龍翁余話(261)「青の洞門」(拡大版)
昨年12月中旬、4年ぶりの帰省の折、久々に耶馬渓(やばけい)を訪ねた。
耶馬溪という名の付く景勝地は日本各地、台湾にまであるが(身びいきで言えば)大分県の耶馬溪(中津市)は、その代表格。ひと口に耶馬渓と言ってもそのエリアは広く、全域に亘る奇岩・渓谷美が観光客の目を奪う。中でも翁のお薦めは深耶馬渓の『一目八景』、本耶馬溪の『岩窟の古刹・羅漢寺』、『禅海堂』、『青の洞門』(上の写真)、『耶馬渓橋』である。
大分県の耶馬溪群は“暴れ龍”と怖れられた1級河川『山国川』(延長56km)の上・中流域及び支流に点在する渓谷で、中津市、宇佐市、日田市、玖珠町、九重町一帯が1950年(昭和25年)耶馬日田英彦山(やば・ひた・ひこさん)国定公園に指定され、日本三大奇勝、新日本三景の1つに選ばれている。
目的地『青の洞門』へのアクセスは、日田市から(山国川に沿って)国道212号線を中津方面へ走れば約45分で着くが“耶馬の渓谷美”を味わいながらのドライブなら(日田市の隣町)玖珠町からの深耶馬渓経由を薦める。玖珠町から県道28号線を走ると約15分で深耶馬渓。1818年(文政元年)にこの地を訪れた頼山陽(1781年〜1832年、江戸時代後期の思想家・国学者・漢詩人)は、当時の地名『山国谷』を中国風の文字に当て『耶馬溪山天下無』と詠んだ。それが『耶馬溪』という名の起こりであるとされており、深耶馬渓の中心部『一目八景』にその碑がある。(写真2枚の奇岩は八景の一部)
『一目八景』から約20分で本耶馬溪の『羅漢寺』へ。今から約1350年前にインドから来た高僧・法道仙人が開いた古刹(曹洞宗)で、3770体の石仏、五百羅漢で有名(羅漢とはお釈迦様の高弟のこと)。寺院は羅漢山中腹の岩肌に掘られており、一般の人は歩いては登れないので麓からリフト(往復700円)を利用する。実は、リフトの乗り場近くに(目指す)『青の洞門』の主人公・禅海(ぜんかい)和尚のお堂があり、今号の余話の物語は、ここから始まる。『青の洞門』はこれより(車で)約5分の所に在る。
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禅海堂 |
禅海和尚が洞門掘削に使った大鎚(左)と小鎚とノミ(右) |
≪山国川の流れの絶えぬ限りは青の洞門は存在し、この洞門がある限り禅海和尚の名は朽ちぬ。禅海(1691年〜1774年)は越後の人、仏道修行で諸国を遍歴、当地に来たのは享保年間の末期(1730年、禅海40歳頃)。当時、この付近に道はなく、通行は山国川に突き出た岩壁に設けられた“鎖”を命綱として渡らなければならなかった。この鎖渡りで足を踏み外し、毎年、多くの死人が出ていた。羅漢寺参詣の後、その難儀を知った禅海は一大誓願を起こし、中津藩の許可を得て独りノミと鎚で大岸壁に立ち向かった。当初、村人たちは“気違い坊主”と嘲笑い、誰一人として協力する者はいなかったが、和尚の鎚音は日夜冴え渡り、1年1年洞は深さを増した。和尚の不動心に動かされた村人たちは次第に和尚と共に鎚を打つようになり、悲願30年(1763年、和尚72歳の時)遂に洞門は成就した≫・・・(禅海和尚は83歳で没)(『禅海和尚碑文』より)
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禅海和尚像 |
禅海が掘削した現存のトンネル(『洞門』の車道の川側の洞窟) |
記録によると≪遂に30年の星霜を経、3箇所の岩を切り開き全ての長さ百間(約180m)、縦横二丈(約6m)四方、人馬幾ばくうち集いても何障ることなき。洞中幽邃(ゆうすい)故に処々岩に窓を穿ち陽光を採りたり・・・≫翁(保存さている)“禅海隧道”を実際にくぐってみて、確かに“陽光あり、人馬幾ばくうち集いても何障ることなき”を実感、30年の血と汗と涙の執念に身震いした。1906年(明治39年)から翌年にかけて陸軍の日出生台(ひじゅうだい)演習場(玖珠町、九重町、由布院にまたがる広大な台地。現・陸上自衛隊西日本最大の演習場)への輸送路整備が行なわれ、車両が通行出来るように拡幅された結果、禅海和尚たちが完成させた当時の原型はかなり失われ、現在は『青の洞門』(トンネル)の山国川側に(洞窟風に)保存されている。
この史実を元にして書かれたのが1919年(大正8年)に発表された菊池寛の小説『恩讐の彼方に』である。この隧道は幕末から明治以降は『青の洞門』と呼ばれていたのだが、小説では“桶田の刳貫(くりぬき)”と呼ばれ、禅海の名も了海とされている。禅海は越後高田藩士の子、幼名を福原市九郎といい、父の死後、母と共に江戸(浅草)へ出る。小説では、ふとしたことで世話になった旗本・中川三郎兵衛(四郎兵衛という説もある)を殺害して出奔、各地で悪事を働きながら西へ下る。そして肥前国耶馬渓の“鎖渡り”の悲劇を目の当たりにするや、それまでの己れの悪行を悔いて出家し、罪滅ぼしに岩壁の掘削に生涯をかける。その間、殺された旗本・中川三郎兵衛の息子・実之助が親の仇を討つため長年、禅海の後を追い、遂に耶馬渓で出遭うも、禅海と村人たちの必至の命乞いで“3年待つ”の約定を交わす。しかし実之助は、日夜一心不乱に岩を砕く禅海の鬼気に打たれ、自らもノミと鎚を手にする。約定の3年後に完成するや禅海は実之助に「お待たせした。さ、お父上の仇を討ちなされ」と促す。しかし、実之助は禅海の手を握り締め、涙を流しながら言う「和尚の30年のご苦労は、この先、どれだけの人の命を救うことでしょう。私の憎しみも苦しみも悲しみも、全て山国川に流しました」・・・これは、菊池寛の創作である。
(冒頭の写真のように)山国川を挟んで見る『青の洞門』の真上には、景勝地の多い本耶馬溪の中でも屈指の美しさを誇る岩峰『競秀峰』が文字通り勇姿を競っているが、実は昨年7月の集中豪雨で“暴れ龍”(山国川)が牙を剥き、大駐車場を水浸しにして土産店や食堂を呑み込んだ。また、川岸や洞門の一部も破壊した。年間約170万人の観光客で賑わう絶景の地も、翁が訪れた時は改修工事の最中で通行止め、人影もまばら。翁、いつの日か、真っ赤に映える紅葉期の再訪を期す。
さて、翁お薦めのもう1つのスポットは『青の洞門』から約50m先の山国川に架かる『耶馬溪橋』。日本最長で唯一の8連石造アーチ橋、大分県の有形文化財であり日本百名橋の1つ。1923年(大正12年)竣工、橋長116m、最大支間12.8m、アーチの高さ3m。地元では“オランダ橋”という愛称で親しまれているが、何故に“オランダ橋”なのか、中津市教育委員会(文化財係)の三谷さんに訊いてみた。「長崎県下の石橋に多く見られる水平な石積みを採用しているので、雰囲気的に長崎が連想され、誰言うとなく、いつからか”オランダ橋“と呼ばれるようになりました」とのこと。ともあれ、名勝地『耶馬溪』の渓谷美とあいまって、独特の建造美を創り出している様は、観光客の足を止めるに充分な見応えである。
山国川沿いの所々にサイクリング・ロードが見られる。かつての耶馬溪鉄道(軽便鉄道)(1913年〜1975年)の線路跡だ。翁も子どもの頃(軽便に)2,3回乗ったことがある。ドライブ中の車窓から懐かしさが込み上げる。【軽便に ゆらり揺られた 耶馬の溪(たに) 今懐かしむ 景色(すがた)変わらじ】・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |