龍翁余話(530)「鬼平ゆかりの雑司ケ谷鬼子母神」(拡大版)
翁、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』『雲霧仁左衛門』などを読んだが、もう一度読み返したいのは『鬼平犯科帳』。何故なら、鬼平こと長谷川平蔵(火付盗賊改方長官)は実在した人物だから、歴史好きの翁にとっては一層興味深い。長谷川平蔵とは旗本(徳川将軍家直属の家臣)親子孫三代の通称。「鬼平犯科帳」のモデルの平蔵(1745年〜1795年)は諱(いみな)を宣以(のぶため)と言い、父親・長谷川宣雄(初代・平蔵=火付盗賊改方長官・京都町奉行)の長男。宣雄死去後、宣以は31歳で家督を継ぎ、御書院番士(将軍世子の警護役)を振り出しに出世街道を歩み、1787年(天明7年)9月、42歳で火付盗賊改方長官に就任。時の将軍は第10代・家治(第8代・吉宗の孫、第9代・家重の子)。小説『鬼平犯科帳』はここから始まる。
さて翁、かねてより『鬼平犯科帳』に度々登場する『雑司ケ谷鬼子母神堂』の参詣を目論んでいたが(6月26日の鬼平の命日を前にして)やっとそれが実現した。アクセスはJR「池袋駅」から徒歩約20分、東京メトロ副都心線「雑司が谷駅」から約5分、都電荒川線「鬼子母神前駅」から約3分とあるが、結局、翁は池袋から副都心線を利用した。
ケヤキ並木道(写真左)の参道に入ると雰囲気は、はや『鬼平犯科帳』の世界。ひときわ目を引くケヤキの巨木は樹齢約600年(写真中)。その巨木の前の「案内処」(写真右)に飛び込んだ。ボランティアらしき年配の女性スタッフ2人が翁を快く迎えてくれた。翁は早速(『鬼平』に度々登場する)当時の料理茶屋について訊いた。「確かに往時の参道両側には“茗荷屋”“蝶屋”“武蔵屋”などの料理茶屋が立ち並んで大いに賑わったそうですが、実在した料理茶屋で建物が残っているのは『蝶屋』だけ。ここ(案内処)がその『蝶屋』の跡です」偶然だが、いい処(ところ)に飛び込んだものだ。「往時を偲ぶ物がありますか?」の問いに、スタッフの1人が裏へ案内してくれた。(スタッフは)蔦かずらに覆わ れ厳重に木蓋で密閉されている四角い箇所を指さし「これが唯一残されている(往時の)“蝶屋の井戸”です」(写真左)。「鬼平が、この蝶屋に立ち寄ったという記録は?」の問いにスタッフは「いいえ、それはありませんが池波正太郎先生が取材にお見えになったという話は(前任者から)聞いております」
翁が満足出来る答えだった。2人のスタッフに丁重にお礼を述べ、『案内処』を辞した。
ケヤキ並木道が途切れて左の遠くに『雑司ケ谷鬼子母神堂』の拝殿が見える(上写真左)境内に入ると、すぐ左側に『子授けイチョウ』の巨木(樹齢約700年、周囲約.7m、高さ約33m)(上写真中)と『武芳稲荷堂』(食物・農業・商業の神=この土地の地主神)(上写真右)、【『百度石』(下写真中)などが『雑司ケ谷鬼子母神堂』の歴史の深さを偲ばせる。
(『百度石』と郷土玩具『すすきみみずく』(下写真右)の話は後述)。
まずは拝殿(写真下左)にて参拝。『鬼子母神』だから“神社”だと思いがちだが、実は“お寺”だ。拝殿の住職詰め所にいた住職に説明を受けた。「近くに法明寺という日蓮宗のお寺があって、そこが本院、この鬼子母神は法明寺の飛び地境内に建立されているので子院。1664年(寛文4年)、加賀藩第2代藩主・前田利常の娘・満姫(広島藩主・浅野光晟の正室)の寄進によって本殿が創建され、1700年(元禄13年)に拝殿が建立された。以後、関東大震災や大東亜戦争にも被災せず、建物は既に300年を超えている。2016年に国の重要文化財に指定された」(建築様式について専門的説明があったが翁、メモを取らなかった)。
「そもそも鬼子母神とは」の問いに住職は答えた「その昔、千人の子を持ち、その子たちを育てるために他人の子を殺し食べていた鬼子母神と言う鬼女がいた。お釈迦様がその鬼女の悪行を戒めようと、千人の子のうち(鬼女が最も愛していた)末っ子を隠した。鬼女は半狂乱となって世界中を探し回ったが見つからず嘆き悲しんだ。お釈迦様が諭した。“お前は千人の子のうち1人欠けても悲嘆している。ならば、他人様の(少ない)子を殺せば、その親たちがどんなに悲しみ苦しむか、お前にも分かっただろう”・・・そこで鬼女は改心し三宝(さんぽう=仏・法・僧)に帰依することを(お釈迦様に)誓い、許されて正式に仏教徒となり、安産・子育ての仏(神)となった」・・・とかく宗教上の謂れは我々の常識を超えるものが多いが、こんな場所(拝殿)で聞くと素直に聴き入れられるから不思議だ。
ところで、拝殿の端のお札売り場に郷土玩具『すすきみみずく』も売られている。その謂れは「昔、おくめと言う娘が母親と2人で貧乏暮らしをしていた。ある日、母親が病に倒れ、薬を買う金も無く、途方にくれて鬼子母神に祈り『百度石』と『鬼子母神堂』との“お百度参り”を毎日続けていた。するとある時、“ススキでミミズクを作り、参詣客に売りなさい”との鬼子母神のお告げがあって、それを実行したら、それが飛ぶように売れて薬を買うお金も出来、以後、母子は幸せに暮らした」――(鬼子母神ご利益物語の1つ)。
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境内の中で翁が最も興味関心を持ったのは、境内の中ほどにある古ぼけた駄菓子屋(写真)。店名は『上川口屋』、創業は今から237年前の1781年(天明元年)、当初は『飴屋』だったそうだ。ところで長谷川平蔵が火盗改め長官に就任したのが1787年だから、当然(鬼平も)参詣の折り、この『上川口屋』の前を通ったことになるが「店に立ち寄ったかどうか」を現在の主人・内山雅子さん(13代目、78歳)に訊ねたところ「この店で飴をお買いになったかどうか分かりませんが、多くの大名や幕臣たちがお参りになっているので平蔵さんもきっとこの前を通って参拝されたと思います」。そして内山さん、誇らしげにこう言った「池波正太郎先生はお見えになりました」・・・それを聞いて翁は満足、何故なら、翁には池波先生と鬼平が重なっているから。ちなみに現在の店舗は関東大震災や大東亜戦争の戦火を免れた幕末の建物。扱い商品は数百種の、いずれも“昔懐かしい駄菓子”ばかり。数人の参拝客が「スルメや黄粉飴などあれもこれも」と沢山買っていたが、お代は500円前後、翁も“都こんぶ”“ココアシガレット”をそれぞれ2個ずつ買い求めた。代金は何と200円で20数円のお釣りが来た。まさに昭和の良き時代(庶民的風物詩)が、そこにあった。

『雑司ケ谷鬼子母神堂』の裏手に鎮座する『北辰妙見大菩薩堂』(妙見さん=国土安穏・五穀豊穣・除災招福・開運隆昌の守護神)にも参拝。自分の除災祈願と同時に長谷川平蔵(1795年6月26日が命日)と作者・池波正太郎(1990年5月3日が命日)のご冥福を祈った。“鬼平ゆかり”の実跡を確認することは出来なかったが『鬼平犯科帳』に度々登場する場所を訪ねたことは(池波文学ファンの)翁にとっては、まことに満足の参詣であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |