龍翁余話(335)「熊本城」(拡大版)
先月(6月)中旬に法事で(故郷の大分県へ)帰省した際、梅雨の合間を縫って熊本城へ行った。ドライブ好きな翁、帰省のたびに大分県内は勿論、九州のあちこちに車を走らせている。熊本と言えば、小国、阿蘇、玉名、山鹿、菊池、植木(田原坂)、八代、水俣、天草などへは訪れたことがあるのだが、どういう訳か、これまでに熊本市街地・熊本城には行ったことがなかった。そこで今回の帰省中に何とか“熊本城参観”を実現したいと計画していた。熊本城とは、安土桃山時代の末期から江戸時代の初期にかけて、槍の武将・石垣造りの名人と謳われた加藤清正が築城した梯郭式平山城である。熊本城を『余話』で取り上げる確たる理由もタイムリー性もないのだが、初めて目の当たりにした、そのあまりの美しさ、その雄姿に圧倒された翁の感動を、何とか(読者各位と)分かち合いたいと思い“熊本城初参観記”を書くことにした。
熊本城――中世(鎌倉時代〜室町時代〜安土桃山時代)、当時のこの地の支配者たちによって築かれていた千葉城・隈本城を、安土桃山時代(1568年 信長の入京から1598年秀吉の死まで)の末期に加藤清正が入府して以来、これらの城を取り込み、現在のような熊本城を築いた。したがって、それまでの“隈本”を“熊本”に改称したのは清正である、と言われている。清正は豊臣秀吉の子飼いで、秀吉の命を受け(『余話』333号で紹介した『軍師官兵衛』こと黒田官兵衛と共に)九州征伐で武功を挙げ、肥後北半国(19万5千石)を与えられ熊本城を居城とした(黒田官兵衛は豊前国6郡16万石=中津藩を与えられた)。秀吉没後、実戦派(武将)の清正は、もう1人の秀吉の腹心(茶坊主とも言われていた)理論派の石田三成とことごとく対立、同じ実戦派の福島正則や浅野幸長ら6将と共に“三成暗殺”をこころみるも失敗、以後、清正は(福島らと共に)徳川家康に接近し、やがて家臣となる。関ヶ原の戦い(1600年)では当然、東軍(徳川軍)に味方し、その功績によって肥後1国(熊本全域=54万石)を与えられ、初代肥後熊本藩主となる。その直後から、清正は熊本城の再築を手掛け、現在のような雄姿を築き上げた。“清正流(せいしょうりゅう)”と呼ばれる石垣の上に御殿・大小天守閣・五階槽などを詰め込んだ築城方式は独特で、日本三名城の1つとされている。細川氏の居城となった後も増改築が行われ、明治の初めまでは大半の建物が存在したが、1877年(明治10年)の西南戦争で天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。だが、戦火を免れた宇土櫓(うとやぐら)をはじめとする11棟の櫓、不開門(あかずのもん)、長塀(ながべい)が国の重要文化財に、城跡は特別史跡に指定されている。また、有名な「武者返し」の手法を駆使した石垣の遺構も多い。大・小天守閣のほか本丸御殿の大広間も復元された。それでは不開門、本丸御殿、大天守閣、宇土櫓など、老体に鞭打って短時間で動き回った“駈け足取材”の概要を紹介することにしよう。
熊本城は、城域の周囲が約5.3km、面積約98haの広大さで難攻不落の城として有名だ。
築城当時、様々な形式の門が29もあったそうだが、現在は4か所。案内パンフによると、メインの入り口は『頬当御門(ほほあてごもん)』、本丸を顔に見立てると、この門は頬の部分に位置するのでその名がついたとか。本丸の南側に造られた『須戸口門(すどぐちもん)』は戦闘用の門だから有事の際のみ開門した。城の南西にある『櫨方門(はぜかたもん)』は市街地に近いので今は市民がよく利用するそうだ。もう1つが国の重要文化財『不開門』、城の鬼門とされる北東に位置し(当時)普段は閉ざしたまま、不浄な物を運ぶ時だけ開門したとのこと(現在は通常でも“開門”である)。翁はこの『不開門』から入った。
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不開門 |
闇り通路 |
本丸御殿(後方は天守閣=HPより) |
本丸御殿へ行く途中に、坑道のような薄暗い不気味な通路がある。これは『闇り通路(くらがりつうろ)』と呼ばれ、本丸御殿へ行くための正式な通路で、このような地下通路を持つ御殿建築は全国的にも例を見ないそうだ。
『本丸御殿』は、城郭の中で天守閣と同じくらい中心をなす建物で、藩主の居間、大広間(接見の間)、数寄屋(茶室)、大台所などの多くの部屋があり、その中で、翁が特に瞠目したのは『若松之間』(藩主の居間)と『昭君之間(しょうくんのま)』(藩主が賓客と対面する部屋)、それらは正に“美術館”そのものだ。
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若松之間 |
「竹林七賢・高士図屏風」 |
『若松之間』は名前の通り床の間や襖などに若松の絵が描かれている。『若松之間』の手前の部屋(確か『鶴の間』だったか)に重要文化財『竹林七賢(ちくりんしちけん)図屏風』が展示されている。江戸時代中期に活躍した絵師・狩野周信(かのうちかのぶ)の作で、昨年10月に、市内在住の岡本さんという老婦人から寄贈されたそうだ。“竹林七賢”とは、中国晋の時代(265年〜420年)、竹林で琴と酒を楽しみ、清談に耽った七人の賢者のこと。清談とは世俗を離れ、老荘思想(老子・荘子の思想の根本は“道”であり、その“道”は“天“と同義)を題材とする幽玄な哲学的論議を交わすことだそうだ。その屏風絵に見入っていると、不思議なことに翁もまた七賢になったような錯覚を覚える。
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昭君之間 |
昭君之間の天井絵 |
『昭君之間』は(案内板によると)熊本城の中で一番格式の高い部屋(書院造り=書院・書斎を中心にした典型的な武家住宅形式)、広さは18畳、床壁や襖に(本丸御殿の御用絵師の1人だった)狩野言信(かのうときのぶ)が中国の故事“王昭君(おうしょうくん)の物語”をモチーフにして描いた極彩色の障壁画が素晴らしい。王昭君とは古代中国の(楊貴妃ら)4大美人の1人で京劇などの演目でも有名。「この部屋は、最初は将軍(秀吉の子・秀頼)を迎えるための部屋でしたが、それが叶わず“将軍の間(しょうぐんのま)”ならぬ“昭君の間(しょうくんのま)”になった、と言い伝えられています」とは、この場にいた学芸員の話。なお漆塗りの折上げ格天井には、四季折々の草花の絵が60枚貼り付けられていて、これも貴重な文化財の絵画である。
熊本城の、もう1つの見どころは『武者返しの石垣』だ。下部は緩やかな傾斜、上部に向かうほど急な角度になる独特の造り。普通の武者は勿論、忍者といえども容易に上ることが出来ず、引き返さなければならなかったところから『武者返しの石垣』と呼ばれるようになった。反り返りの曲線が美しく、いつまでも眺めていて飽きない。この『武者返しの石垣』は城内数か所に昔のまま現存している。(左写真の)石垣の向こうに見えるのが『大天守閣』、巧みに積み上げられた石垣の上にどっしりと立つ(外観3層内部6階地下1階の)『大天守閣』の最上階からは、晴れた日は阿蘇の山並みが一望出来るそうだが、あいにく当日は曇り空で阿蘇連山は見えなかったが、路面電車が行き交う熊本市街地は見渡せた。
『大天守閣』の中は(その日は)各階に工事業者が入っていて落ち着かなかったが、1階は加藤家時代、2階は細川家時代の刀剣類・甲冑、歴史パネル、3階は西南戦争時の砲弾や関連資料が展示されていて西郷隆盛ファンの翁にとっては何故か物悲しい空間であった。
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『宇土櫓』後方に天守閣、右端に『頬当御門』 |
『宇土櫓』の石落とし・鉄砲狭間 |
さて、熊本城には“第3の天守閣”があると言われている。それが『宇土櫓』(国の重要文化財)である。本丸の西北の隅、メイン門『頬当御門』の左端、高さ20mの石垣の上に立つ3層5階、地下1階の櫓。これも勿論、加藤清正が建てたもので、西南戦争の火の手を逃れ、建立当時の姿を今に残す貴重な木造櫓(国の重要文化財)である。なお、1階(石垣の直ぐ上)の四方には“石落とし”や鉄砲を撃つ狭間(小さな窓)、矢狭間が配置され、敵襲から城を護るための厳しい臨戦態勢を窺い知ることが出来る。
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現存する城郭の塀の中で最長(242m)を誇る『長塀』(国の重要文化財)(HPより) |
熊本城には、まだまだ見どころが沢山ある。再び参観する機会があれば、国の重要文化財『長塀』、数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)、天守閣を思わせる『飯田丸五階櫓』(いいだまるごかいやぐら)などを是非とも観たいのと(武将・清正だけでなく)農業政策で実績を挙げ領民から敬愛された“清正公(せいしょうこう)さん”の名藩主ぶりを掘り下げてみたい。なお、熊本でもう1人“会いたい人物”がいる。ご存知、剣豪・宮本武蔵だ。武蔵は晩年(1640年)、肥後藩主細川忠利の招きで小倉(現・北九州市小倉区)から客分として熊本城隣接の地に移り住み300石の待遇を得て細川藩の剣術・兵法指南を務めた。その足跡を辿りたくて『不開門』を出る時、守衛に「武蔵の住居跡」を訊ねたら「NHK熊本放送局の鉄塔の麓に木製の標柱が建っているだけ」と言われ腰が引けた。折しも雨が強くなったので今回は諦めたが、再訪の機会があれば“熊本の(晩年の)武蔵”を追いたい欲求だけは失せなかった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |