龍翁余話(212)「3・11あの日を忘れない」
先週号(新年号)の『龍翁余話』(211)『一年の計は元旦にあり』の中で翁「元旦になって“さあ、今年は何をしようか、何が出来るだろうか”では出足が鈍る。旧臘(きゅうろう=去年の12月)、いや、それよりずっと前から計画(戦略と戦術)を練っておく必要がある」と書き、更に結びの前に「今年やりたいことが幾つかあるものの、正直なところ、まだ具体的な計画は立てられないでいる。震災・津波・原発事故被災地取材も計画の1つ」と記した。
翁がぐずぐずしている間に、翁の友人の幾人かが、とっくに“被災地訪問”を実行した。
たとえば翁が所属している日本災害情報サポートネットワーク(J―DINS)の渡辺理事長ほか関係者は、いち早く岩手・宮城・福島の各地を取材、地元メディアとの情報交換などで“災害情報サポート”の役割を果たした。J―DINSの会員(アマチュア無線家たち)の活発な情報収集・交換活動も注目された。また、翁が2年前(の大手術)からお世話になっている慶応義塾大学病院の中田先生(薬剤部)は、ガソリンや食料、医薬品、宿舎などが乏しい発災直後に医療支援チームの一員として被災地に赴き、大勢の患者たちに光を与えた。(『余話』に数回ご登場いただいている)翁の親友で音楽家の熊坂牧子さんは、地元(流山市)でチャリティコンサートを開き、その義援金を福島県の相馬市長に届けたり、グループの人たちとワンボックス・カーに救援物資をいっぱい詰め込んで同市を訪問したりなど、歌と物資で被災者に安らぎと喜びを与えた。翁の後輩・西田君(NISHIDAプロモーション社長)は仕事抜きで名取市(仙台空港周辺)の津波の爪痕を映像に残した。また、J―DINSの仲間の芹沢さんは仕事を休んで福島市に行き、救援物資の仕分けなどのボランティアを経験した。この友人たちが、未曾有の大惨事に見舞われた被災現場で受けた共通の印象は「テレビなどの報道で涙するシーンを沢山視たが、現地ではテレビや新聞では分からない異様な臭いと空気が全身に伝わり、自然災害の恐怖の現実に立ちすくみ、被災者の深い悲しみ、壊滅的な被害状況を目のあたりにして私たちは言葉を失った」であった。
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「仙台空港」の被災前(左)、被災直後(右)の比較写真(米国ABCニュースより) |
さて、つい先日、翁の長年の親友で静岡在住の森さんから、実に貴重な本を贈っていただいた。その本のタイトルは『東日本大震災・特別報道写真集(保存版)〜3・11あの日を忘れない“いわきの記憶”』(いわき民報社)。その写真集の中ほどに『3.11未曾有の大震災発生 平豊間地区 直撃した大津波が全てを奪い去る』の見出しで3枚の写真が掲載されている(写真右)。3枚とも(上記)森さんの友人で、平豊間地区で民宿(えびすや)を経営していた鈴木利明さん(64歳)が撮影・提供したもの。この写真の中に、一人の人間の生死に関わる運命的ドラマが潜んでいる。写真(3枚の写真の左上)ではよく分からないが、(森さんの話によると)鈴木さんが、自分の民宿が津波に呑まれて流されていく様(さま)を撮影していた時、どこからか「お父さ〜ん!お父さ〜ん!助けて!」の女性の声。鈴木さんは(写真左上の、中央折り目のあたり)濁流の中でもがいている女性を見つけた。
「あっ、直美だ!」何と自分の娘ではないか、鈴木さんは絶叫した「何か動かない物に掴まれ!手を離すな!頑張れ!頑張れ!」鈴木さんの悲痛な叫びが神に通じたのか、直美さんは幸いにも小屋の柱らしき物に掴まることが出来、津波が引いた一瞬、必死の泳ぎで陸地に辿り着き一命を拾った、とのこと。父と娘が遭遇した“奇跡のドラマ”が1枚の写真に記録されている。
『“いわきの記憶”』の後半のページは、各地区の惨憺たる“刻まれた傷跡”が紹介されていて心が痛むが、エンディングにさしかかると、子どもたちの笑顔、被災者同士の心の寄り添い、避難所に広がる元気な笑い声、支え合い、犠牲者への冥福の祈り、そして明日へ(希望の光)、に翁はホッとする。最終ページの、被災した野球のグラウンドで練習に励む海星高校野球部員たちの逞しい姿が印象的だ。「夢をあきらめない、心から笑える日が来ることを信じて」のメッセージに胸を打たれる。
この写真集が『一年の計』の具体的計画が立てられないでもたついている翁の背中を押してくれた。遅ればせながら、暖かくなったら、いわき市をはじめ被災各地を取材したい。そして日本中の人に呼びかけたい「3.11 あの日を忘れない」ように・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |