雑貨屋のひとり言「小さなトラブルを楽しむ」
最近、ちょっとしたトラブルが続いています。先日はコーヒーメーカーが壊れ、メーカーが迅速に修理対応してくれました。先週は、新しく購入したフライパンに小さなコーティング剥がれが見つかり、ネットで写真を添付して問い合わせたところ、すぐに新品と交換してくれました。メーカーの対応に感謝です。さらに、市内での買い物に利用している電子地域通貨アプリが使えなくなるトラブルが発生しました。問い合わせ先を見つけ、電話とメールで数回やり取りをしましたが修復できず、最終的に新しいアカウントを作成し、残金ポイントを移行してもらいました。少し手間はかかりましたが、無事に解決しました。
普段なら、こういった些細なトラブルでも対処するのは面倒だと感じるものですが、最近はあまり苦にならなくなりました。むしろ、私にはちょうどいい刺激となり、プロセスを楽しんでいます。
もうトラブルはないだろうと思っていたら、2年前に購入した4K液晶テレビの画面の色調不良が発生しました。保証期間内だったのでネットで詳細に現象を説明して修理依頼をしたところ、すぐにメールと電話で返事が来て、今週出張修理に来てくれることになっています。クイックなサービス対応がうれしいですね。どんな修理が行われるのか、今から楽しみです。《R.O.》
川柳(東京・成近)
( 川 柳 )
ビートルズあの頃俺も若かった
年金が義理一つ消し二つ消し
父の歳越えてまだまだある迷い
九十をのんびり人生のおまけ
九十の手習いいそいそと出かけ
(ニュースひとりよがり)
「木枯らし1号」
とっくに吹いた — 自民党
「アメリカ版関ヶ原」
東軍 — トランプ家康
西軍 — ハリス秀吉
「来年の干支」
トラ — アメリカ
河合成近
龍翁余話(859)「だるま大臣・高橋是清を偲ぶ」
過去(歴史)を辿ると、いろいろな人の絡みや、さまざまな事象の重なりがあって面白いやら勉強になるやら、で、翁はやはり歴史が好きだ――今から約20年前、親友のCさん、Kさんの3人で東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」(江戸東京博物館の分館)に行ったことがある。園の正面には旧光華殿(現・ビジターセンター)が訪問客を待ち受けている。この建物は1940年昭和15年に皇居前広場で行なわれた紀元2600年記念式典のために建設された式殿で1941年昭和16年に現在の小金井公園に移築された。戦時中、現上皇天皇が皇太子時代、1時期、ここに疎開して勉学に励まれたとも伝えられている。
園内には高橋是清邸・宇和島藩伊達家の門・旧三井邸・奄美の高倉・八王子千人同心組頭の家・万世橋交番・都電7514号・皇居正門石橋飾電燈・午砲その他、風呂屋・商店・旅館・居酒屋・農家など江戸時代から昭和初期までの30棟の重要文化財的建造物が移築・復元され展示されている。
その中で翁が特に印象に残った(衝撃を受けた)のは高橋是清邸の2階、彼が二・二六事件で青年将校たちに暗殺された8畳間の寝室を見た時である。高橋是清(1854年=嘉永7年9月19日~1936年=昭和11年2月26日、第20代内閣総理大臣)が襲撃された時は、大蔵大臣であった。皇道派の青年将校たちは部下の下士官兵1483人を引き連れてクーデターを起こし、岡田啓介内閣総理大臣、松尾伝蔵(岡田総理大臣秘書官)、鈴木貫太郎侍従長(天皇の側近=侍従武官の長)、斎藤実(海軍大将・第30代内閣総理大臣・襲撃された時は宮廷の文書事務などを司る内大臣)、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監(陸軍の教育の最高責任者)らを襲撃、岡田啓介首相は無傷、鈴木貫太郎侍従長は肩・左脚付根、左胸、脇腹に被弾したが奇跡的に一命を取りとめたが、松尾伝蔵秘書官、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監は無念にも凶弾に倒れた。なお、襲撃された是清の寝室の掛軸『不妄念』(ふもうねん=是清の筆)は、曹洞宗始祖・道元の仏教思想「邪念な心を離れ仏の教えを胸に刻み、けっして“正”を忘れてはならない」の意。高橋是清が道元を崇敬していたとは知らなかった。
話は少し横道にそれるが、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)は、翁が愛読した『置かれた場所で咲きなさい』の著者・渡辺和子(1927年=昭和2年~2016年=平成28年、学校法人ノートルダム清心学園理事長)の父君。和子さんが女学生の時、自分の目の前で反乱軍の銃撃を受けた“父の最期”を『置かれた場所で咲きなさい』にも痛々しく描いている。そのことは、2013年10月13日に配信した『龍翁余話』(300記念号)にも詳しく記した。
さて、今号に『だるま大臣・高橋是清』を取り上げたのは、先日の衆議院選の結果、自民・公明が過半数を割ったことに乗じ、立民や国民ほかの野党連中が本来、国民に訴えるべき政策発表を忘れ「この際、政権交代を」とだけを叫びまくる阿呆面(あほうづら)を見て翁、『不妄念』の高橋是清を思い出したのである。是清の人間理念は(前述の)『不妄念』であるが、政治理念は、伊藤博文が結成した『立憲政友会』の政治理念そのものであった。つまり「我ら同志は国家に対する政治の責任を重んじ、専ら“公益”を目的として行動するものであり、国運を進め文明を扶植(ふしょく=機運を盛り上げる)するため世論をよく聴き、地方公共施設の建設など国家・国民の公益を優先する“国家公党”である、を『立憲政友会』は謳っている。現在の日本の政党の中に、これほど“国家国民の公益を優先する”政党があるだろうか。なお、高橋是清は同会の第4代会長も務めた。是清の政治的功績は沢山あるが、翁は特に「経済再生」と「教育振興」の2点を評価したい。「経済再生」――日露戦争の戦費調達のための外貨募集を成功させたこと。1929年(昭和4年)10月にアメリカで起き世界を巻き込んだ“世界恐慌”の影響が日本にも及び1930年(昭和5年)~31年(昭和6年)にかけて日本経済は危機的状況に陥った(昭和恐慌)。それを救ったのが高橋是清の“金解禁の停止”と”通貨の自由発行“、それによって日本経済の安定化が図れ、是清は「金融経済政策のプロ」と評された。「教育振興」――数度の欧米留学で培った語学力で”英語教育の振興“”共立学校(現・開成中学・高校)の初代校長“など学校教育にも情熱を傾けた。正岡子規(俳人)・秋山真之(日本海海戦で活躍した海軍中将)・高田早苗(早稲田大学初代学長)・島崎藤村(小説家)ほか多くの政界・経済界・法曹界・文学界での重鎮たちがこの”共立学校“で学んでいる。愛称の『だるま大臣』は、ふくよかな風貌そのものにもよるが、若い時、留学先で外国人に騙され“奴隷生活を経験した”ことや、幾多の挫折を乗り越え、まさに“七転八起”の人生であったことが愛称の背景にある、と翁は考える。別の機会に“もっと深掘りを”・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
茶子のスパイス研究
今週はお休みです。
逃げ場のない国 震災余話 井出半句
第二十四話 茨城便り
2011年12月
皆さん
8月の「福島便り」以来の近況報告となりました。
1.地震のその後
地震直後にはみなさまに大変お世話になりました。
地震保険もわずかながら支払われました。地震被害90kgの割れ物に家内はもうこりごりで皿は一枚も買いません。頂いたもので間に合わせています。
我が家の和室は家内が備蓄した避難グッズが一杯。この辺りはどの家もそのようです。最近また余震(次の予兆?)が多発。屋根の修理もやっとあちこちで始まったが依然ブルーシートもまだ多くみられます。
2.原発汚染のふるさと川内村
兄夫婦は帰村して自宅で暮しているが村役場機能はまだ郡山に避難中。
村では現在除染中で役場は来年3月に戻る。皆さんからいただいた救援物資を郡山の避難所に届けたのは既報の通り。ご協力有難うございました。
ただ甥家族は茨城県日立市に避難したまま。福島県富岡町に戻られる見込みは今のところ無い。甥は福島市に単身赴任中。その長男が来年はいわき市の大学に推薦入学するという明るい話題もある。
3.オヤジバンド「ヒマナスターズ」活動
先日、今年15回目の演奏会実施。3年前の結成から通算28回。耳障りなエレキバンドとは違う「ムード歌謡バンド」は意外にも人気があり、宣伝しなくとも口コミだけで高齢者の団体や施設からお呼びがかかるようになりました。懐メロを聴き「涙が流れました」「青春時代にタイムスリップした」とよく言われます。音楽にはそのような力があるようです。
一方、演奏者としても月2回の定期練習と場数を踏んでレベルもアップ。自前の音響設備も装備した。来年は我々のメッカ・吉田正音楽記念館でライブ決定(6月)。その他大正琴グループとコラボ(7月)なども予定。
4.習い事
1)尺八、フルート、オカリナ・・・それぞれ週一回継続中。それなりの手ごたえあり。バンド演奏にも好影響を及ぼしている。ただし、
聞き耳をたてれば遠し音の道 井出半句(フルート合宿での感想。まだまだです)
2)俳句・・・社友会の写真俳句、市の俳句連盟、地区の俳句教室で揉まれています。
3)市民大学・・・今年は「身近な法律」を受講。裁判員裁判、婚姻・・・遺言まで。
4)太極拳・・・目の前のスポーツジムで週2回。丹田を意識することで尺八の吹き方にも通じ、ゴルフのパッティングで悩んでいたイップスも解消!!
5.野外活動
1)巨樹巡り・・・去年に引き続き参加。茨城は南限・北限の木があり巨樹大国でもある。先日片道2時間歩いて見て来た杉は目立たない沢にどっしりと千年も生きていました。ちなみに屋久島では千年以下の杉は「小杉」と呼ばれます。今年は茨城で「全国巨樹フォーラム」が開かれました。
2)ゴルフ・・・さすがにカリフォルニアの時よりは回数は減った。でも週に1回以上、年間66ラウンド。平均スコア86ペース。コンペの常任幹事を三つ抱えている。
3)グラウンドゴルフ・・・マンション自治会で月2回。スコアは一番良いのにホールインワンは私が一番少ない。家内などは数回やっている。家中にライバルあり。
4)旅行・・・カリフォルニア、京都・山陰方面、青森(下北・津軽)、会津ほか。舞鶴の引揚者記念館、城崎温泉、伊根の舟屋、下北半島の会津藩士の墓、恐山などが印象的だった。LAの人達の歓迎会にも感謝です。
6.読書
9月に亡くなった辺見じゅん著「収容所(ラーゲリ)からの遺書」を読み、文字を書いてはならないという収容所で、句会を始めた男の実話に感動。俳句の力を感じる。いもづる式に同著「男たちの大和」や吉村昭「大本営が震えた日」などを読む。戦争体験者が少なくなってきている。
家内も疲れた、疲れたといいながら「一日に2回(つまり午前と午後)」スポーツジムに通っています。
第二十五話につづく
ジャズライフ Jean Frye Sidwell “Body & Soul”
買ったばかりのワイヤレスヘッドフォンと有線ヘッドフォン+ヘッドフォンアンプで音質を比較しながら聴いています。女性ヴォーカルのアルバムで聴き比べています。有線ヘッドフォンとヘッドフォンアンプの組み合わせはモニター用に設計されているので低音から高音までフラットで女性ヴォーカルが前に出てきた感じで聴こえます。ワイヤレスヘッドフォンの方は低音の迫力を出すように設計されているのでヴォーカルがほんの僅か後ろに下がった感じに聴こえます。試聴用に使ったアルバムJean Frye Sidwellの”Body & Soul”は爽やかなJeanの歌声と軽快なリズムで気持ち良く聴けるアルバムです。《R.O.》
01-Smoke Gets in Your Eyes
02-If I Only Had a Brain
03-God Bless the Child
04-Cheek to Cheek
05-I’ve Got the World on a String
06-All the Way
07-Wave
08-Orange Colored Sky
09-Fever
10-Pennies from Heaven
11-Here’s to Life
12-Body & Soul
スマホにかかってきた”844″で始まる見知らぬ電話番号
先週、卓球をしていたら私のスマホに電話がかかってきました。緊急だといけないので、すぐに表示されている番号を確認しました。その番号は +1(844)で始まる電話番号でした。私は登録している番号以外の電話番号には出ないことにしているので無視しました。
ネットで調べたらこの電話番号は主にアメリカやカナダで使用されているフリーダイヤル番号だとわかりました。私のスマホの電話受信履歴を見ると9月と10月にも+1(844)で始まる番号でかかってきていました。
844で始まる電話番号は企業が顧客サービスやマーケティング目的で利用することが多いらしいのですが、最近では詐欺の手口としても使われることがあると書かれていました。特に、NTTドコモを名乗る詐欺電話が報告されているようです。このような電話は、未払い料金の請求や個人情報の取得を狙い、私たちの大切な財産を狙う悪意が潜んでいるようです。私のスマホはドコモなのでそういう類の電話だった可能性があります。
国際電話を利用した追跡困難な犯罪ですので、この電話番号には絶対出ないでください。これ以外の知らない番号でも出ないか、慎重に対応するようにお勧めします。《R.O.》
編集後記「42年前の後悔」
ロスに単身で赴任した1982年のことです。英語ができなかった私が無謀にもロスの駐在員になることを希望したらその希望が叶ってしまい、ロスに赴任することになりました。これまでの通例だと日本で赴任までに英会話の訓練が受けられると聞いていたのでそれを期待していました。ところが当時の社長の考えで、方針が変更され、すぐに現地に赴任してそこで業務をしながら英会話の勉強をやれということになりました。思いがけない方針変更のせいで私は英会話能力の低いまま赴任することになってしまいます。前代未聞のことです。この社長の方針転換に私がずいぶん苦しむことになります。なにしろアメリカの文化や習慣なども知らないままで、アメリカに放り込まれた形になったからです。赴任した次の日から前任者からの業務を引き継ぎ、それが終わったら夕ご飯も食べずに、英会話学校に通う日々が続きました。英会話学校はトーランス飛行場のすぐ横にあり、今でもその時の光景は眼に焼き付いています。何を言っているかわからないアメリカ人講師とマンツーマンの授業が終わるのが22時でした。それから一人で遅い夕食でした。ほぼ毎日ハンバーガーを食べてました。でもたまに日本食が食べたかったのでガーデナ市にあった川福というお店に行きました。川福は当時JALに機内食を提供していたお店です。閉店間際に入店してラストオーダーで注文した日本食を一人で食べるというスタイルでした。ある日、川福で一人で食事をしていたら、近くに座っていた日本人の方が、「そこの若い方、一緒にご飯を食べましょうと言ってくださいました。」私のさびしそうに食べている姿を見て誘ってくれたのでした。そのかたも駐在員のようで私よりだいぶ年上の方だと思いました。英語ができずに駐在員になって赴任したこと、わからないことだらけで毎日本当に困っていることなどをお話ししたと思います。その方から優しい励ましの言葉にホッとしたことを覚えています。そのあと、17年の長きわたって北米に滞在することになり、私の人生が大きく変わります。その時に声をかけていただいた方にお礼のあいさつをしたいと思ったものです。せめてその方の名前と会社名を聞いておけばよかったと後悔しています。《R.O.》
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