龍翁余話(330)「伊香保を愛した文化人」(2)(竹久夢二編)(超拡大版)
前号の『龍翁余話』(329)「伊香保を愛した文化人」(1)(徳富蘆花編)で、【翁が伊香保を知ったのは、学生時代に徳富蘆花の「上州・伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は一八九・・・」の書き出しで始まる『不如帰』を読んだ時だった。その時“俺もいつか伊香保を舞台に『不如帰』のような小説を書きたい”と思ったものだが、その夢は果たせず、60年も過ぎた今日、ようやくこの地を訪れることが出来た。小説ならぬエッセイ『龍翁余話』執筆のためである】と記した。更に【明治以降に伊香保を訪れた文化人は徳富蘆花、与謝野晶子、竹久夢二、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情、山田耕筰、北原白秋、芥川龍之介、志賀直哉、菊池寛、直木三十五、谷崎純一郎、田山花袋など枚挙にいとまがない。彼ら(文化人)が愛した伊香保とは、どんな温泉地かを述べるのが文章構成の順序だろうが、翁にはそれを論ずる知識も体験もなく、また、翁が、伊香保で小説を書く夢が破れてもなお伊香保行きを希望していたのは“温泉”ではなく“伊香保を愛した文化人”たちの息吹に触れてみたいという願いを持ち続けていたからだ。そこで今回は、現在もなお伊香保で生き続けている(翁が憧れてやまない文化人)徳富蘆花と竹久夢二にターゲットを絞ることにした】とも書いた。
白状すると、徳富蘆花に関しては多少の知識はあったが、絵画に造詣の浅い翁は竹久夢二については“『黒船屋』(黒猫を抱く美女)を代表とする美人画の天才”、“『宵待草』の作詩者”くらいの知識しか持っていなかった。しかし“現在もなお伊香保で生き続けている文化人”と言えば(翁が知る限り)徳富蘆花と竹久夢二の2人だ。ならば、今回の伊香保取材目的は、蘆花(『徳富蘆花記念文学館』)と夢二(『竹久夢二伊香保記念館』)に絞ろうと考え、(今年の正月に伊香保行きを決めて以後)“竹久夢二に関する俄か学習”を始めた。したがって前述の「翁が憧れてやまない文化人」は(蘆花に関してはその通りだが)夢二に対しては(伊香保行きを思い立った当時は)正直、まだ「憧れてやまない文化人」ではなかったのである。
(資料によると)竹久夢二は1884年(明治17年)9月16日、岡山県邑久郡(おくぐん=現・瀬戸内市)の酒造家に生まれる。本名は竹久茂次郎(もじろう)。1902年(明治35年)18歳の学生(早稲田実業)時代、スケッチを読売新聞などに投稿、1905年(明治38年)21歳の時、(『伊勢物語』の中の物語の1つ)古典『筒井筒』(つついづつ)を題材にした絵が、文学雑誌『中学世界』で第1等賞に入選。この時、初めて“夢二“を名乗る(早稲田実業中退)。以後は、数多くの美人画を描き、大正ロマンを代表する画家に成長した。また彼は、美人画ばかりでなく児童雑誌などの挿絵、書籍の装幀、広告宣伝物や日用雑貨などのデザインも手がけた、とある。もしかしたら彼は日本のグラフィック・デザイナーの草分けかもしれない。いや、そればかりではない。翁が瞠目したのは彼の文筆の才能である。夢二はかなり多くの詩歌を残している。作品によっては俳句の定型五・七・五や和歌の定型五・七・五・七・七の五句体を無視した自由奔放な詩もあるが、翁が学習した”夢二の詩“には、彼の溢れんばかりの純粋な愛や真心が満ちていて読む人の胸を打つ。翁の(強引な)解釈で”夢二“の筆名の意味を考えた。彼は”愛と真心“の2つの夢を作品に託して世に伝えたかったのではあるまいか、そんな気がしてならない。『竹久夢二伊香保記念館』のウエブサイトのトップページに同館の館長・木暮享(こぐれすすむ)氏が「夢二は、人生を通じ、愛するということ、本当に大切なのは心であるということを、作品を通して切なく優しく語りかけている」と書いておられる。だから翁の”夢二の名の考察“も、当たらずとも遠からずと自己満足している。訪館の日、翁、偶然にも木暮館長にお会いすることが出来、記念館のコンセプトや夢二観などを伺った。それは後述することにして、もう少し(翁の俄か学習成果の1つ)”夢二が愛した女性たち“について述べてみたい。
夢二は多くの女性と恋をした。とりわけ、次の4人は夢二の人間形成と創作に大きな影響を与えた女性たちだと言われている。《岸たまき》(明治15年〜昭和20年)、戸籍上、唯一の妻で“夢二式美人画”の元祖だそうだ。《笠井彦乃》(ヒコノ=明治29年〜大正9年)、夢二の“忘れ得ぬ永遠の恋人”、彦乃と死別してからの夢二の絵や詩には彼女への思慕の念があちこちに散りばめられている。1977年(昭和52年)に発売された倍賞千恵子が歌う『かえらぬひと夢二・その抒情』(LP)に『宵待草』『花をたづねて』『ふるさと』『わすれな草』『母』など12曲が収録されているが、中でも『花をたづねて』は彦乃への燃えたぎるような追慕の詩そのものである。
♪花をたづねてゆきしまま かへらぬ人の恋しさに 岡にのぼりて名を呼べど
幾山河は白雲の 悲しや山彦(こだま)かへり来ぬ
夢二と彦乃は、文通時に匿名『山』(彦乃)、『河』(夢二)を使った。この2人だけの呼び名を知っていれば、夢二作品(絵と詩歌)への理解がいっそう深まるだろう。(翁がそうであるように)・・・《佐々木カネヨ》(明治37年〜昭和55年)愛称“お葉”。夢二の絵から抜き出たような美人だったと言われる。彦乃の面影を追い求める夢二との恋(嫉妬)に悩み苦しんだカネヨは、結局、夢二と離別、後年、医師と結婚、幸福な人生を送る。そして4人目は《長谷川カタ》(明治23年〜昭和42年)、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑にやって来た銚子市海鹿島(あしかじま)の海岸でカタ(当時19歳)と出会う。親しく話し合ううち、2人は互いに恋心を抱く。が、カタの父親が娘の将来を案じ、カタの結婚を急がせる。夢二はカタとの再会を望んで翌年の夏、この地を訪れたが再び会うことは出来ず、失恋を悟る。そこで詠われたのが『宵待草』(原詩)
【遣る瀬ない釣鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る
待てど暮せど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想うまいとは思へども
我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな】
現在、海鹿島の海を見下ろす場所に、夢二の肖像と文学碑が建っているそうだ。
翁の”俄か学習”の記述が長過ぎて肝心の『竹久夢二伊香保記念館』(写真左=本館『黒船館)紹介が遅くなった。では早速、木暮館長のご案内で話を進めて行こう。
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夢二が伊香保を知ったのは1911年(明治44年)、伊香保在住の故加藤(旧姓・松沢)ミドリさん(当時12歳)からの、夢二へのファンレターによる。(ミドリさんの手紙の概要=右写真上)「夢二先生、去年の秋に伊香保で私は先生をお見かけしました。私は先生の絵をもっと見たいです」(夢二の返事の概要=右写真下)「愛らしいお手紙、うれしく拝見。イカホとやらでお逢いになったのは私ではありません。お逢いする日があったら、その日を楽しみませう」名もない少女への返事を、毛筆で丁寧に書いた夢二の優しい人柄がうかがえる。その往復書簡は“寄贈第1号”として記念館エントランス・フロアに展示されている。つまり、夢二がイカホを知ったのは、少女の手紙によってである。実際に伊香保を訪れたのは8年後の1919年(大正8年)夢二、36歳の時。それから何回も伊香保を訪れているが、何故かミドリさんとは出会うことがなかった。「1981年(昭和56年)5月の記念館開館式典に加藤さんをお招きしたのですが、病身で出席出来ず、それから3か月後に逝去されました(享年82)。ミドリさんは亡くなる少し前に宵待草の種を記念館に送ってこられ“美しい花をいっぱい咲かせて下さい”との温かい手紙が添えられていました」(木暮館長談)。翁が思うに“美しい花をいっぱい咲かせて下さい”は、ミドリさんの、夢二記念館に寄せる一大発展への願いであったろう。
『記念館』には夢二作品や夢二関連物が16,000点も収蔵されているそうだが、各階フロアの展示作品だけでも相当な数だ。翁は幸いにも木暮館長のご案内で主要作品に出会うことが出来た。まずは夢二の代表作『黒船屋』。本館3階のティ・ラウンジ入り口の左脇に重量感のある蔵扉がある。普段は一般公開されていない夢二の最高傑作『黒船屋』のための特別室(蔵屋敷)。毎年9月、夢二の誕生日(明治17年9月16日)に合わせて、わずか2週間だけ完全予約制で公開されるとのことだが、翁は特別に案内していただいた。この部屋では『黒船屋』のほかに夢二が描いた掛け軸の中から季節に合ったものを選び、また季節の花を添えて床の間を飾る。まるで広々とした茶室、息を呑む夢二芸術の空間、と言うより、木暮氏自身の、夢二への深い敬愛の念と日本の美、茶道を愛する心が凝縮された“木暮ワールド”と言った方が適切だろう。それにしても『黒船屋』の美人、夢二特有の線の細い、黒目の潤んだ瞳、吐息が漏れてきそうな口元、言うまでもなく夢二の永遠の恋人・彦乃である。胸元で彼女にすがるように身を預けている黒猫は、もしかしたら夢二自身なのかも知れない。ところで、画題を『黒船屋』にしたのは何故か、「夢二と彦乃が出会い、恋が芽生えた店は、日本橋港屋という(夢二がデザインした日用品を扱う)店ですが、実名でなく架空の屋号“黒船屋”を使って櫃に彦乃を腰かけさせたところに、夢二らしい芸術的感性が感じられます。見えない櫃の中に納められた“切ない恋物語”を伝えようとしたのでは?」(木暮館長談)(『黒船屋』の写真はY・インターネットから拝借)
アメリカで世話になった坂井米夫氏という恩人に贈ったのが、榛名山を背景に前面裸婦が横たわる屏風『青山河』(アメリカで描いた作品)。添えられた手紙に「早くハルナの山へ帰りたく存じ候。榛名の山も今は初秋の風、梢をならして居るべく・・・」と記されているが、題名の『青山河』の“青”は、限りない寂しさ、そして前述の(2人の匿名)“山”は彦乃、“河”は自分(夢二)を意味している。
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左の絵(写真)の画題は『榛名山賦』。描かれた背景の山は榛名山。その前に立つ女性は春の女神“佐保姫”(奈良・佐保山の神霊)と言われているが、本当は恋人・彦乃ではないかと思われる。右肩に「久方の 光たたへて匂ふなり 榛名の湖(うみ)に 春たちにけり」の和歌が詠まれているが、これも彦乃を偲ぶ夢二の心情ではあるまいか。夢二が彦乃と出会ったのは夢二30歳、彦乃18歳の時。彦乃は父親の反対を押し切って夢二と恋の逃避行を繰り返すも6年後、結核で24年の短い生涯を終える。彼女はまさに“薄幸の佳人“。以後の夢二の作品には“彦乃の面影を偲んで”が圧倒的に多いそうだ。前ページ右の絵(写真)の男女も夢二と彦乃、“結婚を許されなかった2人、榛名の山に何を語るか”翁、この絵に魅入って脳裡にコマ送り(早回し)ドラマを描いていたら、迂闊にも画題を記録し損なった、よって翁、勝手に『榛名山に寄す』とした。絵の右肩に
山は歩いて来ない やがて私は帰るだろう 榛名の山に
の短歌が詠まれている。想像するに、この短歌は夢二が自分の死を覚悟した時に詠んだものではあるまいか。“榛名の山に”は“彦乃のもとへ”と解される。何とも悲しい詩だ。
(話は飛ぶが)東京・文京区の『竹久夢二美術館』で今“夢二がハワイで描いた『宵待草』(ハワイ・ジャパニーズ・センター所蔵)の特別展が開かれている(6月29日まで)。そこで翁、早速、ハワイの友人に頼んで「いつどこで『宵待草』が発見されたか」をハワイ・ジャパニーズ・センター(ハワイ島ヒロ)に問い合わせて貰った。同センターのアシスタント・マネージャーのシルビア・ウエバーさんの回答では「週刊日本語新聞”ヒロ・タイムス“(1955年創刊)の創設者キヨシ・オオクボ氏(1905年〜2001年)が蒐集していた日本画や掛け軸の中に、偶然『宵待草』が見つかった。それをハワイ大学(ヒロ校)のマサフミ・ホンダ先生が譲り受け、ハワイ・ジャパニーズ・センターで所蔵していたが、夢二生誕130年(没80年)の記念年に『竹久夢二美術館』で特別展をお願いした」とのこと。
その掛け軸『宵待草』は幅36.5cm、高さ127cmで軸装され、物思いに耽る着物姿の女性(多分、海鹿島海岸で出会った長谷川カタだろう)が描かれており、余白には“待てど暮らせど来ぬ人を”の自作の詩『宵待草』が毛筆でしたためられ、末尾に1931年5月・於布哇(ハワイにて)と記されているそうだ(翁はまだ見ていない)。
(話を戻そう)前述のように「伊香保行きを思い立った当時(今年の正月)は、正直、まだ夢二に対しては“憧れてやまない文化人”ではなかった」のだが、その後、俄か学習を進め、このたび『竹久夢二伊香保記念館』を訪ねて直接“夢二芸術”を鑑賞したり、木暮館長とお会いして“作品評”や“夢二論”を伺っているうちに、翁にとって夢二は本当に“憧れの文化人”になってしまった。おまけに“嬉しい偶然”を発見した。と言うのは、前号の「伊香保を愛した文化人」(1)(徳富蘆花編)でも紹介したように、文豪・徳富蘆花が重病をおして最後の伊香保行きを望んだ時、東京から看護婦3人を連れて車で同行したのが蘆花の主治医・正木俊二医学博士(筆名・不如丘)。その正木先生が、実は夢二の最期にも立ち会っているのだ。(彦乃と同じ)結核を病んだ夢二を、文芸仲間であった正木博士が手配して長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院させた。昭和9年9月1日「ありがとう」を残して永眠、享年50。このたびの翁の伊香保行き(取材)目的を『蘆花と夢二』に絞った結果、その2人を診た同じ医師が存在したという事実の発見は、翁にとってはまことに“嬉しい偶然”である。その偶然はもう1つある。夢二の“永遠の恋人”彦乃と、正木博士の妹・正木ゆうさんは女学校時代の同級生で大の仲良しだったそうだ。夢二もたびたび正木家に出入りしていたという。つまり蘆花と夢二は正木俊二博士で繋がり、夢二と彦乃もまた正木兄妹と繋がっているのだから、縁というものは、摩訶不思議なものだ。
榛名湖の湖畔に建てられた夢二の歌碑に
さだめなく 鳥やゆくらむ青山の
青のさひしさ かきりなければ
の歌が刻まれている。
定まったこと(運命)でもないのに、鳥たちは榛名山へ飛んで行く。(彦乃がいない寂しさがなければ私も飛んで行くものを・・・翁訳)
さて、広大な敷地の“大正ロマンの森”の中には蔵造りの『本館』、大正の雰囲気を伝える『黒船館』、懐かしいオルゴールの音色が響く『音のテーマ館』、江戸時代から明治・大正・昭和・平成に伝わる和ガラスの館『義山楼(ぎやまんろう)』『夢二子供絵の館』などあるが、それぞれの案内はいずれかの機会に、ということで今回は思いっきり“夢二芸術”に浸る歓び(喜び)を噛み締めた。とは言え、絵画に造詣の浅い翁が、知ったかぶりで夢二と彦乃を(強引に)重ね合せた論述には多少の間違いもあろうし、登場人物の年齢表記に数えと満が入りまじって統一性がないが“夢二熱にのぼせた翁”の独断(錯覚)だとご容赦いただきたい。それにしても、帰宅の途中で足を止めて翁を案内して下さった木暮享館長には深甚なる感謝の意を表したい。と同時に、小文のエピローグとして氏が著した『館長のひとり言』(上巻)より「1番の1(ナンバーワン)ではなく、かけがえのない1(オンリーワン)でありたい(中略)かけがえのない自分を大切にするとともに、かけがえのない他人をも尊重する」を頂戴する。これは記念館のコンセプトにとどまらず、木暮氏ご自身の人生概念であろうと思われるから・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |