雑貨屋のひとり言「不毛の議論」
政府は18歳以下の子供がいる家庭に5万円の現金と5万円分のクーポン券を配布しようとしていますが、スピード感がないですね。そしてなぜ18歳以下なのか大学生でも苦しんでいる人がいますがそれは無視するんですね。本当に困っている人に給付してあげるにはどうしたらいいか真剣に考え、知恵を絞れ案はあると思いますが、そんなことより自分たちのバラマキ公約を果たすことしか考えていないから不毛の議論になっているのだと思います。そこには国民目線も愛情も感じられません。貯蓄に回されたら困るからクーポンにして使ってもらうと主張していますが、本当に困っている人に給付していないからです。クーポンを準備する事務費に967億円というとんでもないお金がいるのもあきれてしまいます。この事務処理を任された会社だけが美味しい思いをするだけで、ほとんどの国民はあきれていることがわからないのでしょうか?コロナ禍でも全くお金にお困らない議員や官僚はこの程度のことしか考えられないんですね。《R.O.》
川柳(東京・成近)
(川 柳)
コーヒーもインスタントの安い舌
飽食の舌が茶漬けに戻る贅
ケータイの中で駄弁の舌の伸び
カタログの笑顔が裏で舌を出し
呵々大笑二枚の舌を覗かせて
( ニュースひとりよがり)
「副反応」
10万円給付にも -政府
「5年で1兆円超」
さすがおもてなしの国 -思いやり予算
「松坂大輔 野球現役引退」
打って出ないで -横浜が地盤の議員
河合成近
龍翁余話(708)「もう1つの忠臣蔵」(拡大版)
毎年12月14日が近づくと『忠臣蔵』関連の映画やドラマが放送される(ほとんどが再放送)。時代劇ファンの翁、同じ映画やテレビドラマを何回観ても飽きない。それほどに『忠臣蔵』が好きだ。そこで先日、久しぶりに(約15年ぶりだろうか)「泉岳寺」(曹洞宗・国指定史跡)に眠る「赤穂義士四十七士」の墓参に出かけた。
今年(2021年)は、1702年(元禄15年)12月14日とされる赤穂浪士吉良邸討ち入りの日から319年目。例年「大石内蔵助念持物(個人的に大石の仏像を参拝)」「大般若転読赤穂義士追善法要(600巻の経文を転読して赤穂義士の冥福を祈る法要)」「赤穂義士行列」などが行なわれるが、コロナウイルス感染防止のため、昨年に続いて今年も自粛されるそうだ(翁が墓地入口で線香を買った時の“赤穂義士祭”関係者の話)。
泉岳寺境内から「赤穂義士四十七士墓地」(上写真左)までの石段の右側に、「松の廊下刃傷事件」の後、陸奥国一関藩・田村右京太夫家に預けられ、その庭で切腹させられた赤穂藩主・浅野内匠頭(享年35)の血が飛び散ったとされる「血染めの石」(上写真中)や、討ち入り後、仇敵・吉良上野介(享年62)の首を(主君・内匠頭の墓前に供える前に)洗ったとされる「首洗いの井戸」(上写真右)がある。翁、それらの場所でしばし黙祷。
「四十七士墓地」の入口で線香を買って、まずは藩主・浅野内匠頭の墓(下写真左)にお参りしてから、更に上の段の「四十七士墓地」へ(下写真中)。12月に入って連日、数百人の参拝者が訪れ。義士各人の墓の前の線香の煙が絶えないそうだ(下写真右)。
墓地の右奥に義士四十七士のリーダー大石内蔵助(享年45)(写真左)、左奥に大石主税(内蔵助の長男、享年16)(写真中)、そして一帯に義士の墓が並ぶ(写真右)。翁、1人に2本ずつの線香を手向ける。映画や歌舞伎、ドラマでお馴染みの名がずらり。例えば片岡源五右衛門(藩主切腹の折の最後の面会者、享年37)、堀部弥兵衛(堀部安兵衛の義父、最年長者、享年77)、堀部安兵衛(堀部家へ養子に入る前、中山安兵衛時代、高田馬場の決闘で有名、享年34)、赤植(あかばね)源蔵(“徳利の別れ”で有名、享年35)、不破数右衛門(一時期、藩を離れたが藩主切腹後、同志に加わり討ち入りの際、最も活躍した剣客、享年34)、岡野金右衛門(物語では大工の娘を通じて吉良邸の図面を入手=多分、フィクション、享年24)、早水藤左衛門(刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝えた人物、享年40)、大高源五(俳諧をよくし、吉良家出入りの茶人に接近、12月14日の茶会日を聞きつけた。享年32)、矢頭右衛門七(やとうえもしち)(主税の次に年若く義盟に加わる、享年18)、武林唯七(中国の帰化人三世、討ち入りの際、炭小屋に隠れていた上野介を発見、斬り捨てる、享年32)、あと、前原伊助(享年40)、神崎与五郎(享年38)らの墓も・・・
さて、大石内蔵助ら赤穂義士は、討ち入りの後、仇敵・吉良上野介の首を泉岳寺に祀られている主君・浅野内匠頭の墓前に供え“本懐”を報告、その後の自分たちの処分を大石は公儀(幕府)に委ねる。江戸市民のほとんどは“天晴れ赤穂の義士”と称賛し助命嘆願の声が高く、公儀の評定もかなり難航したそうだ。公儀が招いた儒学者の4人の中で林大学ほか2名が“義士讃美助命論”を展開したのに対し、荻生徂徠は“切腹論”を主張した、とされている。しかし翁の想像では(幾つかの資料分析で)綱吉のお側用人・柳沢吉保の強引な“切腹論”に林らの学者たちもやむなく従ったのでは?――そして義士たちは4つの大名家に預けられた。熊本藩細川家へ大石内蔵助、吉田忠左衛門、堀部弥兵衛ら17人、松山藩松平家へ大石主税、堀部安兵衛、不破数右衛門ら10人、長府藩毛利家へ武林唯七、前原伊助、小野寺吉右衛門ら10人、三河岡崎藩水野家へ神崎与五郎、矢頭右衛門七、間十次郎ら9人。切腹は翌年1703年(元禄16年)2月4日。全義士とも悠然と、礼儀正しく、眞に武士らしい最期であった、と記録されている。ところで「義士四十七士」のはずなのに切腹したのは46人。さて、あとの1人は?――翁、今号で『赤穂義士』を取り上げるに際し、当初『忠臣蔵』のあらすじを書こうと思っていたが「四十七士の墓地」に来て思いが変わった。と言うのは、実は、義士の中で1人、生き残りがいたのだ。その義士の名は「寺坂吉右衛門(信行)」と言う。『赤穂義士外伝―寺坂の生涯』については、幾つかの芝居や小説があるのでご存知の読者も多いと思うが、翁はあえて寺坂にスポットを当ててみたくなった。
寺坂は四十七士の中では最下級の足軽であった。「松の廊下刃傷事件」の後、赤穂藩では“城明け渡し”の前に家老・大石内蔵助(良雄)が同志と血判の義盟を交わしたが、身分の低い足軽の寺坂はそれに加えて貰えなかった。しかし、その後も寺坂は親しい上役に頼んで再三懇願し、その熱意に動かされた大石は遂に”同志“への参加を許した。討ち入りの際は”赤穂浪士四十七士“の1員として、それなりの働きをするのだが、吉良上野介を討ち取った後、泉岳寺へ引き揚げる中に寺坂の姿はなかった。「死を怖れての単なる逃亡か」「大石の密命を受けての離脱か」「足軽の身分が討ち入りに加わったことは公儀(幕府)に憚りがあるとして大石が逃がした」などの説があるが翁は“大石の密命説”を支持する。何故なら、大石ほどの人物が「松の廊下刃傷事件に至る真相」「戦国時代からの武家社会の常識(武家法度)である“喧嘩両成敗”を無視した公儀の“片手落ち裁定”」「赤穂浪士の(仇討ちまでの)臥薪嘗胆(がしんしょうたん=目指す成功を期しての苦労)」など“赤穂浪士の武士道”を世に知らしめたい願望は強かったはず、と翁は推測する。そこで無事本懐を遂げた直後、大石は密に寺坂を呼んでこう告げた。「お前にとって生き恥を晒すことは死よりも辛いことだろう。が、何としても生き延びて我らが”武士道“を世の人に伝えて貰いたい。勿論、お前が我ら同志(四十七士)であることを我が遺書にしたためておく」――寺坂は「大石様の意を汲んで生きることも忠義の在りよう」と“大石の密命”を全うすべく生きることを決意した。寺坂は大石より6つ年下の1665年(寛文5年)生まれ、討ち入りの時は37歳、その後、彼は名を変え身分を偽って浅野大学(内匠頭の弟)や大石家、ほか各地に散在している義士遺族を訪ね“事の顛末”を報告、また当時の浄瑠璃作者、戯作者らに(何らかの手ずるで)“赤穂浪士の武士道”を伝えた(これも翁の想像)。その甲斐あってか1748年(延享5年、寺坂死去の翌年)『忠臣蔵』は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で(大坂で)初演された。そう、寺坂は1747年(延享4年)に82年(数えの83歳)の生涯を終えた。時には義士の遺族や親戚の者から「死に損ないの卑怯者」「よく生きておれるな」などの罵りもあり“自殺”を考えたこともあったが耐えに耐え、終生、大石への忠義を尽くした『もう1つの忠臣蔵』である。
「泉岳寺四十七士の墓地」大石の墓の真正面に、他の墓石より少し色の違った墓がある。戒名は『遂道退身信士』(己れの信じる道を成し遂げた人)それは正に寺坂吉右衛門の墓である。大石が身分の差を超え寺坂との約束を守って“遺書”に「寺坂吉右衛門も同志の1人なり」をしたためておいたものだろう。翁、大石と寺坂の“主従の情”に思いを馳せ胸を熱くして線香の残り数本を供え、しばし合掌して冥福を祈った・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究「社会福祉予算」
もう、20年前ぐらい前の事だったか、、、LAの社会福祉関係の事務所で働いている日本人の人から聞いた話を思い出した。このLAでは社会福祉の為の予算がたくさんあってアジア系の人達に使われている予算も、ちゃんとある。その殆どを中国人と韓国人が使っていて日本人は殆ど利用していないと。本来、社会福祉の恩恵を受けるべき人が受けていなくて受ける必要のない人達までが上手に抜け道を使って申請し殆どの予算を使っているとぼやいていた。
ここLAでも日本の寺院や教会は廃れていく中で中国や韓国の教会、寺院が活発に活動している。そこで、いろいろな情報交換をしているとも聞いたことがある。こちらで生まれた米系中国人や米系韓国人から学ぶべき事は母国語をしっかり学んでいて祖父母とも会話が出来る事だ。そして彼らが本国から来た親や祖父母をしっかり助けている。そして何故、殆どの日系人が日本語を話せないのかと言うと日本は戦争に負けた、悪い事をしたという間違った歴史認識を植え付けられている事もあるのかもしれない。その為、日本食にも馴染まないで育ったという日系人もいたし、日本という国に偏見を持ったまま育った日系人もいた。
私は、逆にこの米国に来てたくさんのアメリカ人、移民の人達から日本人に対する好感度の高さを知って驚いた。今でも日本に対する尊敬や憧れを持つ人達に出会う事が多く逆に自分が日本人である事の誇りを持つことが出来るようになった。ただ、日本も米国と同様に移民が増えてきて同じような問題が起きているので危惧している。
ところでガーデナ地区に日本人が作ったカルチャーセンターがある。そこには体育館があり体操、ヨガ、柔道、ダンス、太鼓教室などが開かれている。半地下の体育館の上にはお習字や絵や日本語教室などのクラスがあり地元の日系人に親しまれてきた。その教室がある一角にリトル東京サービスセンター社会福祉部の出張センターがある。そこでソーシャルサービスを受ける事が出来るように日本人のスタッフもいて手伝っている。ところが、ここのセンターを利用している日系人はあまりいないようで中国人や韓国人の若者がお年寄りの書類の書き方をヘルプしている姿を何度か見かけた。日本人が作ったシニアのコンドに入居申請する書類を手伝っているのも見かけた事がある。そのシニアの人が住む日当たりのいいコンドは日系のカルチャーセンターの隣にある。手頃な値段で治安もいいので人気があるらしい。庭には桜や柿の木、松の木などもあり季節ごとに草花が楽しめる。そのコンドから歩いてもカルチャーセンターに行けるし、そこに行けば誰かとお茶を飲んで、おしゃべりする場所もあるので便利なのだ。日本人の人が設計して日本人の為に作ったシニアのコンドだ。そこも今は殆ど韓国人の人が入っている。以前話題になったリトル東京に作られたシニアのコンドも同じ状態で今では殆ど日本人がいないそうだ。
不思議なのは、米系中国人も米系韓国人もそれなりに彼らのライフスタイルにあった住まいやクラブ活動、組織があるのだと思うのだけれど、何故か、いつも日本人の作ったクラブや組織に入ってくる。先日もリトル東京サービスセンター社会福祉部のチラシを見て驚いた。このガーデナのカルチャーセンターの2階で認知症の親を持つ家族の為に月一の割合で勉強会が以前から開かれている。日本語と英語なので通訳の人がいて少し時間がかかる。以前、私も認知症の親を持つ日系人の人にこの会の事を伝え一緒に参加した事がある。ちょうど認知症やアルツハイマーにいい食事のケアを考えていた頃だったので自分も何か情報提供出来る事がないだろうかと参加したのだ。
その勉強会にこれから韓国語を話すグループが参加するのだとか、、、、、そうなると通訳にかかる時間はもっと増える。ようやくリトル東京サービスセンターにロスアンジェルスから3年間の助成金が出たけれど果たして日系人の為には役に立つのだろうか、、、、
おとなしい日系人が隅の方に追いやられてしまわなければいいのだけれど、、、、
今なお、日本人に必要な米国政府機関の日本語訳、保険、医療サービスなどなど他の国の翻訳があれど日本語訳は殆ど無い。
スパイス研究家 茶子
ジャズライフ Watanabe Sadao “Jazz & Bossa”
10代の時に初めて聴いた渡辺貞夫のジャズの印象が今も残っています。それが今でもジャズを聴くきっかけになっていると思います。その渡辺貞夫の最新アルバムを見つけました。今年6月に東京で開催されたライブ盤です。サックスのまろやかな心地いい音はいつまでも聴いていられます。
Watanabe Sadao “Jazz & Bossa” Live at Suntory Hall
1.Laura
2.Beautiful Love
3.In the Wee Small Hours of the Morning
4.Stolen Moments
5.Echo
6.Manhã de arnaval
7.Samba em Prelúdio
8.Butterfly
9.Talk to the Moon
10. Love to Say Your Name
11.Water Colors
12.Manhattan Paulista
13.Hanawa Saku
14.Carinhoso
編集後記「駐輪場」
私が住む駅前マンションの駐輪場は20年以上前にできるだけ多くの自転車を収容できるよう設計されていたためラックの間隔が極めて狭くとても使いにくい構造になっていました。私は自転車を所有していないのですが、駐輪場の見た目は雑然としていて、管理しにくい状態で、そこに外部の人が不正に駐輪している有様でした。私たち大規模修繕委員会が昨年夏から市内にあるラック製造会社を訪問するなどして検討をはじめ、工事が始まる前日の委員会では工事の段取りや私たちがなにをやるかなどを話し合いました。先週月曜日、使いやすさと管理しやすさを考慮しリニューアルした駐輪場ができました。私たちの期待通りに整然と駐輪され、管理しやすくなったので不正駐輪を抑止する効果がありそうです。こんなことにでもワクワクできる自分がいることに気づきます。《R.O.》
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