龍翁余話(352)「73年目の真珠湾」(拡大版)
翁が毎年ハワイ・オアフ島を訪れるようになって30数年、その間、パールハーバー(真珠湾)に足を運んだのは7回を数える。何故、たびたびの真珠湾か?(当然)真珠湾に対する翁なりの思いがあるのだが、それは後に述べることにして、今年もまた行って来た。「73年目の真珠湾」へ、8回目の訪問である。
今更、ハワイの紹介をするまでもないが、ハワイ諸島はハワイ島・マウイ島・オアフ島・カウアイ島・モロカイ島・ラナイ島・ニイハウ島(1863年代、カメハメハ5世から譲り受けたと言われるスコットランド人ロビンソン一家の所有地)・カホオラウエ島(かつての米軍演習地、多数の不発弾が残っているため現在は無人島だとか)の8つの島と100以上の小島からなる。州都ホノルル市があるオアフ島は太平洋の中心に位置し、島の各所の港は優れた天然の要塞であるところから、米国は1898年にハワイ(共和国)を併合、米自治領ハワイ準州とし、翌1899年にパールハーバーに海軍基地を置いて太平洋防衛の主要軍港とした。この年以降に米国はオアフ島をはじめ諸島に陸軍・海軍の重要基地を置き、飛行場、砲台などを設置し完璧な防備態勢を敷いた(米国がハワイを第50番目の州としたのは1959年)。
さて、1941年(昭和16年)12月7日(日曜日)の朝7時50分(ハワイ時間)、突如、日の丸機がパールハーバーをはじめオアフ島全島に襲いかかった。太平洋戦争(大東亜戦争)の開幕である。何故、日本が米英を相手に戦争に踏み切ったか、その理由については多くの戦史学者による(異なる)太平洋戦争(大東亜戦争)観に委ねることにして、翁は改めて『真珠湾攻撃の概要』をおさらいしてみることにする。
南雲忠一中将(司令長官)率いる艦隊(350機を搭載した航空母艦6、戦艦2、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦9、特殊潜航艇5、潜水艦3、油槽船7)は、1941年11月26日(日本の北方領土)エトロフ島の単冠湾を出航、しかし、その時はまだ政府は“ハワイ攻撃”を決定していなかった。12月1日の御前会議で正式に“ハワイ攻撃命令”が下る。あの有名な暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(日本時間12月8日攻撃を開始せよ)である。ニイタカヤマ(新高山)とは当時、日本領土であった台湾の中央部に位置する現在の玉山(3,952m)のこと。(戦争回避で攻撃中止の場合の電文も用意されていたそうだ。)日付変更線を越えて、4000マイル(約6,440km)を探知されずに航海した日本海軍は約12日間かけてオアフ島の北230マイル(約370km)の地点に到着、第1波攻撃は空母から183機が飛び立ち午前7:50にオアフ島攻撃を開始した。
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日本戦闘機“零銭”(航空博物館) |
第1波オアフ島攻撃と炎上する“アリゾナ号”(真珠湾博物館) |
真珠湾博物館が発行している『オアフ島戦記』によると、日本軍のオアフ島攻撃は、まずは米軍飛行基地攻撃から始まる。オアフ島内陸部のウイーラー飛行場(53機破壊)、西南のエヴァ飛行場(33機破壊)、東側のベローズ飛行場(数機破壊)、カネオヘ海軍飛行場(33機破壊)、そして真珠湾に浮かぶアリゾナ、オクラホマ、ユタなどへの戦艦攻撃と同時に湾の右側にあるヒッカム飛行場(18機破壊)、これらの航空基地攻撃によって日本機への迎撃を完全に不能にしたのだ。攻撃を受けた各飛行場での死者は、当時のオアフ島における陸軍航空隊(パイロット)の75%に当たる182人と記録されている。以上が『オアフ島戦記』の概要である。そう、『真珠湾攻撃』は、実はオアフ島全島に点在する米軍航空基地攻撃も主要戦略だったのである。
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終戦調印式を行なった戦艦ミズーリ号(左)と真珠湾攻撃で撃沈されたアリゾナ号(記念館)(右) |
パールハーバー・ビジターセンターで、真珠湾攻撃概要の映画『追悼・栄誉・理解』(日本を極端に敵視するようなナレーションは無いので、客観的に鑑賞出来る)を観てボートで『USSアリゾナ記念館』へ行く。この記念館は日本軍の攻撃で死亡した『戦艦アリゾナ号』の乗組員1177人を追悼するとともに真珠湾攻撃そのものを記憶する施設でもある。この施設は、沈没した『戦艦アリゾナ号』(全長185m、全幅32m、排水量36・5トン、砲台48門)の真上に建設されており、海底に沈むアリゾナ号の残骸や砲台を見ることが出来る。
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45口径35・6cm砲?砲台の残骸と海底に沈む『戦艦アリゾナ号』の船体の1部 |
さて、冒頭で「何故、たびたびの真珠湾か?(当然)真珠湾に対する翁なりの思いがある」と述べた。これまでは確かに(戦没者への)慰霊・鎮魂の訪問ではあったが今年は何故か“真珠湾攻撃に対する昭和天皇“に触れたくなった。現地(真珠湾)で昭和天皇の御心を感じたかったのだ。今年の9月に宮内庁が発表した『昭和天皇実録』(時事通信の記事)によると、真珠湾攻撃前の御前会議で天皇は「アメリカとの戦争は無謀であり自滅的な戦争だ」と軍の開戦論に批判的な心情を抱かれていた、と言う。更に、昭和天皇は御前会議の席上で、平和を希求する明治天皇の御製<よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ>(四方の海にある国々は、みな兄弟姉妹と思う世に、なぜ波風を騒ぎ立てるのであろう)を詠み上げられたと言う。当時の政府(東条英機内閣)は、昭和天皇の“真珠湾攻撃反対、戦争回避の道を探れ”の大身心を知りながら、もはや、その時の日本の国情は“無謀承知の上、日本国と日本民族の生死を賭けた開戦への道”を選択しなければならない極限状態にあった、と考えるべきだろうか。
ここで翁は1冊の本を紹介したい。その本とは、1946年にGHQ(連合国最高司令官総司令部)の諮問機関“労働諮問委員会”のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった米国の東洋学研究者ヘレン・ミアーズ(1900年〜1989年)が著した『アメリカの鏡・日本』(2006年)である。ヘレンはこの本の中で「戦中の国際政治問題は“道義的かどうか”ではなく“合法的かどうか”が問題とされていた。戦後になって日本の韓国併合や満州事変も含め”道義的責任“を追及することは極めて偽善である」また「日本人は世界を征服する野望にとらわれていたのではなく、世界のどこの国にも征服されたくないという自尊・自立の精神に動かされたのだ」と述べていることに(翁は)ことのほか共感を覚える。とは言え、翁は大東亜戦争を無条件で肯定(正当視)しようとするのではない。戦争がいかに愚かで不毛であるかは論をまたない。『アリゾナ記念館』に刻まれている乗組員1177人の名簿の前で合掌し、基金箱に10ドル入れることくらいで73年前の贖罪になろうとは思わないが「73年目の真珠湾」で昭和天皇の大身心と日本の歩みを振り返り”平和“を祈ることは、それなりに意義があるのではないか、と思っての8回目の真珠湾訪問であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |