龍翁余話(529)「明治神宮の花菖蒲」
今年は明治150年――明治神宮参拝を兼ね、今が盛りの『花菖蒲』を観るため、久しぶりに神宮の玉砂利を踏んだ。参道の両側に石畳み風の歩道があるのに、わざわざ歩きにくい玉砂利を歩いた。辞典(大辞林)によると『玉砂利』とは「日本建築に多く見られる庭などに敷く小石のことで、色は白・黒・五色石など用途によって使い分ける」と説明しているが、これでは味気無いので(もっと深い意味はないか、と思い)翁たちのグループ“シニア会”の1人・元高校教師に訊いたところ、彼いわく「玉砂利の玉は“御霊(みたま)”に通じ、また“玉のような赤ちゃん”と言うように、無垢で清らかな様(さま)を表す。砂利は『君が代』の歌詞の中にある細石(さざれいし=霊石)のこと。それらの小石が、いずれは常盤(ときわ=永久不変の磐)となって世に平和と繁栄をもたらす。また、霊石を踏む人々は心が鎮まり安寧を招く」・・・(かなり無理がある解釈に思えるが)翁はその説に納得して明治神宮の広くて長い参道を歩いた。霊石もさることながら、70万uに及ぶ神宮の森の霊気が翁の心身を浄化してくれる。パワースポットとはこのことだろうか。
JR原宿駅側(南参道)の第1鳥居をくぐり5分ほど歩くと『明治神宮御苑』入り口がある。入苑料500円を払って苑内へ。細い坂道を下ると左側に『四阿(あずまや)』があり、そこから『南池(なんち)』(約8300uの蓮池)が始まる(写真左)。蓮池に沿って歩くと右側に一見、茶室風の数寄屋造りの建物が威風を放っている(写真右)。それも道理、ここは明治天皇(1852年〜1912年)が御妃・昭憲皇后(1849年〜1914年)のために建造した皇后の御休息所『隔雲亭(かくうんてい)』(但し、戦時中、戦火で焼失、現存の建物は昭和33年に建て替えられたもの)。『隔雲亭』から見下ろす『南池』の四季折々の自然美に、病弱だった昭憲皇后の御心身は、どんなにか癒されたことだろう。7月から9月にかけてはスイレンの花が見頃だそうだ。『南池』を進むと直ぐ『花菖蒲田』に辿り着く(写真下)。
実は、翁は(今まで)ショウブもアヤメも同じ物だと思い込んでいた。何故ならショウブもアヤメも漢字で書くと“菖蒲”だし同じアヤメ科。花を観ても翁には見分けがつかない。ところが(前出の元高校教師の話によると)どうやらショウブとアヤメは親族かも知れないが別物のようだ。もう1つ分からないのがカキツバタ。これもアヤメ科だからややこしい。「いずれがアヤメかカキツバタ」と言う故事がある。「どちらも優れていて選択に迷う」のたとえ。所詮、植物の名に疎い翁「今更見分ける必要もない、ショウブだろうがアヤメだろうがカキツバタだろうが、美しいものは美しい、それでいいではないか」、そう開き直りながら『花菖蒲』を鑑賞した。これほどじっくり(丁寧に)『花菖蒲』を鑑賞したのは、初めてかもしれない。古風な花姿の中に“優しさ・優雅・信頼”の花言葉を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
『花菖蒲田』の奥に『清正井』(きよまさいど)がある(写真左・中)。約22万坪もある広大な神域は、江戸時代初期は肥後熊本藩の初代藩主・加藤清正家の別邸で、この井戸は清正が掘ったと言い伝えられている。四季を通じて15℃前後の湧水だ。その後、彦根藩主・井伊家の下屋敷となり、明治7年に井伊家から明治新政府が買い上げ“御料地”(皇室の土地)とした。昭憲皇后(明治天皇崩御の後、皇太后となる)は、こよなくこの地を愛し幾度となくお出ましになられたと記録されている。1912年(明治45年)7月30日に明治天皇崩御(宝算59)、1914年(大正3年)4月9日に昭憲皇太后崩御(享年64)。両陛下の墓所は京都伏見桃山陵だが、立憲君主国家の初の明治天皇・皇后両陛下を永遠にお祀りしたいという東京市民の崇敬の情熱が全国に広がり、全国青年団の勤労奉仕によって神宮建設(造園整備)が行なわれた。現在の森の樹木も全国から約10万本が献木されたそうだ。
『南池』、『花菖蒲田』、『清正井』のあと(順序が逆になったが)、ツツジ山を抜けて北門から正参道に出、正月と秋に行なわれる“手数入り”(でずいり=横綱の土俵入り)が行なわれる拝殿前広場を通って本殿(拝殿)にて参拝。拝殿の左前、注連縄(しめなわ)が掛けられた2本の御神木『夫婦楠』(樹齢約1000年、樹高約25m)の周りにも大勢の参拝客が盛んにカメラ(スマホ)を向けていた。ここもパワースポットの1つだろう。
【うつせみの 代々木の里は静かにて 都のほかの 心地こそすれ】(明治天皇御製)―― 畏れ多いことながら、翁もまさに“都のほかの心地”で久しぶりに心身が洗われた3時間の霊境の散策であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |