龍翁余話(140)「これがまあ 終(つい)の栖(すみか)か 雪五尺」
千葉県流山市在住の翁の旧友・熊坂ご夫妻(お二人とも音楽家)のお誘いで、6月下旬に“醤油の街・野田”探訪を行ない、「むらさきの郷を往く」(その1、その2)を書いたが、熊坂さん宅に立ち寄った際、流山の歴史、特に俳人・小林一茶(1763年〜1827年)とミリン醸造創業者の1人と言われる五代目秋元三左衛門(俳号・双樹)の交流や、かの新撰組局長・近藤勇の最後の陣屋が流山に置かれ、ここで捕縛されたなど、翁の歴史好きをくすぐる垂涎のネタに魅かれて“野田”の前に“流山”を書いた。7月4日配信の『龍翁余話』(137)「ミリンと一茶と新撰組」が、それだ。その号の末尾に『・・・ところで、これから先、不思議な因縁が生まれそう。(中略)7月18日に長野県信濃町で熊坂夫人・牧子さん(ソプラノ・オペラ歌手)構成・演出・出演による“被爆ピアノコンサート”が開催される。その取材に行くのだが、何と信濃町は小林一茶の生誕の地なのだ。一茶をもっと知る機会としたい』と結んだ。そし7月17日の午後“一茶の故郷”を訪ねた。
長野から信越本線直江津(新潟)行きに乗って約30分、長野県と新潟県の県境・栗姫に着く。地名は長野県上水内郡信濃町大字柏原。黒姫という駅名は、北信五岳(斑尾山・飯縄山・戸隠山・黒姫山・妙高山)の1つ“黒姫伝説”の黒姫山(標高2,053m)から名付けられたもの。“黒姫伝説“――戦国時代、この地を支配していた武将・高梨政盛の娘・黒姫と志賀高原の大沼池に棲む龍の恋物語――そんな話より、信濃町一帯は近年、観光地化され、冬季は黒姫高原スノーパークでスキーやスノーボー、春・夏・秋は高原の花見客、野尻湖の(氷河時代の)ナウマンゾウ博物館見学やヨット、フィッシングなどで賑わう一大リゾートになった。だから駅名も、以前は”柏原駅“だったのだが昭和43年(1968年)に”黒姫駅“と改名された。駅そのものの開業は明治21年(1888年)というから古い。駅のホームに降りるや、いきなり”一茶の故郷“が印象づけられる。『やれ打つな蝿が手をする足をする』の句碑が3番線ホームの中ほどに・・・
18日公演の“被爆ピアノコンサート”で熊坂夫人・牧子さんは構成・演出・出演の3役をこなさなければならないので、打ち合わせやリハーサルなどのため(夫妻は)16日から黒姫入りしている。ご主人・良雄さんは、今回は奥さんのアシスタントだから比較的自由時間がある。そこで17日、翁の“一茶散策”にお付き合いをお願いした。というより、翁が黒姫に着く前に、彼は“一茶探訪コース”をロケハン(事前調査)してくれていた。狭い土地とは言え、おかげで実に効率よく巡ることが出来た。大いに感謝である。
駅前の一茶通り商店街を(正面に見える)小丸山公園に向かって)歩く。道端に『雀の子そこのけそこのけお馬が通る』の句碑。ブラブラ歩き10分ほどで小丸山公園。“一茶おもかげ堂(俳諧寺)”(写真左)で足が止まる。
一茶、宝暦13年(1763年)に柏原の農家の長男として生まれるが、3歳の時に生母没し、8歳で継母を迎える。一茶の菩提寺・明専寺の境内(写真右)にある句碑『我と来て遊べや親のない雀』わずか8歳にしてこの句、すでに俳聖の片鱗を見る。10歳で義弟が生まれるが、その後、継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公。奉公時代の資料は(翁の手元には)ないが“おもかげ堂”の、一茶の銅像と並んで立つ句碑『初夢に古郷を見て涙かな』に奉公時代の辛苦のほどが窺える。25歳の時、葛飾派三世・溝口素丸や二六庵竹阿(にろくあん ちくあ)(いずれも江戸中期の俳人)に師事するも瞬く間に(名実共に)両師を超え30歳で俳諧修業の旅に出る。39歳の時に帰郷して父・弥五兵衛の看病にあたるが、その甲斐もなく父、ほどなく没す。
一茶、この頃から江江戸や下総(現在の千葉北部、埼玉東部、東京東部)での活動が頻繁となる。特に千葉・流山のミリン醸造業者・五代目秋元三左衛門(俳号・双樹)との交流(経済支援)を得て俳句会『一茶園』を結成、一茶の名と地位はますます高まる。時に一茶41歳、双樹47歳。以後、双樹・一茶は兄弟以上の親交が続き、一茶自身「流山は我が第二の故郷なり」と言わしむるほどの至福の地だった。しかし、その兄とも慕っていた双樹が没し(享年56)、故郷にあっては義弟との間で遺産相続争いが勃発、一茶、やむなく50歳で故郷での永住を決意し帰省、義弟の屋敷内の離れを住処(すみか)とした。その時に詠んだ句が『是がまあ終の栖か雪五尺』(5尺は約150cm)。遺産相続争いは明専寺の仲介で51歳の時に和解、翌年、28歳のキクと結婚、3男1女をもうけるが、いずれも幼児期に死亡。妻キクも(一茶61歳の時)没した。その後、2度嫁を娶るも安寧は得られず、一茶、いよいよ“家族縁”に恵まれない一生だったようだ。“終の栖”も柏原大火で類焼し、焼け残りの土蔵(写真)で65歳の生涯を閉じる。その間、約2万句も残した一茶だが何故か人間讃歌の句が少なく、苦境の間に学びとった俗語を駆使して、強者への反感と弱者への同情を織りなす人生詩的作風が多い。『ふるさとや寄るもさはるも茨(いばら)花』故郷の人々は皆、トゲのある茨の花のようで、誰も温かく迎えてくれない、と思い込む彼の人生観が寂しい。その分、自然や小動物に情けを寄せたのだろう。『やせ蛙まけるな一茶これにあり』は精一杯の“威張り”だったのかもしれない。“夏蕎麦を 友とすすりて 一茶路(いっさみち)”・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |