龍翁余話(281)「啄木・賢治、盛岡の青春」(その2=賢治編)
岩手県盛岡の市内を慌ただしく駆け回った。初めての翁にとって、どこもかしこも新鮮で魅力がいっぱい。歴史館や資料館、神社仏閣、公園などで出会う人たちは皆親切で、そんな街を愛し、青春を駆け抜けた石川啄木や宮沢賢治の気持ちが解るような気もした印象深い盛岡の旅だった。先週号の『啄木・賢治、盛岡の青春』(その1=啄木編)に続き、今号は(その2=賢治編)である。
翁が魅力を感じた街並みの1つに北上川沿いの材木町がある(写真左)。別名“イーハトーブアベニュー材木町”とも言う。“イーハトーブ”とは、宮沢賢治の造語“理想郷”のこと。その街に入ると直ぐに賢治に出会える。入り口付近の賢治の石座(写真中)のほか賢治の作品にちなんだ6つのモニュメントが歩道のあちこちに。中でも翁が驚いたのはチェロのオブジェだ(写真右)。宮沢賢治とは、詩人・童話作家・農芸化学者・農村指導者・宗教思想家としか知らなかったが、何と彼は作曲家(?)でもあったのだ。資料によると彼の作曲に『星めぐりの歌』、『種山ケ原』というのがあるそうだ。翁、まだ聴いたことはないが――
賢治は1896年(明治29年)岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)に生まれ、地元の川口尋常高等小学校(花城尋常高等小学校と呼ぶ資料もある。いずれも現花巻小学校))を卒業すると盛岡中学(現盛岡一高)へ。啄木の10年後輩にあたる。2年生の頃から短歌づくりに目覚め、学業を等閑視して野山を跋渉(ばっしょう)、哲学書、宗教書を耽読するようになった、という。啄木が授業を抜け出して盛岡城址を散歩したり、草叢に寝転んで文学書や哲学書を読み耽った行状によく似ている。違うところは啄木が盛岡中学を中退して文芸の道に突っ走ったが賢治は1914年(大正3年)に卒業した。が、直ぐに岩手病院(現岩手医大=今回の盛岡の旅でいろいろとアドバイスをしてくれた親友の歯科医Y先生の母校=の付属病院)に入院した。病名は肥厚性鼻炎という慢性鼻炎。この病院で賢治は看護婦に恋をしたが、どうやら片想いだったようで、失恋に終わった。そこで心機一転、翌年(1915年)、盛岡高等農林学校(日本最初の高等農林学校=現岩手大学農学部)へ首席で入学。翁、この学生時代の賢治を知りたくて旧盛岡高等農林学校本館へタクシーを飛ばす。途中、ドライバーが翁に「賢治の小学校時代の通信簿が見つかったそうです。よかったらお持ち下さい」と岩手日報(5月17日号)を譲ってくれた。“成績は(3段階のうち最高の)オール甲”とある。更に記事には“花巻市立宮沢賢治記念館では、賢治没後80年にあたる今年8〜9月に一般公開“と書いてある。翁、8月に花巻市にも行きたいと思ったが、果たして・・・
親切なドライバーに感謝しながら岩手大農学部ゲートでタクシーを降りる。
旧盛岡高等農林学校の正門は1902年(明治35年)の創立当時のままの姿をとどめている(写真左)。本館は国の重要文化財(写真中)。入り口の傍に賢治の像(写真右)。古めかしい木造の教育資料館の中は静まり返っている。男女の学芸員2人が事務室から出てきて「もう、入館時間は終わりました。3時までです」翁の腕時計は3時半を回っている。翁が残念がると「どちらから?」「東京から」を告げると上司らしき男性学芸員が「遠方からお出でになったのだから、30分くらいでよろしければ、どうぞ」「ありがとう!」ここにも親切があった。入館料140円を払って賢治関係の資料室へ、案内は女性学芸員。本来は撮影禁止だがその学芸員さんが黙認してくれた。この人にも感謝!
盛岡高等農林学校における賢治の研究は主に地質・鉱物(岩石)・土壌分析改良・肥料設計・冷害凶作対策など。展示室には、賢治が県内で採取し研究した数10個の岩石のほか地質・土壌調査、採石などに用いた道具類、レポートなどが多数展示されている。そして彼の卒業論文『腐植質中の無機成分の植物に対する価値』(写真左)が高く評価され、1918年(大正7年)に(入学時と同様)首席で卒業(写真中=最上段右端が賢治)。なお、賢治は卒業前年に4人の仲間と共に(写真右=上段右が賢治)同人誌『アザリア』を創刊、短編随筆や和歌の創作活動を行なったり、市内の古刹を巡っては仏教の信仰を深めたりした。
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資料館を出る時、学芸員さんが教えてくれた「この構内に、啄木の妻・節子さんの生家がありました」確かに植物温室棟裏に“節子の井戸”(写真左)が復元され“節子の生家跡”の看板も立っている。啄木と賢治は直接的接点はないが、偶然にも(旧姓)堀合節子が2人の天才の縁(えにし)をとりもったのでは?そんな気がしてならなかった。 |
さて、賢治は卒業後、稗貫郡農蚕講習所(のちの花巻農学校〜県立花巻農業学校)で教鞭をとったりしたが、1921年(大正10年)以降、農業指導のかたわら童話・詩・随筆などの文芸活動にも励み、『どんぐりと山猫』『小岩井農場』『氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮』『(心象スケッチ)春と修羅』などを発表。なお、1922年(大正11年)に病弱だった妹のトシ(トシの母校・花巻高等女学校の教諭)の死に際し、賢治は押し入れに頭を突っ込んで声をあげて泣き続けたという。よほどの妹想いだったと想像する。――ここで話は再び冒頭の“イーハトーブアベニュー材木町”に戻る。
材木町に入ると直ぐに『光源社』という民芸品店・コーヒー店がある。創業者は及川四郎、盛岡高等農林学校時代の賢治の1年後輩。ある日、及川は賢治から分厚い童話原稿を預かり出版を依頼された。2人で考えた本の題名は『注文の多い料理店』、1924年(大正13年)及川の支援による賢治の自費出版である。ちなみに『光源社』も賢治の命名だそうだ。中庭には小さな資料館があり『注文の多い料理店』の初版本、童話『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩『永訣の朝』の直筆原稿や(メモ)『雨ニモマケズ』などが展示されている。
1926年(大正15年)頃から農村青年や篤農家に稲作法や土壌改良、植物学などを教えたり肥料設計相談なども行なった。同時に農民たちに芸術の重要性を唱え、レコード鑑賞会やコンサート、子どもたちのための(自作の)童話会なども主催した。1928年(昭和3年)に急性肺炎で自宅療養、創作活動を一時中断するが1931年(昭和6年)頃病気回復、東北砕石工場の技師となって石灰の宣伝販売に県下を奔走する。その無理がたたってか、再び病状悪化、病床で童話の推敲(すいこう)、改稿、創作に没頭するも回復ならず、1933年(昭和8年)遂に独身のまま37年の生涯を閉じた。啄木といい賢治といい、あまりにも早過ぎる天才の死である。なお、没後1年で『宮沢賢治全集』が刊行され、実弟の清六、詩人の草野心平、高村光太郎らの尽力で賢治の人となり作品が世に知られることになる。
限られたスペースで多くを語ることは出来ないが、盛岡の旅で翁は、少年時代からの憧れであった啄木や賢治に少しばかり近づくことが出来たような気がする。彼らの青春は永久に色あせることはない。いつの時代でも若者たちに新鮮な息吹を与え続ける。賢治の論文『農民芸術概論』の中に「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という1節がある。何と、今なお、我々の心に(新鮮に)響く言葉ではないか。人間の生き方について常にグローバルに考えようとした賢治らしい世界観である。次号『(再び)啄木、渋民村の青春』にご期待を願って・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |