雑貨屋ウィークリー1484号

雑貨屋のひとり言「スキージャンプの舟木知喜さんに会いました!」

昨日、大阪の阪神百貨店で秋の北海道市場が開催されていたのでワイフと行きました。そこでアップルパイを売っている店に目が留まりました。店の方とお話をしていたら、その方が突然、金メダルを見せてくれて触っていいですよと言ってくれました。そのメダルは札幌オリンピックの金メダルでずっしりしていてとても美しいモノでした。そして店の中を見たら札幌オリンピックで金メダルを獲得した舟木さんがいたのです。舟木さんはそのお店「王様の工房」の代表だったのです。もちろん私たちはアップルパイが大好きなので購入させてもらいました。「私たちは今日結婚50周年なので美味しいモノを買いに来たのです」といったら記念に写真を撮りましょうと言って記念写真を撮ってくれました。とてもいい記念になったとワイフと喜んでいます。《R.O.》

トロント友人会「栃木日光・鬼怒川温泉①」

「5年ぶりの再会」
2019年に箱根で行ったトロント友人会から5年が経ち、今年は日光・鬼怒川で会うことになりました。10月10日、私たちはMi夫妻と東武浅草駅で待ち合わせ、人気のスペーシアX号で日光へ向かいました。スペーシア特急券は一カ月前にネットで購入しました。スペーシアXの車内は豪華で快適でした。日光駅までの1時間50分は話が尽きることなく続きました。途中、春日部駅でMa夫妻が合流し、11時前に日光駅に到着しました。

「日光東照宮」
日光駅から大した距離ではないのですが上り坂なのでバスで二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)まで行きました。そこから日光東照宮まで歩くことになります。杉並木の表参道をすがすがしい空気に包まれながら歩いて行くと陽明門に着きます。日光東照宮は30年前に訪れたことがあるものの、記憶は曖昧でした。入り口である陽明門には「東照大権現」の額があり、門を飾る豪華で精密な彫刻は圧巻でした。二百七段の階段を上り徳川家康のお墓を参拝させていただきました。400年以上も前の建造物が今も大切に守られ、世界中の多くの人に拝観されているというのは素晴らしいことだと思いました。東照宮の境内は非常に広く見どころが多いので時間の限られている私たちはほんの一部しか見れませんでした。この後、宝物館で宝物を拝見させていただきました。日光駅までは下り坂なので歩きました。

「鬼怒川温泉」
日光駅前で遅い昼食をいただき、日光駅から東武鉄道で鬼怒川温泉駅に移動しました。駅から宿泊するホテルまで歩ける距離ですが疲れていたため、有料の乗合バスを利用しました。5月にMiさんにホテルを予約していただいたのですが、この時期は修学旅行生も多く、予約が取りにくいことがわかりました。私は夜中に足が攣って眠れず、腰の疲れが残ったまま朝から一日よく歩いたので温泉に浸かった時は、心身ともに癒されました。

個室で懐かしい友人と話をしながら食事をしました。今回は三組の夫婦が結婚50周年記念の宴会となり、全員揃って元気で会えたことに感謝しました。食事は豪華だったのですが70歳中盤の私たちには多すぎて食べきれませんでした。マラソンをされていたMiさん、Maさんが足の負担等の理由でやめられたことなど、多少変化はあるものの元気に過ごされているので良かったです。別室でMiさんから提供していただいた高級シャンパンで再度乾杯し、楽しい話が夜遅くまで続きました。続きは次回に

川柳(東京・成近)

(川柳)

ストレスがもぐら叩きに遊ばれる

優柔を叱って砂時計くるり

風が浪が弱気を叱る竜飛岬

塞翁が馬がひょっこり四コマ目

B面の俺にまさかという出番  

(ニュースひとりよがり)

「過半数の攻防」

50-50を超えたい - 与野党

「オウンゴール」

裏金 - 自民党

候補乱立 ― 野党

「釣りバカ日誌次回作」

ロケ地が三途の川なんて - ハマちゃんファン

河合成近

龍翁余話(856)「再び、柿談義」

翁が(ほとんど)毎週土曜日にプレーしている成田のゴルフ場。そこへ行く途中、車の中から四季折々に変化する農村風景を見るたびに、これまでのゴルフの思い出(懐かしいゴルフ・フレンドとの出会いやエピソードなど)を蘇らせてくれたりして翁の心を和ませてくれる。今の時期は(何と言っても)農家の垣根の、赤く色づき始めた「柿」が一番先に目に飛び込む。その「柿」の脇を通る時、「あの柿をちぎりたい」と言う衝動に駆られる。“ちぎる”とは、翁の郷土(大分県)の方言で、柿・梨・ザクロ・桃など、木にぶら下がっている果実を“もぐ”ことを“ちぎる”と言う。実は、大辞林(辞書)で調べたところ“ちぎる”は“千切る(手先で細かく切り裂くこと)”とある。ところがもう1つ「柿の実をちぎるとも言う」とある。と言うことは、“ちぎる”は、あながち大分県方言だけではなく、標準語でもあるんだ、と知る。それはさておき10月26日は「柿の日」だそうだ。明治の俳聖・正岡子規が「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだのが1895年(明治28年)10月26日だったことに因んで全国果樹研究連合会が2005年(平成17年)に制定したとのこと。

ところで、翁が『龍翁余話』と言うタイトルで「雑貨屋ウイークリー」(週刊エッセイ集=主宰者・大西良衛氏=大阪)に仲間入りしたのが2007年6月24日、それから半年後の2007年12月2日に『柿談義』を配信した。それから17年目の今年、もう一度『柿談義』を書く、故に『再び』とした。以下、17年前の『柿談義』を読み返し(1部分、なぞりながら)筆を進めることにする。

果物の中で翁が最も好きな果物と言えば「柿」だ。毎年この時期、我が家は柿を絶やしたことがない。朝は生柿1個、夜は干し柿1個食べる。硬い生柿は当然新鮮で、まさに秋の味覚、軟らかく熟せばスプーンで食べる。これがまた実に甘く、美味い。柿にはビタミンCやカロチン、ミネラルなどが多く含まれているので免疫力の向上、腸内環境の改善、また喉や鼻の健康維持にもつながり風邪予防にも役立つ。「柿が赤くなれば医者が青くなる」と言われるほどだから翁の秋冬の栄養源になっていること間違いなし。そして翁の“秋を味わう”もう1つの楽しみは、枝や葉っぱがついたままの青柿を部屋の飾り棚に飾り、朝晩、眺めること――実は、翁が通う(メンバーコースの)ゴルフ場の16番ホールに、1本だけ小振りの柿の木がある。毎年の柿のシーズンには、決まって3個ほどの青柿の実がついた枝を失敬して(折って)持ち帰り、それを数日間眺め”秋気分“に浸る。それが翁の(もうかれこれ40年も続く)習慣なので、ゴルフ仲間たちはその柿の木を”龍の柿の木“と呼んでいる。つまり、その柿を狙っているのは、野鳥と翁だけ。他のゴルファーたちは翁のような行儀の悪いことはしない。ただ翁の心配は「野鳥に食い荒らされてはいないか」である。先週、15番ホールのプレーを終えて、急いで16番ホールの柿の木に駆けて行ったら、ガックリした。上の方に数個の青柿が見えるだけで、手が届く箇所には1個も無い。野鳥が食いちぎった形跡もない。ゴルフ仲間の1人が「柿は隔年性だから剪定をしてやらないと花芽を作らないため翌年は実がつかない場合がある。ゴルフ場の柿の木の剪定は無理だから来年を楽しみにしましょう」と慰めてくれた。ところで、今号の『再び、柿談義』を書くに際して、どうしても(挿絵に)”鈴なりに実った柿の木“の写真が欲しいので、翁の故郷(大分県)の親友・Fさんに「柿の実がいっぱいついた柿の木が近くにあれば撮影して送ってほしい」と頼んだら、何と翁のイメージ通りの、いや、それ以上のいい写真が届いた。翁、小躍りして喜んだことは言うまでもない(巻首の写真)。

「日本一美味しい柿」「世界一美味しい柿」は日本中沢山ある。岐阜県巣南町が原産と言われる「富有」(1857年)、比較的新しいものでは滋賀県大津市の「西村早生」(1953年)。もう1つ翁のお奨めは大分県日田市の隣町・福岡県朝倉市杷木(はき)の「杷木の富有柿」。10月中旬から12月初旬にかけて大分自動車道を走ると両側に(約1kmに亘って続く)真っ赤に鈴なりに実った「杷木の富有柿畑群」を見ることが出来る。「杷木の富有柿」は、朝倉市杷木町の「志波(しわ)」という地区で栽培されているので全国的には「志波柿」と呼ばれているそうだが、その畑群を見れば、それはもう“柿の王国”そのものだ。故郷の親友から東京の龍翁宅へ毎年12月初旬に「杷木の富有柿」が送られて来る。実に楽しみであり有り難い。「富有柿」を“柿の王様”と呼ぶ県は、奈良県・岐阜県・和歌山県・愛媛県・・・それらの地域にはまことに申し訳ないが、翁は(地元贔屓もあって)「杷木の富有柿こそが日本一、いや世界一」と思っている。

“柿の王様”「富有柿」は、そのまま生(なま)で食べるのが一番だが、甘味の少ない普通の柿は「焼いても美味しい」ことをご存知だろうか?ヘタ部分を切り落とし、トースターで約10分焼くだけでトロっとした甘さが楽しめる。翁、数年前にその話を聞いて時々トライしている。

せっかく“美味しい話”をしているのに恐縮だが、“食べ過ぎに注意”を1つ書き添えたい。柿の食べ過ぎは”柿胃石症(かきいせきしょう)“を起こす危険性があると言う。柿の主成分(シブオール)が胃の中で酸などと合わさり周りの食物繊維などを巻き込んで石が出来る病気だそうだ。その柿胃石が胃の出口を塞いだりすると、腹痛・腹部膨満感(お腹の張り)・吐き気・嘔吐などの症状が出て、胃の中で出来た石が腸に流れて詰まると、腸閉塞になってしまうとのこと。しかし、翁のような超高齢者は、一度にそんなに食べられるものではない(せいぜい1日1個)。ともあれ10月26日は「柿の日」今年もまた「杷木の柿」の到来が待ち遠しいシーズンである・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

茶子のスパイス研究「日本でのすれ違い」

今年の中秋の名月は米国に向かう飛行機の中からお月様を仰いだ。
飛行機はまだ世が明けていない暗闇の中、白い雲海の上を静かに飛び続けていた。
その、ずっと上の方から何か光り輝くものが見えたので何だろうと思って窓から上を仰ぎ見たらまん丸のお月様だった。そうだ今夜は中秋の名月10月15日だったな〜と気が付いた。
暑さも、ようやく収まったら、また米国から続々友人たちが日本を訪れていた。

一組はハワイ島から母親のいる大阪に2ヶ月ほど滞在するとの事でやってきた。もう長いこと会っていないので東京に来た時に会う予定でいた。ところが友人が実家を訪れて間も無く母親が坂道で転んでしまい今は入院中で、とても東京に来るどころではなくなってしまったのだ。

残念だけれど友人たちはハワイ島なので再開はしばらく未定になった。
そして、2組目の友人は私が日本から米国に向かう15日その日にLAから東京を訪れる予定だったので、こちらもすれ違いで日本では会えなかった。

3人目はLAからアリゾナそして京都をベースに時々LAを訪れている友人。どうしているかな?とメールをしたらFaceTimeで話すことが出来た。お互いに忙しく長い間、音信不通になっていた。それでも友人とは共感できる部分が多く時間の経過は全く感じなかった。

友人がアリゾナに引っ越してからから2度友人の家に遊びに行った事がある。裏庭から見る砂漠の景色が綺麗で朝焼けと夕焼けの色がドラマティックに変わる空の様子を見せたいと言うので行ってみたら本当に素晴らしかった。この様子もいつかエッセイに書いて写真と一緒に出してみようと思う。その友人も私の後にLAに入り私の帰る前にまた京都に戻ってしまう。今回もLAでは用事があり、多忙でお互いに時間が取れそうもない。なのでLAで会えるかは未定だ。

4組目の友人は私がLAに行く前の1週間前に日本に来る事がメールでわかった。私がLAに入ってから間も無く日本に旅行で訪れその後九州の実家でゆっくり昔の学友達に会い羽田からLAに戻ると書いてあった。
日本で会えたのは、5人目の友人。私が米国に行く前日の14日に突然連絡があり仕事と自分の用事がポッと空いて午後からだったら時間があると言う事で急遽会うことになった。友人は今回、南から北まで日本の移動が多く予定が立たなかったのだそうで突然呼び出して申し訳ないとしきりに言っていた。明日は北海道で翌日は横浜だとかでかなり、お疲れのようだった。だから私も明日、LAに行く事は言わないでサプライズにしようと黙っていた。旅行の身支度は慣れているので確認も入れて1時間もかからない。

そんなわけで太平洋を挟んでこの秋は友人達も行ったり来たり私とすれ違いに空を飛んでいる。

スパイス研究家 茶子

逃げ場のない国 震災余話 井出半句

第二十一話 避難先の現実、兄からの手紙

2011年4月17日(日)花曇り、桜が風に舞う

原発安定化へのタイムスケジュールが発表された。6~9カ月と。つまり安定するまで1年半かかるということだ。ただし本当に住民が元の場所に戻れるのかは不透明である。

避難者が避難先で直面すること

避難者の避難先では次のようなことが起きている。実際に見聞した内容である。報道されることは余りないと思う。

1)親子・兄弟・親戚の付き合いの深さとは関係なしに、着の身着のままの避難者の受入となる。つまりIn-Lawとの突然の生活が始まる。

2)「世話にはならない」と言ってしまった息子家族のところに世話になる。

3)嫁姑関係はぎくしゃくしていたが、とにかくそこへ避難するしかなかった。

4)長男の嫁とは嫁姑の問題あり世話になりたくない。養子に出した別の息子ところに避難した。

5)いままで関係が良かったのに長期滞在で関係がおかしくなり、転々とする。5,6か所はざら。

6)弟や妹に親を任せることになり長男として自分を責める。

(金を出す、物を送る、しかし自分がしなければならないのにとの罪悪感にさいなまれる。妻に言いだせない・・・)

7)閑散としていた温泉街や民宿が避難受け入れされた人達もいる(被災者費用負担ゼロ、宿側はほくほく)

8)公的避難所から家に帰る人がいても、夫が議員や役員として避難所で市民の面倒をみている間は奥さんだけ帰るわけにいかない。段ボールのついたての中で暮らしている。公式な帰宅許可が出るまでは。

などなど、以上は筆者が直接見聞した個別のケースだ。

もちろん気持ちよく共同生活している人達も多い。困っている人を助けるのは当然と献身的に働く人(疲れてきたが)、明日は我が身と思い面倒を見る人、或は過去に同じ境遇だった人が恩返しする、など頭が下がる人達も多い。一方、子や親戚の所より避難所が気楽と言う人もいる。

一つのシーンの影では様々な人間模様が混在しているのだ。

兄からの手紙

我が家に避難していた兄から手紙が届いた。兄から貰う初めての手紙である。こんなに達筆だったのか・・・。

「・・・このご恩は一生忘れることが出来ません」とある。

何を他人行儀に、と思うがむしろ家内に向けてのことだろう。村の郵便局は機能していないので、往復一時間以上かかる隣町の消印である。村を出て働いたことはなく、両親の面倒を最後まで見た兄夫婦。そんな苦労に比べれば、今回の兄家族の世話などはままごとみたいなものだった。(家内には言えないが・・)

一方、福島原発近くの自宅を離れて茨城のアパートに入った甥家族は、子供の学校転入も済んだ。高校生の息子に「応援してるぞ」とメールしたら「頑張ります!」との返信。少しでも負担にならぬようアルバイトをする決心をしたようだ。甥は家族を残して単身で福島に出稼ぎに行き、勤め先(JA=農協)の再開を待つことになった。JA双葉は原発のお膝元である。う~ん、再開ねえ・・・・。

さて、原子炉も小康状態をかろうじて保っており、兄家族も一段落したのを機に、5月で期限切れとなるカリフォルニアの運転免許証の書換え(夫婦とも5月生まれ)もあるので4/20から訪米することとしました。

よってこれにて震災余話シリーズを一端終了します。次から次とお世話になった方々への報告事項があり、自分のモチベーションの維持のためもあり、20話以上になりました。

現役時代は業務連絡メールや社内文書などしか書かず、工学系でもあり駄文、駄句に皆さまをお付き合いさせてしまいました。今まで頂戴した激励や支援物資に心より御礼申し上げます。

人絶へしサライへの道花吹雪    井出半句

夜の森(よのもり)は富岡町の6号国道から川内村に入る登り口の地名。ロマンチックな地名のとおり、見事な桜並木があるのでも有名。甥の家はそこから2Km、原発へは6Km。帰還の目途は全くない。

♪・・・まぶた閉じれば 浮かぶ景色が 迷いながら いつか帰る 愛のふるさと

サクラ吹雪の サライの空へ いつか帰る いつか帰る きっと帰るから・・・♪

      ・・・谷村新司と加山雄三合作「サライ」より

サライとはペルシャ語で「宿」。私の数少ないカラオケの一曲でもある。

添付は、友人(秀信)が私に送ってくれた写真俳句に私の句も貼り付けたもの。彼は入社同期の親友でもあり句友でもある。多くを語らずとも分かり合える同年代の句友の存在は有難いものである。

第二十二話につづく

ジャズライフ Anat Cohen “Poetica”

先日行ったスカイツリーの展望台でジャズの生演奏を聴きました。サックスの強烈な音が今でも耳に残っています。あのパンチ力のあるサックスはずっと聴いていたら疲れるので、もう少し優しい音のジャズが良いと思いました。Avishai Cohenの姉のAnat Cohenがクラリネットのみの演奏によるカルテットのアルバムがありました。 秋の夜に聴くのにちょうどいいやさしい音のアルバムです。《R.O.》

1-Agada Yapanit (A Japanese Tale) 6:21
2-Hofim (Beaches) 6:38
3-The Purple Piece 7:30
4-Eyn Gedi 7:47
5-La chanson des vieux amants 4:08
6-Lonnie’s Lament 7:21
7-Quando eu me chamur saudade 3:48
8 -La casa del llano 8:02
9-Nigunim 3:01
10-Cypresses 10:36

東京観光②

先週からの続きです・・・
私たち夫婦は東京のことをほとんど知らないので、東京の雰囲気だけでも味わおうとバスツアーに参加しました。しかし雨のために視界が悪く多くを観ることはできませんでした。それでも記憶に残る経験になりました。雨の東京ツアーが終わり17時に東京駅に到着。とりあえず浅草蔵前にあるホテルに行くことにしました。Googleマップと乗り換え案内アプリを使って東京駅からホテルまでのルートを調べました。JRで御徒町駅まで行き、都営地下鉄大江戸線に乗り換えて蔵前駅まで行くのが一番簡単そうでした。しかし、実際には道案内の矢印が途中で途切れてしまい、地下鉄の入り口がわからず迷ってしまいました。なんとか無事に蔵前駅に到着しましたが、予想以上に時間がかかり疲れました。ただ、交通系ICカード(私たちはICOCAを使用)がどの路線でも使えるので非常に便利だった点は助かりました。浅草蔵前にあるホテルにチェックイン後、スカイツリーへ歩いて行きました。近くに見えるので時間はかからないと思いましたが、意外と距離がありました。スカイツリーの展望台では、ほとんどが外国人旅行者でした。ジャズの生演奏を聴きながら、美しい東京の夜景を楽しみました。雨の心配がなかったので、歩いてホテルに戻りました。歩いているときもすれ違う人がほとんど日本人ではなかったことも印象的でした。翌日、友人に会うので楽しみにベッドに入りましたが、夜中に足が攣ってしまい、ほとんど寝られませんでした。足の疲れと水分不足が原因だったと思います。こうして、旅行初日は忘れられない変化に富んだ一日となりました。次回に続く《R.O.》

近くに見えるスカイツリーは遠かった。(左)スカイツリーの展望台で行われていたジャズの生演奏(右)

編集後記「運動会」

昨日は孫たちが通う小学校の運動会でした。朝からどんよりした天気でした。運動会は朝早くから始まり、お昼に終わるのでなんとか持つだろうと思っていました。しかし5年生の孫の演技が終わるころ雨が降り出しました。先週のはとバスの東京ツアーを思い出しました。私たちは傘もポンチョも持って行ったので良かったのですが傘もなくカメラを持って撮影していた人は気の毒でした。《R.O.》

どんよりした天気の中で開催された運動会

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