雑貨屋ウィークリー1467号

雑貨屋のひとり言「忍び寄る認知症」

先週、マンションのゴミ捨て場へ向かう途中、エレベーターの前でよく知る近所の方に遭遇しました。なぜこの階にいらっしゃるのかと思いつつ、挨拶を交わし、「何かお困りですか?」と尋ねました。ご自宅の階が分からなくなっているとのことでした。私の名前も思い出せない様子で、「お名前を教えていただけますか?」と質問され、驚きました。3日前にご主人と話した時、奥様の記憶が衰えて介護施設に入所されたと聞いていたことを思い出しました。その方は私と同じ年代で、昨年は元気だったのに、大きく変わってしまい、衝撃を受けました。元気に過ごしていた方でも、突然認知症の症状が現れることがあるのだと痛感しました。《R.O.》

川柳(東京・成近)

( 川 柳 )

イワシにも尾頭付きの自負があり

二匹目の泥鰌に足を滑らせる

回転の皿に乗ってる出世魚

曲折はあったが今日の鯛の折

海の病み人魚も泣いているだろう

(ニュースひとりよがり)

「戦争と平和」

軍事境界線に壁 — 北朝鮮

富士山にゲート  — 日本

「朝ロ首脳会談」

ゴミ風船の作り方を教えた ー 金正恩

「規制法成立記念パーテイ」

会費5万円 ー 自民党、公明党

河合成近

龍翁余話(839)「中津市の思い出」

翁、1昨年からたびたび故郷(大分県)へ帰省しているせいか、毎朝インターネットで新聞(オンライン・ニュース)を読む際、“大分情報”が気になり全国版を読んだ後、必ず地域版を検索するようになった。そこで最近、目に止まったのが『1万円札の福沢諭吉、永遠に』

である。記事には「1万円札を描いた巨大なモザイクアート(写真左=中津市在住Tさんご提供)が17日、福沢諭吉のふるさと、中津市のJR中津駅北口にお目見えした。縦2.1m、横4.5mで、1cm四方のタイルを約9万4000枚使っているとのこと。1万円札の肖像は今年の7月から、実業家だった渋沢栄一に代わるが、1984年(昭和59年)から約40年間、1万円札の“顔”として国民に親しまれた福沢諭吉の功績を後世に伝えようとするのが狙い・・・」と書かれている。翁、この8月にはまた帰省し“1万円札(福沢諭吉)のモザイクアート”を見に行くつもりだが、それに先立ち、今号は(約27年前、今は亡き兄とドライブした)『中津市の思い出』を語らせていただこう。

中津市――大分県内では大分市・別府市に次いで人口が3番目に多い市(2024年5月1日現在で80,902人)。そこは我が母方の先祖(中津藩士)の地であったことから、翁、子どもの頃は家族と一緒に幾度となく訪れていたのだが、社会人になってからは足が遠のき、何十年ぶりに(兄とのドライブで)“中津市探訪”をしたのは27年前、1997年(平成7年)の夏だったと記憶する。主な探訪先は「武家屋敷跡」「中津城」「福沢諭吉旧居」――

「武家屋敷跡」――中津市の街の中を流れる山国川の近く(金谷地区)に「武家屋敷跡」がある。狭い通路の左右に土塀や白壁、玄関跡が残されており、中津・城下町の面影が見て取れる。兄の説明によると「ここ金谷武家屋敷は下級武士たちの家だった。我が先祖の屋敷は(上級武士だったから)お城(中津城)の近くにあったはずだ」しかし、その兄も昔(子どもの頃に)訪れた“先祖(末裔=曾祖母)の家”が何処だったか分からなくなっていた。ともあれ兄と弟は山国川の支流・中津川の河口に建つ「中津城」へ向かった。

「中津城」――1588年(天正16年)、黒田官兵衛(孝高、如水=豊臣秀吉の参謀)が築いた“梯郭式(ていかくしき)の城”、城の1部が川面(海面)に飛び出しているユニークな平山城。本丸を敵の攻撃から防ぐため、本丸を中央ではなく端っこに置いて背後に川や海、山・断崖などの天然の要塞を配す築城の仕方、それを“梯郭式”と呼ぶそうだが、確かに中津城の本丸は、中津川の河口(水上)を背にしている。歴代の城主は戦国時代の黒田家に始まり、江戸時代前期・細川家、江戸時代中期・小笠原家、そして江戸時代後期・奥平家と続く。翁の先祖は(家系図によると)奥平家に仕えた中津藩士、(『龍翁余話』(835)「西郷隆盛残照」でも紹介したように)翁の曽祖父は中津藩士の“ラストサムライ”として1877年(明治10年)の“西南戦争”で西郷軍に加わり鹿児島・城山にて西郷らと共に自刃した、と伝えられている。なお我が先祖の屋敷跡は(現在)某企業地になっているとか。

「福沢諭吉旧居」――「中津城」の近く(車で3分)、諭吉が幼少期を過ごした旧居。1835年(天保5年)、大坂(今の大阪市)の中津藩の蔵屋敷(大名や旗本、公家などが年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼家屋)で生まれた諭吉は、1歳半の時、父親(福沢百助、中津藩蔵屋敷の元締役=総支配人で儒学者としても有名だった)の死去により中津に帰り、幼少より儒学(孔子の教え)を学び修得したが、19歳の時、蘭学(ヨーロッパの学問・文化)修業のため長崎へ留学するまでの約18年間、この地で過ごした。現存する家は諭吉が16歳の時に購入したもので敷地面積は約1600坪。玄関から裏に廻ると広い庭と母屋に隣接した蔵が建っている。その蔵の2階に諭吉が少年時代に勉強した“学びの部屋”がある。翁もその部屋に上がって諭吉が使用した(と言われる)机の前に座り(諭吉になり切って)諭吉の名言の中の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざることによって出来るものなり」「活用無き学問は、無学に等しい」を呟いた。なお、旧居は1971年(昭和46年)に国指定史跡となる。

福沢諭吉と言えば、まずは「慶応義塾」の創設者として有名。23歳で江戸に蘭学塾(現在の慶応義塾大学の前身)を創立、1859年(安政6年)25歳の時、勝海舟やジョン万次郎らと遣米使節団として米国へ。27歳の時、ヨーロッパ諸国視察・・・1868年(慶応4年)に明治政府樹立の際、官職に就くことを求められたがこれを断り(それまでの)「蘭学塾」を“実学の舎”「慶応義塾」として再発足、1890年(明治23年)諭吉55歳の時「慶応義塾」に大学部を設置した。1901年(明治34年)66歳で亡くなるまで『学問のすゝめ』『帝室論』『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自伝』など多くの著作を残した。

ところで6月27日は『演説の日』だそうだ。1874年(明治7年)に福沢諭吉が慶應義塾の「三田演説館」で日本初の演説を行なったこと、また諭吉は仏教語をもとに「演説」と言う言葉を作り「日本が欧米と対等の立場に立つには演説力が必要不可欠」と主張したとのこと――ともあれ『1万円札の福沢諭吉、永遠に』の記事のおかげで兄(故人)との“中津探訪”の思い出を蘇らせることが出来た。諭吉の遺訓の中で、翁が最も好きな言葉の1つ 【今日も生涯の1日なり】を改めて胸に刻んで・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「情報」

” 情報が遮断されたら国は、ある日、突然崩壊する ”この言葉は1993年7月に過激な活動家から刃物で刺されて亡くなられた国会議員の石井紘基氏の言葉。こんな気骨のある正義感のある国会議員がいた事を私は全く知らなかった。この議員の名前を知ったのは原口一博氏(現在国会議員)の動画と高橋洋一氏(110万人のフォロワーを持つ元大蔵、財務省出身の経済学者)から何度となく彼の名前が出ていたので覚えていた。先日、動画で石井氏のドキュメンタリーがあったので見てみた。石井氏は国会議員が持つ国政調査権限を使い海外に流れる不明な金の流れ金融の闇を追求しているうちに”特別会計”という国の裏帳簿を見つけだし、それを暴露する直前で消されてしまった。63箱も証拠書類を集めたのに、石井氏の自宅にあったその中の何箱かは持ち出されてしまっている。誰がどんな意図でどこに持って行ったのかは家族の人もわからない。今まで闇に葬られた政治家や警察官、裁判官も含めどれだけの人がこの闇を暴く途中で犠牲になった事か、、、

現在、世界の報道自由度ランキング70位という位置に存在している日本。TVや新聞しか見ない人にとっては今も日本の報道番組、ニュースメディアは言論統制、検閲されている事など知らずに政府が言う事をまるまる信じている人も多いのだろうと思う。ところがインターネットの発達で今まで手に入れる事が出来なかった情報が少しずつ漏れ始めてきている。海外にいる日本人の人も現地で見聞きしている事と日本での報道の違和感に気がつき一般の人が発信し始めている。英語が出来る優秀なジャーナリストたちは日本のTVから追い出されてもネットで正確な資料にもとづいて世界の情報と照らし合わせて発信し続けている。

それに危機感を持ったのかYoutubeでも言ってはいけない言葉、触れてはいけない話題があって動画配信停止になる事もある。それでも負けずにそこから自由な言論空間を求めて日本のニコニコ動画へ移って情報を配信したりもしている。残念ながら最近、このサイトも今までにないようなサイバー攻撃を受け停止状態になっている。すでに形を変えた戦争はこういった空間で起きていて今後も金融関係、医療関係、日本の防衛システムなど様々な所で起きるだろと思う。今までさぼっていた日本政府のつけが回ってきて日本国民が被害を被る事になる。

先日、山口敬之氏(ジャーナリスト)がウクライナの元大統領ゼレンスキー(5月下旬で任期切れ)のコメントを英語で読んで、ぶちぎれていた。それによると岸田文雄首相がウクライナに緊急経済復興支援のために追加支援としてまた7千億をばら撒き(この半年分として)今後も10年間支援し続ける約束に調印したのだそうだ。前回、米国に行った時も9兆円の約束をしてきたばかりなのに今度は経済だけでなく医療、インフラ、防衛、テクノロジーなども全面的にサポートするのだそうだ。G7でそんな約束をさせられたのは日本だけ。今やヨーロッパ陣営もウクライナ支援には疑問を呈している。
アメリカに言われるままロシアにも経済制裁する約束をしてきてどれだけ日本を危機的な状況に追い込んでいるのか全く自覚がなさそうだ。

且つて元総理大臣だった安倍氏はオバマにロシアに経済制裁をするように言われた時、日本には日本の立場があると毅然と断ったそうだ。安倍氏はトランプさんにも自分の主張はきちんと自分の言葉で伝えるようになってから2人の信頼関係は積み重ねられていったのだそうだ。
あの時、アメリカと日本は、ようやく対等の立場になれるチャンスだったのに今はまた民主党占領下の日本に戻ってしまった。

今も能登の復興は遅れたまま、、、サイバーセキュリティーや国防の件も関心が無いのか予算の分配が滅茶滅茶だ。国内の困っている日本人にも、まるで興味が無さそうだ。口から言葉を発しても何を言っているのだか全く伝わらない。
岸田さんは、ご存知だろうか、、、米国民主党の議員の中でヒソヒソ言われている事は日本の政治家はバカほど扱いやすいから頭が悪い方がいいのだそうだ。
ああ、東京都議選で都民は、ちゃんと情報が取れるのだろうか、、、東京を乗っ取ってしまう人だけには入れて欲しくない。今まで投票に行かなかった人や若い人に目覚めてもらい投票に行ってもらう、これしか今は東京を守るすべがない。

スパイス研究家 茶子

逃げ場のない国 震災余話 井出半句

第四話 津波・原発・避難者

私が東日本大震災を語る上で、象徴的な写真は次の数枚である。(読売新聞より)特に次の二枚には胸を打たれる。泥にまみれた孫のランドセルを握りしめ慟哭する祖父。去来する胸の内を推し測るだけで目頭が熱くなる。そして祈るしかない、祈らないではおれない若い僧侶。吹雪く中、裸足にわらじ履きである。姿も行動も崇高さが漂う。それから大地震の翌日3/12午後3時36分、よもやの福島第一原発1号機の水素爆発である。
そこから25Kmの実家とは依然として連絡が取れない。原発が立地している大熊町、双葉町、富岡町、浪江町などの住民は避難指示で逃げ惑う。たしか姉夫婦が大熊の施設に入っているはず。無事に逃げおおせたか?

極めつけは3/14の3号機も水素爆発。制御不能となった原発群の連続爆発は恐怖を煽る。世も末か、と。結局4号機も3月15日に爆発し、4基の内3基が一時制御不能となった。避難指示範囲は最初3Km,すぐに10Km,そして20Kmとどんどん広がって行った。避難対象者数17万余り。ふるさと川内村の3分の一は避難指示範囲、実家は20~30Km圏内で「室内退避」という不可解な指示であった。兄家族も心配ながら、150Km離れた茨城県の我が町への影響も心配される。情報も知識もない一般人に判断はつかない。チェルノブイリのような廃墟となるのか、ただ不安を募らせるだけだった。

幸い、マンション水槽の井戸端会議の仲間に東海村原子力研究所(我が家から北へ10Km)をリタイヤした人がおり、福島原発事故とチェルノブイリとの違いを纏めたプリントを配ってくれたのだ。

チェルノブイリ:原子炉運転中の核分裂連鎖反応による核爆発暴走で、瞬時に3,000メートル吹き上げた。つまり大量の放射能が広範囲に拡散した。
福島原発:運転停止していて核分裂はすでに止まっており、核自体の爆発はない。破損個所からの放射能の漏れがあってもケタ違いに小さいレベル。

これで多少安堵した感はあった。しかし、一般市民の知識不足も問題だが、当事者の東電と当時民主党政権だった政府の後手の対応、それをマスコミがつつく、デマ情報が流れる、など収拾がつかない不安定な世情となった。多分、この時の国民感情は地域によって大きな差があったのではないかと推察する。つまり、放射能の影響範囲はどの辺りまであるのか、という認識の差である。福島県の一部なのか、関東圏まで及ぶのか、中部、関西は大丈夫だろうか・・・・というような。(福島第一原発の事故は、結果的には被害範囲、避難者数と長期的な避難期間の見地からチェルノブイリと同等の最も危険なレベル7にランク付けされた)

そんな中で、珍しく携帯電話が鳴った。3/16午前10時頃だった。女性の声だ。「XXです。叔父さん、いま川内を出ました。そちらに向かってます。お世話になります・・・」と、そこで切れてしまった。XXとは兄の長男の嫁であることを理解するのに少し時間がかかった。めったに会うこともなかった。兄の長男(以下、甥)は富岡在住で農協勤務である。原発から数キロメートルのアパートに、妻と就学中の子供と住んでいた。家族で川内村の実家に避難していたのだろう。だが、そこも危険ということで村を脱出したのだ。

家内に「兄貴家族がこちらに向かっているらしいぞ」と告げる。「えっ、お米がない!」というのが最初の反応だった。スーパーもコンビニも棚は空っぽだった。私は「心配するな。コメは人に売るほど作っているんだ。どっさり積んでくるよ」とせめてもの慰めを言った。詳細を聞こうにもそれっきり電話は繋がらない。2~3時間してやっとかかって来た。甥からだった。「国道6号線で茨城に入った途端に渋滞で動かない」と。私は「そこから山側に入り349号・棚倉街道に出ろ。そこを南下して那珂市に着くころにもう一度電話しろ。そこで待っている」と返答する。時間ばかりが経ち、電話は来ない。薄暗くなるころになってやっと待ち合わせ場所に現れた。普通2時間程度のところ6時間以上要したことになる。人員は、兄夫婦と甥、その子供二人(高2と小4の男子)の5人が乗っていた。甥の妻は、彼女の両親を避難させるため、いわき市の実家で下りた、と。

さて、マンションの我が家は4LDK。6畳の部屋に兄夫婦と高2と小6の4人、居間のソファーに甥が寝ることになった。我々夫婦はそれぞれ別の寝室にしている。当然のように、大きい方のベッドルームは家内用で、小さいベッドルームが私の寝室兼音楽スタジオ。66歳でリタイヤした後に尺八、フルート、オカリナを習いつつ、ムード歌謡のおやじバンド活動をしている。(2024年6月現在で137回の演奏実績。当時はまだ20回程度だった)

到着後最初の食事を作る段階で「何か食糧は積んで来た?」と聞けば、「いや。夕べは富岡からの避難者に炊き出しをして、今朝になったら村長の全村避難の放送で、びっくりして何も持つゆとりがなかった」との兄の返事。一瞬、我々夫婦は沈黙した。あげく「そう言えば健康保険証も持ってこなかった。毎日飲む薬も持ってこなかった・・・・孫用に毛布は積んで来たが・・・」と。

唖然としたが、裏を返せば、放射能という目に見えない底なしの恐怖に晒され、慌てふためき、文字通り着の身着のままの逃避行だったのである。責めることは出来まい。しかし食材のない中で、一挙に7人家族の食生活はどうするの? しかも断水は続いているし・・・。

第五話につづく

ジャズライフ Banda do Sul “Bossa Nova Versions”

夏が近づいて来たから?Bossa Novaが聴きたかったから?たまにこういう音楽が良いなあと思い選んだアルバムです。Banda du Sulはブラジルのボサノバグループで伝統的なバサノバのサウンドに、現代的なアレンジを加えた音楽です。アルバムの中に”Big in Japan”の楽曲が3曲もあります。1980年代に英国のバンド”Alphaville”がヒットさせた楽曲でそれをカバーしたものです。なんと表現したら良いのかわからないのですが、いい感じのアルバムです。《R.O.》

01-How Much I Feel  –Banda Do Sul & Michelle Simonal
02-Titanium –Banda Do Sul & Natalie Renoir
03-I Cannot Believe It’s True –Banda Do Sul & Luca Giacco
04-Big in Japan –Banda Do Sul [feat. Isa]
05-Here Today, Gone Tomorrow (Positive Remix) –Banda Do Sul & Cherie Currie
06-Watermelon Sugar (Ronan Remix) –Banda Do Sul & Natalie Renoir
07-Big in Japan (Krister Remix) –Banda Do Sul
08-I’m a Slave 4U –Banda Do Sul, DJ Leao & Sao Vicente
09-Love is a Losing Game –Banda Do Sul & Anekka
10-Big in Japan (Acoustic Mix) –Banda Do Sul [feat. Isa]

編集後記「アパレル店の閉店」

私の住む街のショッピングモールにあったZARAが、もう2年も前に閉店してしまいました。その時は、お気に入りの服を探す場所が一つ減ってしまったことで残念に思っていました。しかし今となっては、その閉店は私にとってはかえって良かったと感じています。
ZARAの店内をぶらぶらと見て回るのは、いつでも楽しい時間でした。しかし、セール期間以外で買い物をすることはほとんどありませんでした。お得感のある価格になっているときに、ついつい買ってしまうことが多かったのです。しかし、その服を本当に欲しくて探していたわけではなく、たまたま価格が手頃だったからという理由で買っていました。冷静に考えてみると、その服は本当に必要だったのかと自問自答することが多かったです。結局のところ、ZARAが閉店したことで、私は自分の消費行動を見つめ直すきっかけになったように思います。《R.O.》

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