龍翁余話(139)「むらさきの郷を往く」(その2・歴史と人情と教育と・・・)
読者のTさんから「醤油を、何故、むらさき、と言うのでしょう?」とのご質問をいただいた。さっそく調べてみた。醤油のルーツは中国の“醤(じゃん)”、奈良時代に日本に伝来し“醤(ひしお)と呼ばれた。鎌倉時代に醤油の元となる調味料”たまり“が出現、室町時代に”醤油“の文字が登場、室町時代の宮中に仕える女房(女官)たちは、やたら『女房詞(にょうぼうことば)』、つまり、上品な言葉(時には隠語)を創り出した。女房詞は100を超えるそうだが、その中に”むらさき“(醤油)が出てくる。どうやら醤油の色(紫)から”むらさき“と呼ぶようになったのでは?それがストレートで分かり易い。念のため『しょうゆ情報センター』(東京・日本橋)に問い合わせたら「昔から紫は高貴な色、醤油の色が紫に近いところから粋な江戸っ子が粋言葉(おしゃれ言葉)で女房詞”むらさき“を使うようになったのでは」という説明に翁も納得。Tさん、それでよろしいですか?
さて、その『むらさきの郷を往く』のだが、“野田醤油”の歴史を辿るほどに、この地の醤油産業がいかに地の利を得て繁栄し、地域と共に生きて来たか、つまり近年はやりの“CSR”(企業の社会的責任=社会貢献)に根ざしてきたかがよく分かる。野田は、関東平野のほぼ中央部に位置し、東の利根川、西の江戸川に挟まれ、大消費地・江戸に運ぶには絶好の交通の便(水運)に恵まれた。そればかりではない、醤油の原料である大豆は常陸の国(茨城県)、小麦は下総台地(千葉県北部)や上州(群馬県)、相模(神奈川県北東部)、塩は当初、行徳の塩(千葉県市川市の南部、江戸川方水路以南に行徳塩田があった)を使っていたが、やがて播磨国(兵庫県南西部)『忠臣蔵―赤穂浪士』で有名な赤穂の塩を使うようになった。更に、江戸川の水質の良さが醤油に適していた、など、何もかもが醤油作りに幸いした。伝承によると、野田醤油の発祥(起源)は永禄年間(1560年頃)というから今から450年前ということになる。江戸時代に入って本格的な醤油醸造が行なわれ、寛政年間(1800年頃)高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油に指定される。明治20年(1887年)に『野田醤油醸造組合』を結成、大正6年(1917年)には茂木一族と高梨一族の8家合同による『野田醤油株式会社』が設立され日本一の“むらさきの郷”となる。これが後の『キッコーマン株式会社』。この時、数社あった野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、もう1つの醤油の名門『キノエネ醤油』は独自の道を選んで今日に至っている。
大正末年に建てられた旧茂木佐平治家の邸宅(写真左)(平成9年に建物全てが登録有形文化財に、また庭園(写真右)は県内初の登録記念物に指定されている)は、昭和31年(1956年)に野田市へ寄贈され、以後、『野田市市民会館』として市民の文化活動や地域活動、いわゆる生涯学習の実践拠点として無料で貸し出している。まさに“CSR”の具現例だ。早速、学芸員の田尻さんのご案内で建物内を見学させていただいた。松・竹・梅・桃・月・雪・柳・楓・藤・菊などの座敷に純日本風の伝統美が守られている一方、当時としては珍しいタイル張りの洗面所、様式のバスタブとシャワー、浴室の壁はベンガラ塗り(ベンガラとはインドのベンガル地方に産する赤色の顔料)、天井は網代貼り(斜め45度に長方形の石を貼った形)、玄関や廊下の照明に近代的なほどこしが見られ、まさに明治・大正・昭和のモダンなロマンが漂う雰囲気だ。庭を背景に廊下(写真中)にテレビを置き、座敷に座る吉永小百合の“アクオス”(シャープ)のCM撮影が、ここで行なわれたそうだ。この廊下、半間は畳、半間は板の間、来客が多いので座敷に入りきれず、1間廊下に拡張したとのこと。このほか勝手・台所・かまどなども見せて貰った。土間の一画が下台所、上の板の間が上台所。そこにはまな板と飯台が兼用となっている大きな調理台、床板の1つを外すと地下への階段があり、床下は広い貯蔵庫となっている。一床、一柱、一窓のそこかしこから茂木佐平治家の往年の栄華と格式が偲ばれる見学であった。
キッコーマン本社(写真左)の隣に、ロマネスク(ローマ風)建築の『興風会館』(国指定登録文化財)(写真中)がある。昭和4年(1929年)の竣工時は、千葉県庁庁舎に次ぐ大建築だったそうだ。茂木・高梨一族は「これまでの会社の発展は地域社会のおかげ、会社は地域社会の恩に報いなければならない」という考えに立ち、「愛する野田の街に新しい風を興していこう」ということで昭和3年(1928年)に財団法人興風会を設立した。前記『旧茂木佐邸』開放以前の“CSR”(企業の社会貢献)の実践である。庶務主任の大高さんにご案内とご説明をいただいた。興風会の主な事業テーマは3つ――奨学金(無利子貸付)の育英事業、市教育委員会との連携で優秀教員・勇退校長、優良児童生徒、体育功労者、優秀選手等の表彰を行なうほか、青少年の健全育成を地域ぐるみで推進する義務教育振興事業、建物の中の施設・ホール(652席)(写真右)、小講堂、会議室、和室、地下ギャラリーなどを開放し、教育委員会や社会教育・社会福祉団体等と協力してさまざまな生涯学習(社会強化事業)を推進している。その日、たまたま地下のギャラリーで“野田美術会小品展”
が開かれていた。そこに集う人たち、皆、明るい笑顔に満ちていた。翁も署名に応じた。
油の街・野田を代表するもう1つの名門・天保元年(1830年)創業の『キノエネ醤油』。
正門脇の伝統的木造建築の本社屋は明治30年(1897年)築。正面1階に事務所(写真左)、主屋は2階建て切妻造(写真中)、道沿いに続く黒塀に醤油の街の歴史の重みを感じる。敷地総面積33,700平方m、建物面積18,000平方m、それだけでも野球場のグラウンド(平均13,000平方m)よりはるかに広い。正面の工場(写真右)は大正10年(1921年)竣工で鉄筋コンクリート造りとしては野田市では最古のものではないだろうか。主屋といい工場の建物といい、黒塀といい、どれもが有形文化財に値する重要な歴史建造物、ということで2007年に『キノエネ醤油工場群』が国から“近代化産業遺産(館)”に認定された。
実は今回“野田訪問”の楽しみの1つに『キノエネ醤油』の山下和子会長にお会いすることがあった。ご案内いただいた友人・熊坂良雄さんの奥さん(牧子さん)と山下会長とは親しい間柄。数年前、山下さんが野田市のロータリークラブ(国際的な社会奉仕連合団体)の会長、同じ時期に牧子さんが流山市の同会長で、それ以来のお付き合いだそうだ。その牧子さんから「山下会長は、映画監督・小津安二郎さんの姪御さん」ということを耳にしていた。だから山下さんにお目にかかりたかった。
翁の映像製作はドキュメンタリーが主だったから被写体は役者ではない。相手は人間の時もあるが動物や自然が多かったから演出家(翁)の指示には従わないし、いついなくなるかも分からない、だから撮影は極めて忙しく構図決めも荒っぽくなる。ジャーナリスティック映像ではあっても芸術とは程遠い映像だった。しかし翁は本来、小津監督の落ち着いた画面づくり(ローポジションとフィックスの基本)を範としていた。小津映像のような深みのある作品を創りたかった。その憧れの小津監督と山下さんが叔父・姪の関係・・・「叔父は相手の身になって話をされる温か味のある人でした。母(小津監督の妹)も兄(小津監督)を慕っていました」・・・“誠実・責任・具体的行動目標“の社訓を掲げ、ご子息(山下博之社長)と共に創業180年の重い歴史を背負いながら社業の指揮をとるトップ経営者とは思えない温厚で物静かな山下さん、いつかこの人と伝統について、もの造りについて、人創りについて、そして小津安二郎監督についてゆっくり語り合いたい。ともあれ、熊坂夫妻にお世話になった『むらさきの郷』は、歴史の町、人情の町、教育の町、CSRの町、そして再び訪れたい町であった・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |