龍翁余話(267)「春の香りに誘われて」
平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士・僧侶・歌人の西行法師(1118年〜1190年)
の歌に≪何となく 軒なつかしき梅ゆえに 住みけむ人の 心をぞ知る≫(山家集)というのがある。東京・文京区の『小石川後楽園』で今、“春を呼ぶ、黄門様の梅祭り”が開催されている。ここは、人目を驚かす華美な趣向の風流な大規模梅林ではなく、わずか90本しかない小さな梅園で、むしろ“侘び・寂び”が漂い“何となく住みけむ人の心(徳川光圀=水戸黄門の儒教思想)が偲ばれる。儒教思想とは、人としての生き方、交わり方、己れを修める方法を身につける学問であり、主権在民、機会均等を説き、更に、人への思いやり(恕=じょ=の精神)、真心(信義と正義)を修得する人間学の基礎。言うまでもなく孔子の教えであるが、今の中国、いつの間にか恕も信義も正義も失ってしまった。孔子様が怒っているぞ、そんなことを思いながら、しばし鮮やかな紅白梅の芳香に酔った。
『小石川後楽園』は(案内書によると)水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(家康の子、11男=1603年〜1661年)が1629年にこの地を3代将軍・家光より下賜され、直ちに水戸藩江戸上屋敷の庭としての建設に取り掛かかり、水戸藩2代藩主・光圀(1628年〜1701年)によって完成した、とある。光圀は明国(中国)から渡来した儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい=1600年〜1682年)を招き、彼の助言を採り入れて池を中心とした回遊式築山泉水庭園の随所に中国風の景観を配した。通天橋や円月橋などがそれだ。ちなみに『後楽園』という名称は朱舜水が名付けたもので“先憂後楽”、即ち“士たる者、民が天下
を憂うに先立って憂い、楽しみは民の後に楽しむ”という儒教の“忠臣の国を思う情”を意味しているそうだ。今の政治家たちは、この“先憂後楽”思想を学んだことがあるだろうか?
『小石川後楽園』は(浜離宮恩賜庭園、金閣寺などと同様)国の特別史跡・特別名勝の二重指定を受けている。だから読者の皆さんは、たいがいご存知だろうと思うが、せっかく行ったのだから少しは知ったかぶりを書かねば、と思い、紅白梅の芳香を楽しんだあと園内を散策(取材)した。この時点の翁は“先憂後楽”ならぬ“先楽後学”である。
梅園の近くに田園風景が展開する。光圀が、養嗣子(ようしし=養子の跡継ぎ)綱條(つなえだ=3代藩主)の正室・季姫(本清院)に農民の苦労を教えるために作った田圃がある。毎年、文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りをしているとか。300数十年を経てなお今日の子どもたちは、はか
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黄門様の田圃 |
江戸時代の酒亭を模した『九八屋』 |
西行堂跡と歌碑 |
らずも黄門様の教え(米作りの苦労とありがたさ)を享受していることになる。田圃の向かい側に、江戸時代の酒亭の様子を現した『九八屋』(くはちや)』という藁葺の木造屋がある。“酒を飲むには昼は9分、夜は8分にせよ”という戒めの酒亭、いや、酒飲みばかりでなく“万事腹八分に控えよ”の教訓亭と呼んだほうが適切だろう。
池(大泉水)を時計回りに1周すると出口の近くに『西行堂跡』がある。通りかかった(ご年配の)ボランティアのガイドさんに「ここに何故、西行法師が?」を訊いてみた。水戸藩初代藩主・徳川頼房公は武勇、学問(国学・儒学・神学)、詩歌への関心も深く、特に西行法師を敬愛した。その精神は2代藩主・光圀公以下末代藩主にまで影響を与え、9代藩主・斉昭公(1800年〜1860年)も正室・吉子女王(よしこじょおう=1804年〜1883年と共に西行詩歌に傾倒した。斉昭公は、西行の和歌≪道野辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち止まりつれ≫に因み、自らの筆で『駐歩泉』の碑を建て、吉子女王は西行堂にその歌の碑を建立した。斉昭公と吉子女王は、言うまでもなく10代藩主・慶篤(よしあつ=1832年〜1868年)、江戸幕府最後の将軍(15代)慶喜(1837年〜1913年)の父君、母君である――ガイドさんの熱のこもった説明に翁もかなり勉強させられた。
『小石川後楽園』では、はからずも頼房、光圀、斉昭、慶喜などお馴染みのお名前を耳に(目に)したが、翁、いつか水戸へ行って“徳川御三家・水戸徳川史”を学習してみたくなった。特に“先憂後楽”の儒教思想に近づいてみたい、そんな“先学後楽”の心境にさせられた“春の香りの誘い”であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |