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NO.741               Ryo Onishi              7/25/2010  

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雑貨屋のひとり言

猛暑が続きます。家の中にいても朝からつらいですね。高層階のビルは日中、ぎらぎら太陽の陽を浴びるので、陽よけ対策が必要です。たくさんの方が困っているのではないでしょうか?我が家も、窓にUVカットのフィルタ、日よけのシェードや簾を取り付けています。それでも暑く我慢できないときは家の前のショッピングセンターに行きます。冬に日当たりがいいところは逆に夏は暑くてどうしようもないということになります。この太陽の光と熱を遮断しついでにエネルギーもいただいてしまう(取り付け簡単な)装置を開発すればヒット間違いなしと思うのですがいかがでしょう?もしそんなものがあったら教えてください。≪R.O≫

構成吟『明治維新』(1)

 私たちの住んでいるロサンゼルスとその周辺にはいくつもの詩吟の会(流派)がありますが、そのうちの主な七つの流派が加盟して「南カリフォルニア詩吟連盟(南加詩吟連盟)」を組織しています。今年は連盟創立20年の記念年になります。当地では毎年夏に日系人の統合行事である「二世週祭(NISEI WEEK FESTIVAL)」が行われますが、南加詩吟連盟も毎年この行事に協賛して吟詠大会を開催しています。この吟詠大会の目玉の一つが連盟加盟の各流派の吟士たちによる構成吟です。

構成吟とは、特定のテーマのもとに複数の吟題が組み合わされ、ナレーションやBGMなどとともに進行するもので、その年の担当流派が中心になってテーマや内容の構成を引き受けることになっています。昨年と今年の担当は私の所属する「尚道会」ですので、私も今年の構成吟作りに参加しました。今年の構成吟のテーマは「明治維新」と決まり、私たちの会の詩吟仲間である吉見嘯峯さんが構成した原稿をもとに私も構成者の末席に加えてもらい構成吟「明治維新」を完成させました。(今年8月に開催される吟詠大会では女性講談師としての肩書きもある吉見さんが舞台ナレーションも担当します)

 以下は、その構成吟「明治維新」の台本です。これを各流派の吟士20名により約一時間かけて吟ずることになります。

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〔T〕黒船来航
  本日は、日本国が大きく方向転換した、まさに激動の時代、熱き血潮たぎるをおさえきれない多士済々が命をかけて奔走いたしました「明治維新」の一席、御物語な、申し上げます。

 嘉永六年と申しますから、西暦の一八五三年、ただ今から百六十年ほど前のこと、浦賀の沖合に今まで見たこともない大きな黒い船があらわれました。

  泰平の眠りをさますじょうきせん
           たった四杯で夜も寝られず

 アメリカ海軍、東インド艦隊のペリー提督が我国の鎖国を解こうと、軍艦を率いてきたのでありました。
さあ、老中阿部正弘は困ってしまった。未曾有の国難、国家存亡の危機であります。

ここに一人、海外事情をいささか知っていた男がいる。信州松代藩の朱子学者、佐久間象山。十年ほど前に、松代の殿様、真田幸貫が幕府の海防掛りに任ぜられた折、象山は外国について調べてみた。すると、アラララ、おとなりの清国は阿片戦争に負け、香港はとられるわ、上海は植民地化しているわ、とんでもないことになっております。

子、のたまわくと悠長な学問をしている場合ではない。もう、火の粉はそこまで来ている。国防こそ、焦眉の急であると、西洋式の砲術を学び、必死でオランダ語を修得して六年後には、自力で大砲を鋳造するところまでいきます。

この門をたたいたのが、吉田松陰。 黒船がきた時、二十四才。とるものもとりあえず浦賀へ駆けつけて、武装した外国の傍若無人をまのあたりにします。ペリーが去ると、いれちがいにロシアのプチャーチンが長崎にやってきました。
「象山先生、私はあのロシアの船で、外国に行き、学べるだけ学んでまいります」象山は、国禁を犯してまで国に尽くそうとする愛弟子の情熱にうたれ、おおいに励まします。

★ 送吉田義卿(よしだぎけいをおくる)
 佐久間象山作
  (前八句略)
  環海何茫茫(かんかい なんぞぼうぼうたる)
  五州自成鄰(ごしゅう おのずからりんをなす)
  周流究形勢(しゅうりゅうして けいせいをきわめよ)
  一見超百聞(いっけんは ひゃくぶんにこえん)
  智者貴投機(ちしゃは きにとうずるを とうとぶ)
  帰来須及辰(きらい すべからく ときにおよぶべし)
  不立非常功(ひじょうのこうを たてずんば)
  身後誰能賓(しんご たれかよく ひんせん)

 しかし! 三十九日もかかってようやく長崎に着いてみると、すでにロシア船は去ったあと。「ああ、時、我に味方せず、か。そうだ、ペリーがもう一度来る。その時こそ!」

年明けて安政元年一月、ペリーが今度は七艘の軍艦を率いてやってきました。圧倒的な武力を前に、イヤも応もありません。日米和親条約締結。松陰は、闇にまぎれてギーコ、ギーコ。 小船を黒船に寄せて「貴殿の国へ連れていってくれ」と決死の覚悟で申し入れますが、あっさり断られ、海岸にもどされてしまいます。

幕府に松陰の熱き思いがわかろうはずもありません。江戸伝馬の牢から故郷、萩の牢に送られる。翌年からは実家預かりの身となり、物置小屋改造のせまい所で松下村塾を開く。身分を問わず多くの若者が押しかけました。 高杉晋作、久坂玄端、山県有朋、伊藤博文・・・。 わずか二年足らずの間に日本大変革の英傑の芽が育ちます。    ――― 次号へ続く ―――
【注】:この構成吟を含む「南カリフォルニア詩吟連盟主催の吟詠大会」は8月29日(日)午前9時からベニス日系人会館(12448 Braddock Dr., Los Angeles, CA 90066)にて開催されます。入場無料。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その5

<在宅医療>

テレビのドキュメント番組は、大好きだ。それは、感激や感動で胸が張り裂けそうになったり、自分の無知さや小ささを知らされたり、更には、そんな自分に力や知恵を与えてくれたりするからだ。しかし、残念なことに多くの場合、そのドキュメント番組の事実や実在を、自分の生活に具現化することは難しく、時とともに頭や心の片隅に置き去りにしてしまうこともある私。しかし、そんな頭の片隅にある引出しから、ガラガラポン!っと、飛び出した記憶、これがまさに、『在宅医療』の存在だった。最近の『さくらの独り言』は時間軸を追いながら、高齢の義両親の医療や介護の体験について綴ってきているが、今回は、この『在宅医療』について。

義両親が通っている千葉西総合病院での毎月の定期診断が、朝の8時前から午後4時半までかかり、義両親は勿論、付き添いの私も心身ともにぐったり。何かいい方法はないものかと地域医療機関や様々な情報を駆使した結果、在宅診療部を持つ『いらはら診療所』に出会った。その診療所は、義両親の自宅から車で5分程の距離にあり、診療所は1994年に開業、苛原実院長は、1995年より在宅医療を始めたという。早速、『いらはら診療所』専属相談員の佐々木さんと綿密なミーティングを重ね、今年2010年1月から義母が、ひと月遅れの2月から義父が、お世話になることになった。最初は、今まで通り千葉西総合病院へ通院するといい、『在宅医療』に消極的だった父だったが、眼の前で義母を苛原先生が看てくれる様子やしくみに納得と安心をし、自分も一緒に診てもらいたいと自ら手をあげた。そして義両親は、苛原先生の訪問を楽しみにし、身体の痛みや不安を率直に聴いてもらい、先生からの指示や対応を素直に受け入れ、喜んでいた。

ところで、今や、『在宅医療』の設備や仕組みを持っていない医療機関は珍しいほどで、その仕組みや評判も様々だ。『いらはら診療所』にお世話になった義両親の『在宅医療』の場合、基本的に2週間に1度、決められた曜日の時間帯に担当医(義両親の場合は苛原院長)と看護師1名が訪問をしてくれる。そこでは、採血、血圧、検温、聴診器による健康チェックと問診などが行なわれ、治療・処置や処方が下される。定期訪問時以外に、発熱や気分がすぐれなくなった場合、『いらはら診療所』へ連絡すると、担当医か補担当医師が駆けつけ(往診し)てくれる。薬は私が取りに行き、両親に渡す。義両親のように、特別な事態を引き起こす状態や大病を患っていないと診断され、同じ薬をもらうためにだけ、毎月千葉西総合病院へ通い、約9時間近くもかかるより、こうした定期的日常的な対応は、状況やニーズに最適だと義両親も私たち家族も安心した。だがその一方で、大きな総合病院にあるような検査機能や治療機器、そして専門に特化した医師の配置は難しく、検査や治療に限界があること、その1点だけが心配ではあった。しかし、義両親の苛原先生と訪問看護士に対する信頼や、佐々木相談員の訪問チームと私たち家族への誠実なコミュニケーションの数々が、義両親と家族を癒してくれるようで、家族の絆も強まる気がした。

さて、この『いらはら診療所』の苛原先生によると、「『在宅医療』の“質”は、最終的には当事者がそれまでどんな家族関係、友人関係を築いてきたかに左右される。特にもともと夫婦や家族の関係に問題があれば、良質な在宅ケアは望めない。『在宅医療』の“質”は愛情関係で決まる」といい、「心が通い合うためには、率直な語らいが大切で、語らいは、信頼関係を育てる揺藍(ようらん)である」と断言している。今まではテレビの中で観ていた『在宅医療』だが、その現場に身を置く体験もし、信頼のドクターやスタッフとの出会いができた。これが一つの通過点となった今だが、私たち家族がどれほど心の安らいだスタートをできたことか、『在宅医療』に感謝を、っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

義理欠きに貧乏神をだしにする

大の字になれる畳がやはりいい

ご近所に内緒も詰めたゴミ袋

破れ鍋に綴じ蓋で炊く旨い飯

これまでは助走と老いの腕まくり


( ニュースやぶにらみ )

「賜杯なし」
それでも投げずに頑張った −白鵬

「38度、38%」
まだ上がる −気温
まだ下がる −内閣支持率

「トウシュががたがた」
ジャイアンツのことだね −菅首相 

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(140)「これがまあ 終(つい)の栖(すみか)か 雪五尺」

千葉県流山市在住の翁の旧友・熊坂ご夫妻(お二人とも音楽家)のお誘いで、6月下旬に“醤油の街・野田”探訪を行ない、「むらさきの郷を往く」(その1、その2)を書いたが、熊坂さん宅に立ち寄った際、流山の歴史、特に俳人・小林一茶(1763年〜1827年)とミリン醸造創業者の1人と言われる五代目秋元三左衛門(俳号・双樹)の交流や、かの新撰組局長・近藤勇の最後の陣屋が流山に置かれ、ここで捕縛されたなど、翁の歴史好きをくすぐる垂涎のネタに魅かれて“野田”の前に“流山”を書いた。7月4日配信の『龍翁余話』(137)「ミリンと一茶と新撰組」が、それだ。その号の末尾に『・・・ところで、これから先、不思議な因縁が生まれそう。(中略)7月18日に長野県信濃町で熊坂夫人・牧子さん(ソプラノ・オペラ歌手)構成・演出・出演による“被爆ピアノコンサート”が開催される。その取材に行くのだが、何と信濃町は小林一茶の生誕の地なのだ。一茶をもっと知る機会としたい』と結んだ。そし7月17日の午後“一茶の故郷”を訪ねた。 

長野から信越本線直江津(新潟)行きに乗って約30分、長野県と新潟県の県境・栗姫に着く。地名は長野県上水内郡信濃町大字柏原。黒姫という駅名は、北信五岳(斑尾山・飯縄山・戸隠山・黒姫山・妙高山)の1つ“黒姫伝説”の黒姫山(標高2,053m)から名付けられたもの。“黒姫伝説“――戦国時代、この地を支配していた武将・高梨政盛の娘・黒姫と志賀高原の大沼池に棲む龍の恋物語――そんな話より、信濃町一帯は近年、観光地化され、冬季は黒姫高原スノーパークでスキーやスノーボー、春・夏・秋は高原の花見客、野尻湖の(氷河時代の)ナウマンゾウ博物館見学やヨット、フィッシングなどで賑わう一大リゾートになった。だから駅名も、以前は”柏原駅“だったのだが昭和43年(1968年)に”黒姫駅“と改名された。駅そのものの開業は明治21年(1888年)というから古い。駅のホームに降りるや、いきなり”一茶の故郷“が印象づけられる。『やれ打つな蝿が手をする足をする』の句碑が3番線ホームの中ほどに・・・

18日公演の“被爆ピアノコンサート”で熊坂夫人・牧子さんは構成・演出・出演の3役をこなさなければならないので、打ち合わせやリハーサルなどのため(夫妻は)16日から黒姫入りしている。ご主人・良雄さんは、今回は奥さんのアシスタントだから比較的自由時間がある。そこで17日、翁の“一茶散策”にお付き合いをお願いした。というより、翁が黒姫に着く前に、彼は“一茶探訪コース”をロケハン(事前調査)してくれていた。狭い土地とは言え、おかげで実に効率よく巡ることが出来た。大いに感謝である。
駅前の一茶通り商店街を(正面に見える)小丸山公園に向かって)歩く。道端に『雀の子そこのけそこのけお馬が通る』の句碑。ブラブラ歩き10分ほどで小丸山公園。“一茶おもかげ堂(俳諧寺)”(写真左)で足が止まる。

一茶、宝暦13年(1763年)に柏原の農家の長男として生まれるが、3歳の時に生母没し、8歳で継母を迎える。一茶の菩提寺・明専寺の境内(写真右)にある句碑『我と来て遊べや親のない雀』わずか8歳にしてこの句、すでに俳聖の片鱗を見る。10歳で義弟が生まれるが、その後、継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公。奉公時代の資料は(翁の手元には)ないが“おもかげ堂”の、一茶の銅像と並んで立つ句碑『初夢に古郷を見て涙かな』に奉公時代の辛苦のほどが窺える。25歳の時、葛飾派三世・溝口素丸や二六庵竹阿(にろくあん ちくあ)(いずれも江戸中期の俳人)に師事するも瞬く間に(名実共に)両師を超え30歳で俳諧修業の旅に出る。39歳の時に帰郷して父・弥五兵衛の看病にあたるが、その甲斐もなく父、ほどなく没す。

一茶、この頃から江江戸や下総(現在の千葉北部、埼玉東部、東京東部)での活動が頻繁となる。特に千葉・流山のミリン醸造業者・五代目秋元三左衛門(俳号・双樹)との交流(経済支援)を得て俳句会『一茶園』を結成、一茶の名と地位はますます高まる。時に一茶41歳、双樹47歳。以後、双樹・一茶は兄弟以上の親交が続き、一茶自身「流山は我が第二の故郷なり」と言わしむるほどの至福の地だった。しかし、その兄とも慕っていた双樹が没し(享年56)、故郷にあっては義弟との間で遺産相続争いが勃発、一茶、やむなく50歳で故郷での永住を決意し帰省、義弟の屋敷内の離れを住処(すみか)とした。その時に詠んだ句が『是がまあ終の栖か雪五尺』(5尺は約150cm)。遺産相続争いは明専寺の仲介で51歳の時に和解、翌年、28歳のキクと結婚、3男1女をもうけるが、いずれも幼児期に死亡。妻キクも(一茶61歳の時)没した。その後、2度嫁を娶るも安寧は得られず、一茶、いよいよ“家族縁”に恵まれない一生だったようだ。“終の栖”も柏原大火で類焼し、焼け残りの土蔵(写真)で65歳の生涯を閉じる。その間、約2万句も残した一茶だが何故か人間讃歌の句が少なく、苦境の間に学びとった俗語を駆使して、強者への反感と弱者への同情を織りなす人生詩的作風が多い。『ふるさとや寄るもさはるも茨(いばら)花』故郷の人々は皆、トゲのある茨の花のようで、誰も温かく迎えてくれない、と思い込む彼の人生観が寂しい。その分、自然や小動物に情けを寄せたのだろう。『やせ蛙まけるな一茶これにあり』は精一杯の“威張り”だったのかもしれない。“夏蕎麦を 友とすすりて 一茶路(いっさみち)”・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

松居慶子のスムースジャズを聴くとサウスベイで聴いていた"New Wave Jazz"KTWV(84.7MHz)を想い出させてくれます。南カリフォルニアのさわやかな風のように流れてくるジャズがとても好きです。
おそらく今でも、KTWVを聴けば彼女の曲が流れていると思います。
彼女のアルバムはこれまでに2回、ご紹介しています。紹介したいアルバムがいっぱいある中で今回は夏らしい名前のタイトル、"Summer Selection"を選びました。
彼女のアルバムの中ではちょっとおとなしい感じのアルバムですが、彼女の奏でる美しいアコースティックピアノの音色を聴いているとさわやかな気分になれます。

Summer Selection  松居慶子

1 Sail South
2 From My Window
3 Souvenir
4 Mountain Shakedown
5 Moon Light Sailor
6 Rainy Season
7 Secret Forest
8 Midnight Stone
9 Three Silhouettes
10 Garden

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

雑貨屋の編集もiPadのようなモバイル機器を持って出かけ涼しいところでやろうかなと思っています。これはiPadを買う口実です。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.741

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com