龍翁余話(253)「日光東照宮と紅葉めぐり」
「日光を見ずして結構と言うなかれ」という言葉がある。日光東照宮の漆塗りで極彩色に飾られた権現造り(日本独自の神社建築様式、石の間造りとも呼ばれる)の美しさは結構と言うにふさわしい、との語呂合わせだろうが、実際に東照宮の境内に足を踏み入れると、“まことに結構”を実感する。先日、遠来の客と一緒にビューバスの『日光東照宮と紅葉めぐり』に参加した。日光東照宮については、読者各位は既にご承知のことと思うし宣伝臭くなっても仕方ないので、巫女さんのガイドの興味深い部分だけをピックアップする。まずは『五重塔』。朱色を基調とし金物・組物・彫刻を極彩色で彩る造りで東照宮の入口にふさわしい豪勢な建造物。塔の中心に心柱(しんばしら=写真右)が据えられ、その耐震構造は東京スカイツリーにも応用設計されたそうだ。この心柱は東照宮400年祭(2015年)のプレ企画として来年3月まで特別公開されている。奇しくも五重塔の敷地の標高は東京スカイツリー(634m)とほぼ同じ高さとのこと。
日光東照宮の沿革の概要は(巫女さんの解説によると)1616年に駿府(静岡)で死去した徳川家康(享年75)の遺言で遺骸は久能山に葬られ、同年に久能山東照宮が完成したが、翌年(1617年)日光に改葬、朝廷から“東照大権現”の神号が与えられ日光東照宮と呼称。1634年に3代将軍家光が大改築を行ない、その後の随時の改築によって今日の荘厳華麗な社殿が完成。なお、江戸城本丸から日光東照宮本殿への方位角は一直線上にあるそうだ。
表門の石段(写真左)を上がると上・中・下の『三神庫』(写真中)。武者行列に使用される1200人分の装束や舞楽用の衣装が納められている。上神庫の屋根妻面に狩野探幽(江戸時代を代表する絵師)が下絵した『想像の象』の彫刻(写真右)、その時代、日本で実物の象は見られなかったのに探幽が想像した“象”は耳の形が違うだけで、ほとんど実像そのもの。「探幽の想像力は私たちの想像を超えます」の巫女の弁に翁も同感。
『三神庫』の反対側に『神厩舎』。普段、なかなか顔を出さない神馬、今日はご機嫌だったようだ。その馬小屋にかの有名な『三猿』の彫刻。3匹の小猿が目・耳・口を塞ぎ(悪いことは)“見ざる、聞かざる、言わざる”。これは幼児期の躾の意味だそうだ。馬小屋に猿の彫刻があるのは、古くから猿は馬の守神と謂われてきたから、とのこと。
日光東照宮の象徴的、中心的建物は『陽明門』(写真左)。正面の軒唐破風(のきからはふ)には
“東照宮大権現”の額が掲げられ、当時の最高峰(技術)の彫刻は503体にも及ぶ。一日中見ていても飽きないことから“日暮門”とも呼ばれる。家康公の墓地(奥宮)へ向かう石段の上り口に、名工・左甚五郎の作とされる『眠り猫』の彫刻がある(写真右)。家康(の墓)を護るために寝ているふりをして、侵入者に対していつでも飛びかかれる姿勢が窺える。そのほか鳴龍の『薬師堂』(改修中)、神輿が納められている『神與舎』『祈祷殿』『廻廊』『唐門』『拝殿』『本殿』など、いずれも国宝・国の重要文化財ばかり。1999年(平成11年)に日光東照宮、二荒山神社、日光山輪王寺が『日光の社寺』として世界遺産に登録された。それらを全部解説するには“日暮帖”になってしまうし、ガイドの巫女さんもお疲れのようだったので丁重にお礼を述べてから、紅葉巡りに出かけることにした。
『日塩もみじライン』(鬼怒川温泉と塩原温泉を結ぶ約30km、標高1000mの高原道路)沿道の紅葉は、まさに“燃える秋”。しかし『ハンターマウンテン塩原』の紅葉ゴンドラ(往復60分)では小雨と霧に遭い視界ゼロ、龍がのたうつ姿を思わせる荒々しい『龍王峡』の大景観も雨と夕暮れでカメラに収められなかったのは残念。
遠来の客を接待するにあたり急に思い立った日光の旅、翁は約35年ぶりの日光詣でだったが紅葉巡りは初めて。客人も勿論初めて。お互いに随所で「日光、最高、まことに結構」を連発した。日帰りの強行スケジュールにしては疲れも心地よく、夜遅くまで“日光の美”の歓談を通して“結構な友情”を温め合った・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |