1941 日系アメリカ人と大和魂
この数年の間、日本に頻繁に帰るようになって何だか日本という国が遠くなってしまったな〜という感じがしてならなかった。それは単に日本で以前より外国人をたくさん見かけるようになったとか、あちこちで英語やハングル文字や中国語で書かれた案内を見かけるようになったからと言うだけでなくどこか本来の日本でなくなってきてしまっているような気がしていた。そして外国に住み始めてから改めて自分は日本人なのだという事を認識させられる事が度々あった。このロスアンジェルスはニューヨークと同様に様々な国の移民の人が一緒に住んでいてあらゆる国の文化や食やものの考え方の違いに触れる事が出来てなかなか面白い街である。そして日本の伝統文化や芸術の素晴らしさを逆に外国人から教えられたりしてそれが自分にとって新鮮な驚きだった。以前、LAの日系の会社に勤めていた時に会社のI.T.を任されている人から日本の技術力に関して尊敬の言葉を聞かされた。外国人は日本人の文化や食が好きなのだな〜と単純に思っていたが南米の人も日本人が好きでハポネ(日本人)ハポネと笑顔で寄ってくるらしい。南米が好きで何度も南米に行っていた友人が世界中で活躍している日本人は案外多いのだよと言っていた。あまりTVや新聞では取り上げられていないようだが…それと同じように日系アメリカ人の存在も今まで日本では殆ど知られていなかったし歴史の教科書にも全く登場してこなかった。だから当然知らなくて当たり前なのだが最近はすずきじゅんいち監督がLA滞在中に作られた日系人を取り上げた3本の映画を通して徐々に日本人の間でも日系人の存在が知られるようになってきた。数年前にすずき監督の映画が日本で受賞されたのを知ったのは、日本で、ちょうど友人とTVを見ていた時だった。
考えてみるとアメリカに、まだ遊びに来ていたころに知り合った女性の旦那様が自費出版したという本を借りて読んだことがある。その本は第2次大戦中、祖国日本と戦わなければならなかった秘密情報部員の彼の実話本だった。彼女の家に行くと旦那様はパイプの煙の向こうでロッキングチェアーに揺られながらいつも静かに本を読んでいた。日本からアメリカに嫁いだ彼女は朗らかで良くしゃべる人だったけれど旦那様は無口な人だった。もう20年以上も前の事だ。今思えばすずき純一監督が2012年に作られた映画 “2つの祖国 日系陸軍情報部M.I.S.(ミリタリーインテリジェンスサービス) にも出てくる秘密情報部員の日系人部隊の一人だったのだと思う。
私がLAで仕事を始めた頃1996年頃だったか“ゴーフォアブローク”(あたってくだけろ)という変わった名前の会社からの依頼で見積もりを届けに行った事がある。その時に見た会社の額縁に飾られた大きな写真が今思えばあの “442日系部隊関連のオーガニゼーションだったのだ。442部隊と言うのは第2次世界大戦の時にアメリカで生まれた日系2世の日本人で作られた部隊なのだ。当時人種差別の激しかった頃、日本人の血が入っているというだけでスパイ容疑をかけられ日系アメリカ人は皆、強制収容所に入れられた。その中でアメリカに忠誠を誓うために収容所から進んで志願しアメリカの為に戦う日系部隊として入隊していった若者がたくさんいたという。これもすずきじゅんいち監督の映画
2010年に作られた “ 442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍 ”という映画に詳しく出ている。そして2008年にすずき監督が作られた “ 東洋宮武が覗いた時代 ”その時代とは第2次世界大戦中にアメリカに住む日系人が強制的に入れられた収容所の中でひそかに写真を撮り続けたカメラマンの実話だ。これも偶然なのだが仕事で東洋宮武氏のご長男のオフィスを訪れたことがある。何かのきっかけでパロスバーデスにあるガラスの教会と船の上の結婚式の撮影でお手伝いを2回ほどさせて頂いた事があった。その長男の方が撮ってくださった写真は今でも日本の家に飾ってある。その時に初めて東洋宮武氏の存在を知った。 今回読んだ、すずきじゅんいち監督の “ 1941日系人と大和魂 ” という本にLAで作られた3本の映画のエピソードを交えながらアメリカ暮らしの生活が監督の目線で書かれてある。その本を読んでノーノーボーイという存在も初めて知った。少し前にお会いしたある日系2世の人は青年だった頃、戦争中に収容所に入っていたが彼は母親との約束を守って442部隊には志願しなかったと言った。彼がそのノーノーボーイだったのだ。その時442部隊に志願した人も収容所で過ごすという選択をした人も、どちらも辛かったと思うし、そのどちらが良くてどちらの方が正しいという事も無かったと思う。以前、何度かこの雑貨屋のコラムで日系2世の方についてエッセイを書いたことがあったが今回日系2世と言われる人の中に帰米2世(アメリカで生まれて日本で教育を受けた人が再びアメリカに戻ってきて住んでいる人)とも接する機会があった。日系2世の人は殆ど英語でお話しされるので通常は英語で会話する。そして両親の祖国である日本には1度も行った事が無い人も多い。でも、そのどちらも戦前教育を受けたご両親から育てられているので皆、とても優しい人が多い。その優しさがどこか懐かしさを感じる暖かさなのだ。古き良き日本の面影が日系の方々の中に残っている。時々日系の人が話す英語に交じって日本語で “やれ、やれ” とか “ しょうがない ” 仕方がない“ と言う言葉を聞く。ご両親が良く言う言葉を聞いて育ったのだろう。そこにいろんな思いが込められているようで何だかちょっと和む気持ちと辛くなる気持ちが入り混じって複雑な思いになる。
この数年、日系2世の人のから直接、戦前、戦中、戦後の話を聞く機会があった。写真を見せてもらったりしているうちに彼らの激動の人生に興味を持つようになった。日系3世やそのお孫さんなどは今の時代以外あまり昔の時代には興味を示さないので誰も熱心にそんな過ぎた話などに耳を傾けないのだ。だけれども、日本から来た私には、どの話も小説になるような真実の話なのだ。先日2世の人の家を訪問したら、おしゃれな火鉢があった。私も昔、子供の頃に祖母の家で見た記憶がある。
”あら珍しい、これはどうしたのですか?”と聞いたら ”母がくれたのよ。飾りとしてただ置いてあるのよ
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”と。見たら中に靴が入っていた。彼女は米国で生まれ育ちあまり日本の事は知らない。亡くなった旦那様は442部隊だったらしくメダルを見せてくれた。
もう一人の女性はシアトルで生まれ5歳の時に鹿児島に帰り女学校を出てすぐに親の薦めで見合いをしてアメリカで仕事をするのだという男性に嫁いだという帰米2世の女性。泣く泣く親や兄弟と別れ横浜から船で2週間かけてアメリカに来たと言う。父親が“若いうちにちょっとでもいいからアメリカを見ておくといい”という言葉に騙されてちょっとのつもりが長くなってしまったと笑って言った。そして1938年当時の結婚式の写真を私に見せてくれた。(彼女の承諾済みのその頃の美しい花嫁姿の写真も紹介させ
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ていただきます。)
その後、第2次世界大戦が始まってしまい、まだ幼かった長男を連れて旦那様と2か所の収容所を移動した。彼女に“Kさんの故郷はどこですか?”と聞いたら”鹿児島です“と即答なさった。お体が不自由になってきてなかなか日本に住むご兄弟に会う機会が作れないでいるらしいが最近いつも夢に見るのは昔の懐かしい鹿児島の風景だそうだ。
ここアメリカで暮らしている日本から来た私も含め戦争を知らない人の中には日系人の歴史に関してそんな事があったのだという程度であまり関心を持たない人もいる。
でも、自分が日本人だと思うのなら、やっぱり、こういった事を知るべきだと思う。
すずき監督の1941日系人と大和魂という本の表紙を開くとこのような言葉が書かれている。 “日系アメリカ人を論じることはアメリカをそして日本を語る事なのだ “と。
今、歴史を直視せよとか、歴史の事実を認識せよなどと他国から言われている昨今すずき監督の映画や本に触れるにはいい時期だと思う。
そこから何故日本が負けるとわかっていた戦争に向かわなければならなかったのか、あの戦争を起こさせた原因は何だったのだろうか、あの時、他に戦争を避ける選択技はあったのだろうか、今こそ今後の日本の未来の子供たちのためにも徹底的に明らかにしてほしいと思う。本当の過去を知らなければ未来への舵とりも出来ないし、方向も定まらない。それは2度と同じ過ちを犯さない、はめられない為でもあるのだ。だから私たちは知らなければならないのだと思う。勝戦国が負けた国を裁いたり自分たちの都合のいいように歴史を作り変えたりする事が正当化される時代はこのへんでピリオドを打ってほしい。幸いに今はネットでかなり的確な情報がつかめる。かく乱させる為の嘘の情報も同じく出でているけれど必ず嘘は,ばれるし、そのスピードも速くなってきている。
だからなおさら、このタイミングで、すずき監督の3本の映画が世に出たという事が、ただの偶然だとは思えないのだ。
茶子 スパイス研究家 |