龍翁余話(283)「世界の至宝・平泉を往く」(その1 中尊寺)
『平泉』を語るに、まずは“960年前の東北史”から書き始めなければならないのは、いささかシンドイが――実は翁、今回“みちのくの旅”に出るまで東北地方を舞台にした合戦『前九年の役(ぜんくねんのえき)』、『後三年の役(ごさんねんのえき)』のことは(そういう戦役があったことぐらいは知っていたが詳しい内容については)よく知らなかった。それが、たまたま『もりおか歴史文化館』を参観した折り、ボランティア・ガイドさんによって多少、学習することが出来た。付け焼刃の知識で要約すると――『前九年の役』は1051年~1062(平安時代の後期)、当時の東北地方の2大豪族・安倍氏と清原氏の勢力争いで、足掛け12年かけた戦いは清原氏が勝利した。もともとは『奥州十二年合戦』と呼ばれていたそうだが、いつの間にか『前九年の役』と呼称が変わった。何の“前九年”なのか・・・それから20年後に『後三年の役』(1083~1087)が起きるのだが、これも、何の“後三年”なのか諸説あるが、どれが正しいか、どなたかの教えを乞うことにして・・・
『後三年の役』で、今度は(平泉地方を支配していた)奥州藤原清衡(きよひら)が『前九年の役』で東北の覇者となっていた清原氏を滅ぼした。この時、陸奥国守(現在の青森・岩手・宮城・福島・秋田を統括する長官)だった源義家(八幡太郎義家=鎌倉幕府を開いた源頼朝の4代前の先祖)の助力を得ての勝利だった。清衡は、敵味方の区別なく戦乱で亡くなった人々や鳥獣など“生きとし生けるもの”全ての霊を慰めようと、浄土思想(清浄で平和な世界)に根ざした現世浄土を創り上げることを誓い、比類なき“仏都”建設に乗り出した。いうなれば平泉の栄耀の背景には鎮魂の歴史がある。それに(因果応報と言うべきか)清衡の母は『前九年の役』で清原氏に滅ぼされた安倍頼時の娘、従って清衡は20年後に祖父(頼時)の仇を討ったことになる。余談だが、安倍晋三首相の父君(故)晋太郎氏(元外務大臣)は生前「我が安倍家は奥州安倍一族の子孫である」と言っていたとか。ならば安倍晋三家は奥州藤原一族の末裔ということになるのだが・・・
清衡が着手した“仏都”はやがて“黄金都市”として栄える。その経済基盤となったのは、奥州で豊富に産出された砂金をもとに北宋(今の中国北部)や沿海州(今の極東ロシア)との交易によるものだ。マルコポーロ(1254年~1324年、ヴェネチア共和国の商人・冒険家)の『東方見聞録』に“黄金の国ジパング”と紹介されていることは有名。その“平泉黄金文化”と清衡の平和理念による“仏都”は2代基衡(もとひら)~3代秀衡(ひでひら)と受け継がれる。秀衡は、源義経を少年時代と(兄頼朝に追われ)都落ちの際の2度に亘り保護、鎌倉(頼朝)の反感を買ったが頑として義経を守り抜いた。しかし、秀衡没後、4代泰衡(やすひら)は鎌倉の圧力に屈し、義経を自害に追い込む。それでも(奥州制覇を目論む)頼朝は執拗に泰衡を攻め、遂に(102年続いた)“黄金の都”を滅ぼす(1189年)。これも因縁と言おうか『後三年の役』の時、源義家の助力で勝利した平泉藤原氏は、義家から4代子孫の頼朝によって滅ぼされたことになる。しかし、藤原氏は滅びたが、後世にしっかりと“浄土思想の結晶“を遺した。822年後の2011年6月、“仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群”として世界文化遺産に登録されたことはご承知の通り。前講釈が長くなった。早速『世界の至宝・平泉』(中尊寺)へ。
東北新幹線・一関駅から観光バスに乗る。中尊寺バス停の目の前の、中尊寺本堂や金色堂に向かう表参道(月見坂)を歩く。伊達藩が植樹したとされる樹齢約400年の老杉並木が歴史を感じさせる。途中の『弁慶堂』に参拝。堂の中に甲冑姿の義経と薙刀を持って仁王立ちしている弁慶像が安置されている。翁、2004年12月に東京・国立劇場で観た9代目松本幸四郎(弁慶)と7代目市川染五郎(富樫)の親子競演による歌舞伎十八番『勧進帳』を思い出す。兄源頼朝に追われる身となった義経が、武蔵坊弁慶ら少数の家来と共に山伏に変装して京都から平泉の藤原氏のもとへ逃れる途中、安宅の関所(石川県)の役人・富樫左衛門とのやりとりを描いた芝居。弁慶が空(から)の勧進帳(寺院に寄付を募る請願書の巻物)を読み上げる場面や、弁慶が涙しながら主人義経を杖で叩くシーンは(どの役者が演じても)圧巻である。
『弁慶堂』から10分ほどで『中尊寺本坊』に着く。中尊寺のお山には、本坊のほか17の子院がある。この全部は、とても数時間では回りきれない。マップを片手にバス時間を気にしながら(翁が好きな所だけを)駆け足で回る。『中尊寺(天台宗)本坊』の山号は関山、本尊は今まで阿弥陀如来(西方極楽浄土から生き物を見守り、全ての生き物を極楽浄土に導く仏)だったが今年の3月に釈迦如来(いわゆるお釈迦様=釈尊)が新本尊となった。寺伝によると開山は850年、円仁(第3代天台座主=慈覚大師)とされているが、実質的な開基は初代藤原清衡(1105年、清衡50歳の頃)と記されている。
国宝や重要文化財など3000点以上の文化財を保存・展示してあるのが『讃衡蔵(さんこうぞう)』だが、とにかくどこもかしこも撮影禁止ばかり。翁、いささか興を削がれ、駆け足が更に早まったので(各館内を)詳しく説明出来るほどの参観記にはならず、行く先々で集めた説明文を参考に、ほんの概要だけの紹介にしかならないことをお許し願って・・・
『金色堂』(写真左)は1124年に初代清衡が晩年に建立した阿弥陀堂。(同じく世界遺産の)京都・平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり当代の技術を結集したものとして国宝に指定されている。『金色堂』の傍に『芭蕉翁句碑』がある(写真中)【五月雨の降り残してや光堂】(梅雨の鬱陶しい雨も、この平泉の光堂だけは降り残したのだろう、今も昔の輝きや華やかさを見せている。)中尊寺の至宝を収蔵しているのが国の重要文化財『経蔵(きょうぞう)』(写真右)。この建物は平安時代の古材を使い、鎌倉時代に再建された、とある。ここに収蔵されていた中尊寺経の正式名称は“紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)”と言うそうだが、紺色に染めた紙に経文が1行ごとに金字と銀字で交互に書写されているとのこと、また、この経文が最初に納められたお寺が中尊寺だったので、一般にこれを”中尊寺経“と呼んでいるそうだ。今は『讃衡蔵』に保存されている。急ぎ足の翁、残念ながら観ることが出来なかった。
翁が少し足を止めたのが中尊寺(寺領)の一番奥にある白山神社の『能舞台』(写真左)。1853年に伊達藩によって建てられた東日本最古の能舞台(日本最古は『余話(275)』で紹介した京都西本願寺の北能舞台)で、今でも藤原祭りや中尊寺薪能(たきぎのう)で使われているとのこと。毎夏、九段の靖国神社で催される薪能を翁は何回も観たが、夕闇の樹木林の中、古格の能舞台で展開される能・狂言は正に幽玄の世界。8月14日の中尊寺薪能もいつかは観たい、そんな興味をそそられながら急ぎ足の“中尊寺巡り”を終え、バス停近くの『弁慶の墓』(写真右)に合掌。鎌倉(頼朝)にひれ伏した4代藤原泰衡は父(秀衡)の遺志に反して義経一行を攻撃、無数の矢を身に受けながら最後まで主人義経を守り、仁王立ちのまま息絶えたと伝えられる“弁慶の立往生”の場所(衣川館)が、この近くだったそうだ。『世界の至宝・平泉』(中尊寺巡り)は消化不良のまま、次なる『浄土庭園・毛越寺巡り』のバスに乗り込む・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話。 |