龍翁余話(276)「京都・古刹巡り」(その2)(拡大版)
前号は、西本願寺、東本願寺、東寺への初参詣記であった。今号は大原の里の古刹巡り、ここもまた、初めての参詣である。午後4時頃、ハワイ本願寺クアイア(聖歌隊)18人、英語ガイド、それに翁の20人を乗せたチャーター・バスは西本願寺から大原へ向かって国道367号を走る。この道路は福井県若狭町に至る一般道だ。烏丸通り(中京区・上京区)から北大路通り(北区・左京区)を抜け若狭街道に入る。この街道は“鯖街道”とも呼ばれる。その昔、若狭で獲れた魚介類を京都へ運搬する物流ルートで、特に鯖が多かったことからその名が付いたと言われている。鯖街道と並行する高野川の(数キロに及ぶ)桜堤は京都でも有数の桜の名所、ソメイヨシノの名残り花がハワイの人たちを喜ばせる。1時間ほどで大原の里に到着。大原は、京都市左京区の北東部の比叡山の西麓、高野川の上流部に位置する小規模盆地、ここに三千院をはじめ来迎院、宝泉院、寂光院など多くの天台宗系寺院が建立されている。宿は三千院脇の老舗割烹旅館・魚山園。
翌朝、魚山園の泊り客が起き出す前の5時半頃、翁独り、カメラをぶら下げて宿を出る。ジャケットを着ているのだが、この時期、里の朝の気温は低い。ブルッときたのは気温のせいだけではなさそうだ。ここは昔、都の暮らしに疲れた都人(みやこびと)が若狭に逃れる逃避の道、反対に、期待と不安に満ちた旅人が都へと向かった道、そして世捨て人の隠れ里・・・三千院の南側の石畳の上り坂を行くと、タイムスリップしたような古(いにしえ)の閑寂枯淡の雰囲気が翁を包む。人影も無い静寂、聞こえるのは坂道に沿って流れる呂川(ろせん)の水音だけ。そう言えば、この川(呂川)と三千院の北側を流れる律川(りつせん)は、音楽の呂の音と律の音(音の調子)を合わせる呂律(りょうりつ)から名付けられたとのこと。そう、大原は“声明(しょうみょう=仏教の経文を朗唱する声楽の総称)”の発祥の地。この声明は日本の歌曲の原点として平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、端唄、民謡、演歌の中にも生かされている。なお、酒に酔ってロレツが回らない呂律(ろれつ)も、ここが語源だそうだ。
300m上がった所に『浄蓮華院(じょうれんかいん)』(写真左)、資料によると、1821年に桓武天皇菩提のために建立、とあるが、桓武天皇は第50代天皇(在位780年〜806年)、何故1000年も経って建立されたのか――翁の想像だが、天台宗の開祖・最澄上人が桓武天皇に信頼され“内供”(ないぐ=宮中で天皇の安寧を祈る名誉職務)に任命されたことへの感謝(菩提心)で1000年後、比叡山の高僧たちが建立したのでは?ま、それはどうでもいいが――ここは宿坊、予約をすれば誰でも泊まれる。写経だの禅などの強制はない。「心静かに過ごしてもらえばいい」がこの宿坊のコンセプト。早朝だから門は閉ざされたまま。そこから200m上り来迎院・本坊の参道口(写真中)をくぐって更に100m行くと(前述の)声明の修練道場『来迎院(らいこういん)』(851年〜854年に建立))がある(写真右)。この『来迎院』の上流に『音無しの滝』というのがあるのだが、朝食前の翁の体力では、ここまでが限界。資料によると『音無しの滝』というのは『来迎院』の高僧が滝に向かって声明(しょうみょう)の練習をしていると滝の音と声明が和して滝の音が消えた、という故事によるものだそうだ。その滝から三千院を挟んで南北に呂川と律川に分かれる。ともあれ、朝靄が醸し出す更なる幽玄の世界に独り古刹の門前に佇む翁、平安時代〜鎌倉時代の歌人で一時期、この地に隠遁したことがあると伝えられている西行法師か鴨長明になった気分。
8時30分に『三千院』の山門が開く(写真左)。『三千院』は8世紀に比叡山に建立され、以後、数回移転を繰り返してこの場所に落ち着いたのは1871年(明治4年)だから、この一帯の天台宗系寺院の中では(“親分格”ではあるが)“新参者”?しかし石垣に囲まれ、まるで城郭の体を成す偉容は、さすが1300年の歴史の重さを感じさせる。山号は魚山、本尊は薬師如来、開基は最澄。ここには10を超える重要文化財があるが、翁の目的は苔むす庭園(衆碧園)(写真中)と、園内に建つ阿弥陀三尊(中央に阿弥陀如来、右脇侍に勢至菩薩、左脇侍に観音菩薩)の坐像を安置している国宝『往生極楽院』(12世紀建立の阿弥陀堂)(写真右)だ。無宗教の翁でさえ、その高雅さに圧倒され、カメラを置いてしばし合掌。
『三千院』の北側の参道奥に“大原問答”で有名な『勝林院(しょうりんいん)』がある(写真左)。説明板によると835年に建立。1186年頃、浄土宗の開祖・法然(ほうねん)と天台宗の高僧・顕真(けんしん)が宗論(悟りへの道)を交わしたとある。その左隣に『勝林院』の僧坊(僧侶の住まい)『宝泉院(ほうせんいん)』がある。1012年の創建。玄関の脇に法然が腰かけたと伝えられる“法然上人衣掛け石”(写真中)。この院での圧巻は、客殿から見る庭園の(約700年の樹齢の)“五葉の松”(写真右)だろう。ハワイ本願寺聖歌隊の面々も盛んに「ビューティフル!」「ワンダフル!」を発していた。但し、サービスで出された抹茶の味と作法に、少し戸惑いを見せていたが・・・もう一つ、翁の目に止まったのは廊下に貼られた“丁度よい”の貼り紙。抜粋しよう。
≪丁度よい。お前は顔も身体も名前もお前に丁度よい。幸も不幸も喜びも悲しみさえも丁度よい。歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない、お前にとって丁度よい≫
“過分の戒め”“応分の覚り”の教訓だろう。作者は浄覚(上覚)という平安〜鎌倉時代の真言宗の僧らしいが、詳しくは知らない。
“大原の里・古刹めぐり”の締めくくりは平家物語ゆかりの尼寺・天台宗『寂光院(じゃっこういん)』(写真左)。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝えられているが建立年など明らかではない。平清盛の娘・徳子(のちの建礼門院)は、第80代天皇・高倉天皇(在位:1168年〜1180年)の中宮(皇后)として第81代天皇・安徳天皇(在位:1180年〜1185年)を出産。源平最後の合戦“壇ノ浦の戦い”で平家が敗れ、わずか8歳の安徳天皇は祖母・二位尼(平時子)に抱かれて浪間へ。その時、安徳天皇は問う「私をどこへ連れて行くのか?」二位尼は涙を抑え「極楽浄土へお連れ致します」。安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遥拝、西を向いて念仏を唱えたとか。徳子も共に投身したが源氏侍衆に引き揚げられ京都に連れ戻される。以後、ここ寂光院で亡き子・安徳天皇や平家一族の菩提を弔いながら1213年に58歳の生涯を閉じる。なお今年は徳子(建礼門院)没800年にあたり寂光院にて秘仏・普賢菩薩像や建礼門院像などが公開されているが、翁たちは時間の都合でそれを観ることは出来なかった。(写真中は回遊式庭園)。
さて、せっかく大原に来たのだから、頭に薪や花などを乗せて行商する本物の“大原女(おはらめ)”に逢いたいと思ったのだが、土産店のおばさんに訊いたら「5月下旬に大原女祭りがあり、寂光院から三千院まで可愛い大原女たちが練り歩くから、その時にまたおいで」とのこと(写真右は大原観光保勝会HPより)。
京都市と大原の里の古刹巡り、翁はわずか2日間ではあったが何十年分の学習が出来た。宗教のことは分からないが“人の道”を考えさせられる有意義な旅であったことに翁は大いなる満足を覚え、この機会を与えてくれたハワイ本願寺クアイア(聖歌隊)の皆さんに深く感謝しながら筆を置くことにする・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |