龍翁余話(282)「啄木、渋民村の青春」
前々号の『龍翁余話』(280)「啄木・賢治、盛岡の青春」(その1=啄木編)に続いて、再びの『啄木』である――
盛岡駅から『IGRいわて銀河鉄道』に乗って、翁が少年時代からの憧れの地だった啄木のふるさと、渋民へ向かう。資料によるとこの鉄道は、以前は東北本線だったが2002年12月の東北新幹線の開通と同時にJR東日本から分離、独立経営になった由。『銀河鉄道』の名称は言うまでもなく宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に由来する。渋民村は1954年(昭和29年)まで岩手県岩手郡の中部に位置する寒村であった。盛岡市内から5里(約20km)、歩いて約5時間(雪道では約7時間)かかったという。現在は盛岡市玉山区渋民。渋民駅は盛岡駅から5つ目、線路距離約16km、約20分で着く。翁が乗った(2輌編成の)客車には、乗客はまばら。午前11時頃、渋民駅で降りた客は翁ともう1人の、2人だけだった。女性駅員(駅長?)が翁の質問に親切に答えてくれた「当駅の乗降客は年々減少して昨年のデータでは1日平均約600人です。当駅が開業したのは戦後(1950年)で、啄木の時代には渋民駅はありませんでした。ですから当時の人たちが利用した駅は、北隣の好摩駅でした」ならば、渋民駅の傍に建っている啄木の歌碑【なつかしき 故郷にかへる思ひあり 久しぶりにて汽車に乗りしに】で啄木が利用した駅は、好摩駅だったのかもしれない。
『石川啄木記念館』へのアクセスを訊く。女性駅員のアドバイスに従って(駅構内で客待ちしていた)タクシーに乗り5分ほど走った所の(たった1軒の)食堂前で降りる。『記念館』はここから徒歩で15分くらいだというので、まずは腹ごしらえ。昼食の後、ひたすら奥州街道(国道4号 線)を歩く。左手には、先ほど乗って来た銀河鉄道線と北上川が並行している。“この道は、その昔、啄木も歩いた道だ”と思いながら歩いていると道端に歌碑が。何と翁が中学時代から好きで(曲を付けて)歌った【かにかくに 渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川】・・・“とうとうやって来た!中学時代、啄木かぶれの学友たちと、いつか一緒に行こうと約束を交わした啄木の故郷へ、遂にやって来た!”翁は、たまらない嬉しさで、涙が出るほどの感動を覚え歌碑に黙礼した。
『石川啄木記念館』は、1986年(昭和61年)に建設された文学ミュージアム。白い洋風の建物は啄木の詩『家』に描かれた“理想の我が家”をイメージしたもの、と案内板に書かれている。展示場入り口の“ 石川啄木記念館”の文字は、啄木生涯の支援者・金田一京助(1882―1971)(言語学者、アイヌ文学研究者、アイヌ語学の創設者)の筆による。館内は、故郷の渋民村を振り出しに盛岡・北海道・東京 と移り住んだ啄木の足跡に沿ってコーナーが設置されており、啄木直筆のノートや書簡、写真、衣服など多くの遺品や資料が展示されている。(館内は撮影禁止)
改めて啄木の歴史を辿ってみる。啄木・石川一(はじめ)は、1886年(明治19年)、父親(一禎)が住職をしていた(渋民の隣村)白戸村の常光寺で長男として生まれる。1歳の
時、父親の栄転で渋民村の宝徳寺に一家で転住。啄木、9歳で盛岡市立高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学するまで宝徳寺で育ち、渋民尋常小学校(現・渋民小学校)で学んだので、啄木の故郷は渋民村、と言うことになる。なお、啄木の生涯の親友・金田一京助は盛岡高等小学の2年先輩で“石川一”は金田一との出会いで文学に目覚める。また盛岡中学に入学した頃、盛岡女学校に通う堀合節子と恋仲になる。先輩・金田一や文学少女・節子に刺激されて短歌創作や評論活動に励む。“翠江”(すいこう)の名で岩手日報に短歌を、“白蘋”(はくひん)の名で文芸雑誌『明星』に短歌を掲載し たりして新人詩人としての実績を積み上げて行く。盛岡中学を中退して上京、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得る。この頃、初めて“啄木”のペンネームで『明星』に詩『愁調』を発表、更に処女詩集『あこがれ』を刊行、盛岡に戻って堀合節子と結婚、市内に新居を構える。このくだりは『余話』(280)で紹介したので、ここでは割愛する。その後、父親の住職解任騒動があり、一家は盛岡の啄木の新居に同居、啄木に生活責任の負担が大きくのしかかる。そして生活苦から啄木は渋民村へ戻って母校・渋民尋常高等小学校の代用教員となる。
先ほど歩いた奥州街道の途中に愛宕神社がある。啄木は「詩人たる自分の学ぶべき大学が塵の都の大建築であるとは思へない。故郷は自然の大殿堂である」と言ってこの愛宕神社を“命の森”と呼び崇めた。啄木が学び、そして代用教員を務めた渋民尋常小学校は、この神社の麓にあった。当時の原型を留めた建物が現在は『記念館』広場に移転保存されている。校舎前の歌碑には【時として あらん限りの声を出し 唱歌をうたふ子をほめてみる】が刻まれている(写真左)。啄木は子供が好きだった。「日本一の代用教員になる」と自負し教育に情熱を注いだ。
「自分が教壇の人となるは、単に読本や算術や体操を教へたいのではなく、出来るだけ自分の心の呼吸を故山の子弟の脳奥に吹き込みたいが為である」が口癖であった、と展示場のどこかに記されていた。右端の写真は、啄木が代用教員時代に間借りしていた農家・斉藤家の当時の再現家屋である(県史跡文化財)。かの有名な小説、『雲は天才である』や『面影』は、この農家の2階で執筆したそうだ。また、長女京子が節子夫人の実家で生まれたことを知るや「予が若きお父さんとなりたるなり」「天地に満つるは愛なり」など喜びのさまを日誌に書いたのも、この家であったそうだ。『記念館』に来る途中、奥州街道で見つけた歌碑(【かにかくに・・・】の場所に、斉藤家の子孫が今でも住んでおられる――
以上が『啄木、渋民村の青春』であるが、父親の宝徳寺住職復帰運動も労作(小説)も失敗して啄木は渋民村を去ることになる。その時の無念さを彼は【石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし】と詠っている。その後の啄木の函館・札幌・小樽・東京における足跡、啄木の詩集(『一握の砂』『悲しき玩具』)、それに啄木の両親と姉妹、啄木の妻や子供たちについては、また、いずれかの機会に・・・貧乏と病気の二重苦にさいなまれた薄幸の天才詩人は1912年(明治45年)に短い生涯を閉じた。享年26。翌年、妻節子も死去、図らずも啄木と同じ享年26。
蛇足だが、啄木が特に可愛がっていたミツ(光子)という2歳下の妹がいた。彼女はカソリック系の盛岡女学校(現・盛岡白百合学園)や兵庫県芦屋市の聖使女学院(現・芦屋聖マルコ教会)で学んだ後、全国各地の教会で婦人伝道師として働き、1922年(大正11年)35歳の時、聖公会司祭・三浦清一と結婚。1944年(昭和19年)に神戸に移り夫・清一が設立した救貧施設・神戸愛隣館で貧しい人々のために尽くした。1962年(昭和37年)清一、67歳で死去後も光子は(息子・嗣郎の協力を得て)神戸愛隣館を受け継ぎ社会事業活動のかたわら『兄啄木の思い出』を書き上げ、3年後(昭和43年)に死去した、享年79。実は翁、神戸(高校)時代に、この三浦光子さん(当時、60歳半ば?)の講演を聴いたことがある。たしか『兄啄木を語る』(?)詳しくは覚えていないが「我が儘で優しくて金銭にだらしなくて金田一京助先生や若山牧水先生に大変ご迷惑をおかけした」「兄嫁(節子)や友人たちが、兄の遺骨を勝手に函館に持って行ったことへの怒り」などの記憶がある。それにしても僧侶(曹洞宗)の娘が、何故、クリスチャンになったか、いつの日か“啄木の妹・光子の生涯”も追ってみたい。・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |