunny Gets Blue
9-Stillwater
10-Pure Imagination
11-Invitation
12-It Was a Very Good Year

編集後記「日傘は必需品」

男女二人の会社員が街の中を 日陰を求めて歩くシーンのCMがありますが、ほんのわずかの日陰の中に入るだけで体感温度が下がり涼しく感じます。バス停でバスを待っている時も電柱の細い日陰に入るだでもホッとします。私も日傘を差している人の気持ちが分かるようになりました。日本では2020年代に入ってから、夏の暑さが厳しくなるにつれて、日傘の需要が急増しています。2023年には男性の日傘の売り上げが前年比175.2%と大幅に伸びたようです。日傘は暑さ対策としてますます注目されており、性別や年齢を問わず、多くの人々に利用されています。まだまだ暑い日が続きそうなので外出時は日傘を持ち歩こうと考えているところです。《R.O.》

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