龍翁余話(280)「啄木・賢治、盛岡の青春」(その1=啄木編)
2004年に靖国神社第9代宮司に就任された南部利昭氏(南部家第45代当主=2009年1月7日、昭和天皇20回目の命日祭を終えた後、神社の執務室にて急逝、享年75)から「盛岡には平安時代からの深い歴史あり、政治・学術・教育・芸術・文化に生きた先人も多く、石川啄木や宮沢賢治が愛した街です。是非、いらっしゃい」とのお誘いをいただいていた。
岩手県の中央部、古くは不来方(こずかた)と呼ばれた盛岡及び隣接地には、確かに興味深い歴史が詰まっている。平安時代の初期、桓武天皇の下命で征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷(えみし、えぞ=大和朝廷時代、今の東北地方や北海道地方に住む人々を異族視した呼称)の首長アテルイを滅ぼした話、安倍氏・清原氏の戦い(前九年の役)、清原氏の内紛で奥州藤原氏が台頭(後三年の役)、時代は下って安土桃山時代(織田信長〜豊臣秀吉の時代)に南部氏が盛岡城を築いて江戸末期まで南部藩として栄えた話など、歴史好きの翁にとっては垂涎の地である。近代において翁が知っている盛岡の先人と言えば、政治家では原敬(第19代首相)、米内光政(第37代首相)、鈴木善幸(第70代首相)、学術・教育では新渡戸稲造(農学者・教育者・哲学者・東京女子大学初代学長、英語版『武士道』の著者)、金田一京助(言語学者・民俗学者=アイヌ語研究者)、芸術では深沢紅子(日本女流画家の草分け)、そして何と言っても翁が中学生の頃から憧れていた石川啄木や宮沢賢治に近づきたい衝動にかられることしばしば。いつかは南部利昭氏のお誘いに応じたいものとその機会を窺っていたのだが、たまたま今『啄木祭』(6月9日まで)が行なわれていることと、今年は宮沢賢治没後80年という節目の年にかこつけて(遅ればせながら)やっと“盛岡の旅”を実現させた次第である。
“初めての盛岡行き”を心配してくれた(盛岡市を熟知している)親友の歯科医・Y先生(岩手医大卒業)から懇切丁寧なアドバイスを受けての旅だった。盛岡駅を降りると、早速、駅前広場の啄木の歌碑が出迎えてくれる(写真左)。≪ふるさとの山に向ひて 言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな≫。ふるさとの山、とは岩手山のことだろうか?駅から10分ほど歩いて北上川に架かる開運橋から見る残雪の岩手山が実に美しい(写真右)。
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Y先生から教えて貰った見どころ、例えば国の天然記念物『石割桜』、『報恩寺』(五百羅漢)、国の重要文化財『岩手銀行旧本店』や『旧九十銀行本館』、鬼の手形伝説『三ツ石神社』、『原敬生家』、『紺屋町番屋』、『旧岩手医学専門学校』(現岩手医科大学=Y先生の母校)など、ほとんど観て回りそれぞれに感銘を受けたが『余話』では、敢えて啄木と賢治に絞り、盛岡における2人の“ほとばしる青春“をクローズアップしたい。盛岡は、望郷の天才詩人・啄木と、“イーハトーブ”(宮沢賢治の造語で理想郷の意)を夢見た賢治の、2人の青春を育んだ街。と言っても、賢治は啄木より10歳も年下だから2人が同時期にこの街で過ごした形跡はない。ただ、賢治は盛岡高等農林学校時代、学友たちに「我が郷土に天才詩人あり、誇りなり」と啄木を自慢し、敬愛していたそうだ。
そこで今号は『啄木・賢治、盛岡の青春』(その1=啄木編)をお届けする。石川啄木(本名は一:はじめ)は1886年(明治19年)に岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)の(父親が住職をしていた)常光寺で生まれ、翌年、父親が(隣村の)渋民村・宝徳寺の住職となったのを機に、一家で渋民村(現盛岡市玉山区渋民)へ転住。啄木にとってこの渋民村こそが“ふるさと”なのである。明治24年に渋民尋常小学校へ。明治28年に盛岡高等小学校(現下橋中学校)へ、そして明治31年に盛岡中学校(現盛岡一高)へと進み、のちの言語学者・金田一京助との親交によって急速に文学への関心を高めるようになった。市内のあちこちに啄木の歌碑が建てられているが、啄木が授業を抜け出して散歩したり、草叢に寝転んで文学書や哲学書を読み耽ったと伝えられる盛岡城跡公園(不来方城址)(写真上左)に建つ歌碑≪不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心≫(写真上右)は、金田一京助の揮毫によるものだそうだ。なお“十五の心”とは、啄木の文芸への燃える心か、それとも、共に13歳の時に出会い、互いに恋仲になっていた(のちに啄木の妻となる)堀合節子を想って15歳の啄木少年は心を疼かせたのか、翁は(勝手に)後者を選択したい。
市内の中心部に(茅葺の)『啄木新婚の家』が保存されている(写真下)。入り口の案内板によると(概要)啄木は明治35年に文学で立身することを決意し盛岡中学を中退して上京、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得て創作活動に没頭する。明治38年5月、東京で処女詩集『あこがれ』を出版、それを土産に帰郷の途についたが、金策の必要から仙台で下車して友人の土井晩翠(詩人)を訪ね借金、その金で遊び回って10日間も仙台に滞在。その間、啄木家では月末に結婚式を挙げるべく、婚約者の堀合節子は勿論のこと、両方の家族や友人たちが啄木の帰りを待ちわびていた。しかし啄木は(結婚式当日)遂に姿を見せなかった。友人たちが節子の心情を気遣って慰めの言葉をかけたが、節子は「大丈夫です。彼(啄木)は必ず私のもとへ戻ってきます」と豪気に言い放ったという。当日は、仕方なく友人たちの音頭取りで“花婿のいない珍妙な結婚式”が行なわれた。もともと啄木との結婚に猛反対だった節子の父親・堀合忠操(士族で官吏)は、啄木のこの身勝手な振る舞いに対していかほどに激怒したものか想像するに難は無いのだが、よくも“花婿のいない珍妙な結婚式”を許したものだ。啄木がようやくこの家に顔を見せたのは、それから6日後のことだった。ここで初めて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃っての家庭生活が始まる。時に啄木20歳。この家で起稿した随筆『閑天地』の中の『我が4畳半』に啄木が節子と初めて暮らした様子が詳しく描かれ、岩手日報に21回連載され“石川啄木”の名が次第に高まりを見せるようになる。
ここで読者各位にお断り――タイトル『啄木編』としながら本号ではやっと“望郷の天才詩人・啄木”の入り口に立ったばかり。そこで、啄木と妻節子、妹光子に関しては2週後の『余話』で改めて語らせていただくことにして、次号の『盛岡の青春』(その2=賢治編)にご期待を乞いたい。宮沢賢治もまた、翁の青春時代に“雨ニモ負ケズ”で影響を与えてくれた詩人・童話作家であったのだから・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |