龍翁余話(301)「“八重の桜”と“熊本バンド”出身の学生たち」
NHK大河ドラマ『八重の桜』が終盤に入った。翁の個人的評価としては昨年の『平清盛』の愚作に比べ『八重の桜』は毎週が楽しみだった。会津藩砲術指南・山本権八(高島流砲術家)の3女に生まれ、幼少期から”裁縫より鉄砲“という男勝りだった八重は、会津藩校・日新館の什の掟(じゅうのおきて=7つの藩訓)【ならぬことはならぬ】を座右の銘として会津魂をはぐくみ、会津戦争(戊辰戦争)時には断髪・男装で鶴ヶ城に立て籠もり、自らスペンサー銃と刀を持って長州軍・薩摩軍と戦った。結局は戦いに敗れたが、八重は眼差しを下に向けることなく「諦めてはならぬ、勇気をもって未来を信じなければならぬ、どんな苦境にあっても人は幸せにならなければならぬ」の精神で激動の中を真っ直ぐに進もうとした。その八重の姿は、日本人、特に復旧・復興を目指す東日本被災地の人たちに、どんなにか力強いメッセージとなったことだろう。しかし、それも“会津編”までで、ドラマの賞味期限が切れた。翁の印象としては、“京都編”になってからの“八重の桜“は“葉桜”になってしまった。新島襄(同志社英学校、のちの同志社大学の創設者)との出会いから、八重は主役から脇役に追いやられ、ストーリーの展開は(新島襄を中心とする)“同志社英学校設立物語”に転じた。同志社大学関係者は大喜びだろうが、ストーリーに贅肉(蛇足)が付き過ぎて(具体的指摘は省略)、肝心の八重の存在が影を潜め出した。
同志社英学校に入学して来た第1期生(熊本バンド)の学生たちの行儀の悪さ(品格欠如)が、いっそう翁の興を削いだ。そもそも“熊本バンド”なるものの説明も不十分で、翁には、クリスチャンかぶれの屁理屈な若造集団としか映らなかった。しかし、調べてみると“熊本バンド”とは“札幌バンド”“横浜バンド”と並んで明治のプロテスタント派の源流の1つ。プロテスタントとは、16世紀にローマカトリック教会に反抗し分離したキリスト教各派とその信徒の総称。日本でのプロテスタント元年は1859年(安政6年)とされているが、本格的な日本プロテスタント教会の誕生は1872年(明治5年)と言われている。つまり札幌・横浜・熊本の3バンドが日本プロテスタント派普及の拠点となったわけだ。
礼儀をわきまえない、おまけに薄汚い“熊本バンド”の連中の登場に不快感を覚えた翁は数週間『八重の桜』から離れた。ところが(知らない、ということは恐ろしいものだ)、その薄汚い礼儀知らずの“熊本バンド”の中に(後年)明治・大正・昭和の3代に亘りジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家としてその名を馳せた徳富蘇峰(とくとみそほう=1863年、文久3年〜1957年、昭和32年)、蘇峰の弟で、『不如帰(ほととぎす)』、『思出の記』、『黒潮』などの著者として有名な文豪・徳富蘆花(とくとみろか、1866年、明治元年〜1927年、昭和2年)、更に、熊本藩士で幕末の儒学者・政治家・維新の十傑として名高い横井小楠(よこいしょうなん)の長男・横井時雄(よこいときお=1857年、安政4年〜1927年、昭和2年、牧師・ジャーナリスト・逓信官僚・衆議院議員・同志社大学第3代総長)らがいたのだ。横井時雄は、八重の兄・山本覚馬(1828年、文政11年〜1892年、明治25年、会津藩士、砲術家、維新後政治家として京都府政を指導した。新島襄の協力者)の娘みねと結婚。蛇足だが、時雄の母と蘇峰・蘆花の母が姉妹だったので、時雄と蘇峰・蘆花兄弟は従弟同士になる。
翁は学生時代(日本人として初めてロシアの文豪トルストイと会見した)徳富蘆花に憧れていた。当時、翁は東京・京王線の明大前駅の近くに下宿していたので“蘆花ワールド”に浸りたくて(明大前に近い)芦花公園(正式名称『蘆花恒春園』)に度々足を運んだ。実のところ、田舎育ちの翁にとって自然豊かな芦花公園は、お金をかけないで故郷が偲ばれる恰好の散歩場所だったのと同公園の草叢に寝そべって、神田の古本屋で買った『不如帰』や『自然と人生』を読み耽るのが好きだった。へ難しい文語体で綴られたそれらの本を解読出来た時、少しばかり蘆花に近づけたかな?という微かな満足感を味わったものだ。『蘆花記念館』の入り口に掛けられている蘆花先生の遺影にご挨拶したり、蘆花・愛子夫妻の旧宅(母屋)に上り込んで、まるで自分が文豪になったような気分に浸ったり、夫妻の墓所を参拝したり・・・つい先日、何十年ぶりかで芦花公園を訪ねた。ほとんど昔のままの佇まいに“我が青春時代”を回想して感慨ひとしお・・・
さて『八重の桜』を再び視るようになったのは、前述の通り“熊本バンド”の顔ぶれを知ってからのことだった。蘆花とその兄・蘇峰、そして横井時雄ら“熊本バンド”OBたちは、次第に新島襄と夫人・八重の人柄に魅かれ、襄からはキリストの教えを、八重からは不屈の精神(【ならぬことはならぬ】)を学んで(同志社英学校第1期卒業生として)それぞれの道へ羽ばたいて行く、これからの(物語の)展開とフィナーレが楽しみになって来た。ドラマを先取りすれば、新島襄は1889年(明治22年)神奈川県大磯の旅館で死去(死因は急性腹膜炎、享年47)。襄の死の翌年、八重は日本赤十字社の正社員となり看護婦の資格を取得して従軍看護婦、看護婦教育、地位向上に努力した。その功績で日清戦争(1894年、明治27年)の時、勲七等宝冠章を、日露戦争(1904年、明治37年)時、勲六等宝冠章が授与された。また1928年(昭和3年)昭和天皇の即位大礼の際に銀杯が下賜され、1932年(昭和7年)満86歳で波乱の人生の幕を閉じた。幕末・明治・大正・昭和の激動の時代を生き抜いた“会津の女傑”八重さんは翁が生まれる4年前までは生きていたのだ。故にこの八重さんは翁にとってごく身近な、親友のような存在に思えてならない。いずれかの機会に、翁流“八重の足跡”を訪ねたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |