龍翁余話(238)「あれから16ヶ月、相馬市の今」(拡大版)
とにかく一度、相馬市に行きたかった。『相馬盆歌』を地元で聴きたいし、テレビでしか視たことがない『相馬野馬追(そうま のまおい)』(国の重要無形民俗文化財)を直接観たいし、日本百景の1つ『松川浦自然公園』を歩きたいし、そして平安時代中期の関東一円の豪族・相馬小次郎こと平将門(たいらのまさかど)を輩出した平家の名門・相馬(中村)藩の歴史を辿ってみたいし、などなど歴史好きの翁にとって相馬は、まさに垂涎の郷――加えて、相馬市と縁が深い(翁の親友で)音楽家の熊坂良雄(バリトン)・牧子(ソプラノ)夫妻から“相馬の魅力”を度々聞かされていたことも“垂涎”を深めた理由の1つだ。
相馬氏が奥州相馬(現在の福島県浜通り北部一帯)に移って来たのは鎌倉時代末期、それまでは下総国東葛飾郡流山(熊坂夫妻が住む現在の千葉県流山市)を拠点に勢力を張っていた。その歴史に基づいて両市は1977年(昭和52年)姉妹都市盟約を結び、スポーツ・文化の交流を通して市民相互の友好と親善を深めている。オペラ歌手・熊坂牧子さんは15年前から流山市ロータリークラブのメンバーとして相馬市との交流(特に音楽交流)を続け、彼女をして「相馬市は第2の故郷」と言わしめるほど“相馬への想い”が強く、これまでに10回を超えるコンサートを(相馬市で)行なった。昨年3.11の東日本大震災直後、流山市で“被災地相馬市を救おうキャンペーン”『届け歌声、相馬の空へ』と題するチャリティコンサートを3回開催し、募金活動の全額を義援金として相馬市に贈った。その後も相馬市の小学校や福祉センターホール、介護老人施設などで(相馬市在住の)ピアニスト・森知子さんと一緒に“愛のコンサート”を行なった。そして年が変わって去る6月30日、(前号の『余話』で紹介したように)流山と相馬両市のロータリークラブが主催、牧子さん率いる《アンサンブルミューズ》の出演で『情熱の翼コンサート』が相馬市総合福祉センター(はまなす館)で開催された。その機会に翁、初めて(念願の)相馬入りを果たす。
相馬市へのアクセスは、本来なら常磐線(東京・上野駅から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県・仙台駅まで)を利用するのだが、昨年3.11の大震災による被害で数箇所の線路や駅が破壊され、また、福島原発事故による警戒区域設定で運休区間もかなりある。相馬駅は線路共に健在だが(写真左)2つ隣の新地駅は、駅舎も線路も影も形も無くなっている(写真右)。したが
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って相馬に行くには(仙台経由もあるが時間的には)福島駅からバスかレンタカー、ということで、今回のコンサートには出演しなかった良雄さんが翁のためにわざわざ福島駅まで(レンタカーで)出迎えてくれた。良雄さんも相馬市は詳しい。彼の運転で国道115号(相馬街道または中村街道とも言う)を軽快に走る。約55キロ、約1時間40分で相馬市街に入る。コンサート開場時間までに良雄さんの案内で“被災地”を巡った。これまでに多くの悲惨な被災写真を見ていたので、その残影が脳裏から離れていなかったせいか、市内を走っても「え?どこが被災したの?」と拍子抜けするくらい平穏で整然とした街並みに驚き、安堵する。「市街地は地震による家屋の損壊などはありましたが津波被害からは免れました」と良雄さんの説明。しかし、海(松川浦)の周辺で遂に被災の惨状を目のあたりにすることになる。
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松川浦の堤防堤の残骸 |
松川浦大橋脇の水産会社 |
地震と津波被害の家屋 |
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ガレキの山はまだ各所に点在 |
町が消えた。家屋は流され土台だけ |
墓石は流され、1箇所に寄せ墓 |
3.11、東日本大震災で相馬市は震度6弱、更に7メートル(場所によっては9メートル)を超える大津波に襲われ、住宅・建物被害(全・半壊)1802件、死者458人(行方不明者はゼロ=今年6月現在)を出した。死者のほとんどは津波による犠牲だそうだ。翁と良雄さん、松川浦に向かって黙祷、犠牲者のご冥福を祈る。
国道6号が相馬市を縦貫しており、相馬市と隣の相馬郡新地町の間の約10キロをバイパスが走っている。このバイパスの海側(松川浦側)一帯が甚大な被害を受けたのに山側は殆ど無傷、「バイパスが防波堤の役目をした」と良雄さんは言う。確かにそう思える光景だ。
松川浦漁港は従来、カレイ、タコ、ホッキ貝、アナゴ、ヒラメ、メバルなど全国的に上位の陸揚量を誇っていた。去る6月22日、1年3ヶ月ぶりに再開した漁でミズダコやヤナギダコを大量に水揚げした漁師さんたちだが素直に喜べなかったという。福島第1原発から北約45キロの松川浦漁港、放射性物質検査を受け、ボイルしてから県内のスーパーに出したそうだが、風評被害が無くならない限り漁師の生活は元には戻るまい。気の毒だ。
急ぎ足(ドライブ)での被災地巡りで上っ面だけの取材だったが、良雄さんの適切な説明でほんの少しだが実態を知ることが出来た。市の復旧復興計画については市のホームページに掲載されているのでここでは割愛。締めはやはり『相馬野馬追』がいい。相馬野馬追は旧相馬藩領(福島県浜通り北部=相馬市、南相馬市ほか周辺の町村)で行なわれる神事。昨年は、あの大震災で一時、開催が危ぶまれたが、結局は規模を縮小し、鎮魂祭『東日本大震災復興 相馬三社野馬追』として例年と同じ時期の7月23日、24日、25日の3日間行なわれた。今年は(例年より1週間遅い)7月28日から30日までの3日間開催される。
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妙見相馬中村神社 |
相馬野馬追・出陣式(インターネットより) |
この神事は1000年以上も前、相馬氏の遠祖・平将門が下総国流山にて野生馬を放ち敵兵に見立てて軍事訓練をしたことに始まる、とされている。したがってこの祭りの時には民謡『相馬流れ山』が歌われる。出陣式は妙見相馬中村神社で。例年だと総大将には代々相馬家当主が務めるのだが、今年は(昔風に言うと)“相馬家第34代御当主・行胤(みちたね)公の御下命により本年の総大将は立谷秀清市長が代行することと相成り候”。なお、立谷市長の総大将は一昨年以来2年ぶりだそうだ。頭数は例年だと約500頭だが、今年は400頭、やはり昨年の大地震や大津波によって馬や馬主さんが犠牲になったのかも。それでも「ハイライトは甲冑競馬と神旗争奪戦、これは圧巻ですよ」と相馬野馬追執行委員会の徳沢さんはPRする。なお、翁はかつて米沢市の『上杉祭り』の最大イベント《川中島の合戦》を観た。その時の100頭近い馬と乗り手は相馬からの援軍だったとか。
相馬に関係する興味深き歴史上の人物は多々いるが、翁が特に関心を寄せているのが二宮尊徳(江戸時代後期の農政家・思想家、通称“金次郎”)の高弟で相馬中村藩士・富田高慶(とみたたかよし=あだ名は弘道)という幕末から明治中期にかけての報徳運動家(尊徳の娘婿)。彼は尊徳の指導を受けて相馬の農業改革に尽力した。翁、高慶を通して二宮尊徳の『報徳仕法』なるものを学びたいという新たな学習テーマが出てきた。そんな機会を与えてくれた熊坂夫妻に感謝。
“垂涎の郷”の感をいっそう強めた相馬の旅であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |