龍翁余話(236)「七里ガ浜哀歌2題」
先週の『余話』(235)で、旧友A・Mさんのお仲間たちに同行しての「鎌倉・紫陽花巡り」を書いた。その終章に“実は翁、かねてより鎌倉幕府滅亡の引き金となった新田義貞の幕府攻めの拠点、稲村ケ崎の歴史に触れたくて、この機会にと、Mさんや皆さんのご了解をいただき、1人で稲村ケ崎へ行った。そのことは次号に紹介する予定・・・”と結んだ。Mさんたちとお別れしたのは成就院の紫陽花観賞を終えた後の江ノ電・極楽寺駅。稲村ケ崎駅はその一駅先。(そこには、もう1つの哀歌があった。逗子開成中学校ボート部員の遭難事故で12人が海に沈んだ悲話)。
♪七里ケ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場
相模湾(七里ケ浜)の潮鳴りを耳にしながら人影もまばらな砂浜を歩いていると、子どもの頃に覚えた小学唱歌『鎌倉』(明治43年、芳賀矢一作詞、作曲者不詳)の歌が自然と口をつく。七里ケ浜とか稲村ケ崎って、何処にあるのだろう?名将って、誰のことだろう?何故、剣を投げたのだろう?子どもの頃は地理も歴史も解らないまま歌ったものだ。8番まである歌の内容は“鎌倉幕府の興亡史”を謳ったものだが、メロディが何とも物哀しいので翁、あえて“哀歌”と言う。
後年『太平記』を読むに至って、ようやく『鎌倉』の歌詞の意味と歴史を理解することが出来た。『太平記』とは、南北朝時代を舞台に後醍醐天皇(第96代天皇)の即位(1318年)から鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇崩御(1339年)、足利将軍家の台頭(室町幕府初期)までの約50年間を描いた戦記物。『稲村ケ崎の戦い』はその間、後醍醐天皇の下命で上野国(群馬県)新田庄の武将・新田義貞が挙兵して鎌倉までの道中処々で幕府軍(北条軍)を破り、いよいよ鎌倉へ。時は1333年5月21日、義貞自ら稲村ケ崎の海岸を渡ろうとしたが切り立った断崖と相模湾の高波に阻まれ岬越えは至難、そこで義貞は引き潮を念じて剣を海に投げた。すると龍神が呼応して瞬く間に潮を引かせ騎馬団(騎馬数は不明)はやっと岬の南側を渡ることが出来、鎌倉を攻略した。驕り、油断の幕府軍は総崩れ、時の執権・北条高時ら一族は東勝寺において自刃(と、『太平記』にある)。源為朝が1192年に征夷大将軍に任ぜられて始まった鎌倉幕府も141年で滅びたことになる。なお、為朝死後、為朝の正室(尼将軍と呼ばれた)北条政子が北条家を代々の鎌倉幕府最高権力の座に築き上げた話は有名。鎌倉幕府倒幕の立役者ながら不器用だった新田義貞は、その後(同時期、後醍醐天皇の信頼が厚かった)足利尊氏の陰謀によって次第に不遇の道を辿る。『鎌倉攻め』から5年後の1338年、越前国(福井県)『藤島城の戦い』で戦死、義貞ファンの歴史家は“後醍醐天皇に利用された不運の武将”と評している。稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)の広場には『新田義貞徒渉伝説碑』と明治天皇の【投げ入れし 剣の光 あらわれて 千尋(広い)の海も くが(陸)となりぬる】の『御製碑』が建っている。
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新田義貞徒渉伝説地碑 右:明治天皇御製碑 |
ボート遭難の鎮魂碑(インターネットより) |
♪真白き富士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙・・・
偶然にも、前述の『鎌倉』の歌が発表された明治43年(1910年)の1月、逗子開成中学ボート部の遭難事故が起き、12人の部員全員が海に沈んだ。彼らが江ノ島を出る時「悪天候だから」と漁師に止められたが、少年たちはその忠告を無視してボートを漕ぎ出し、七里ヶ浜(稲村ケ崎の沖)で転覆沈没、この事故を目撃した江ノ島や七里ヶ浜の漁師たちはいっせいに半鐘を鳴り響かせ、悪天候をついて漁船で救出に向かったが発見出来ず、翌日、横須賀海軍掃海艇によって12人の遺体が収容された、と記録にある。《真白き富士の根》の歌詞は当時の鎌倉女学校・三角錫子教諭によって(同明治43年に)作られた。実は翁、子どもの頃(小学校4年頃)にギターを習い、初めて独奏したのがこの歌。今でも楽譜無しで弾ける(と思う)くらい馴染んでいる。しばし鎮魂像に合掌。
江ノ島から七里ヶ浜、稲村ケ崎、由比ヶ浜、鎌倉への道は、これまでに何十回ドライブしたか知れないが、七里ヶ浜(稲村ケ崎)に立ったのは初めてだ。日暮れまで“不運の武将・新田義貞”と“哀しき12の御霊”の<七里ヶ浜哀歌2題>に思いを馳せ、翁呟く≪潮風に 昔の音を尋ぬれば そは遠き世々の跡≫・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |