龍翁余話(185)「小田原城址公園で喜寿のお祝い」
その人と最初に出会ったのは今から27年前、ニューヨーク・五番街『ティファニー』の前で撮影していた時のこと。通りかかった中年の日本人紳士から声をかけられた「テレビの撮影ですか?」「はい、アメリカ横断の旅、ニューヨークからの出発です」「そうですか、五番街や筋向いのマディソン・アベニュー(街)は、ニューヨークの象徴的なショッピング街ですから・・・」それから数分、翁はその紳士と立ち話をした。「昔、オードリ・ヘプバーン主演の“ティファニーで朝食を”という映画がありました。だから私(翁)は、ティファニーはてっきりレストランとばかり思い込んでいました(実際は世界的に有名な宝飾品・銀製品のブランド)」など他愛ない話の後、その紳士は「私はここ(ニューヨーク)で仕事をしています。何かお役に立てることがありましたら、いつでもお声をおかけ下さい」いただいた名詞には某大手商社のニューヨーク支店長T・Sとあった。翁は、ニューヨークには数回来ているので、マンハッタンのおおまかな状況(事情)は知っているつもりだったが、Sさんのような長年の現地駐在員(生活者)にサポートして貰えれば、こんな心強いことはない。翁たち撮影クルーは1週間ほどニューヨークに滞在したが、その間、Sさんとは何回かお会いした。Sさんは翁より少し年上だが、いつしか“10年の知己”となり、以来、翁がニューヨークに行く度にお世話になった。そして、今も交友関係は続いている。
Sさんは定年退職して(9.11の前に)帰国、その後は関連会社の顧問となり、住まいの小田原市から週に2回上京していたが、翁とは月に1回くらい会食、情報交換をした。長年、商社マンとして世界を観てきた人だけに国際情勢の分析力はさすが。翁、随分、勉強させて貰った。彼は5年ほどで顧問勤務を辞め、その後、地元の文化活動に尽力された。
したがって彼とお会いする回数は減ったが、メールや電話はしばしば。翁が2009年8月と2010年1月の2回、ガン手術をしたが、たまたまSさんも2年前、胃ガンの手術をされた。
去る日、Sさんのお誕生日・喜寿のお祝いに招かれた。メールによる案内状には、何と「6月某日、集合場所は小田原城天守閣広場」とある。「いま、小田原城址公園でアジサイ・花菖蒲まつりが(6月26日まで)開催されています。約8,000の花菖蒲、約2,100株のアジサイを愛(め)でながら喜寿を祝っていただければ幸甚です」と(郷土・小田原を愛する)文化人・SさんらしいPR織り込みの案内状だった。ともあれ、3年ぶりの再会とあって翁のハンドル捌きも軽やか。その日は天気もSさんの喜寿を祝うかのように雨期には珍しい快晴であった。
ウイークデーとあって、昼の祝宴はSさんのお身内の参加はなく、Sさん夫妻を中心に地元文化ボランティア活動のお仲間8人と翁の11人、いわば“老人会”の様相。公園の奥に常設されている木のテーブル(2卓)が“宴会場”だ。この2卓、お仲間の数人が早く来て陣取ってくれたらしい。勿論、他のテーブルには大勢の見物客が座ってそれぞれ飲食しているが、アルコール類は見当たらなかった。我らが宴卓の上はS夫人の手料理が中心の豪華な食べ物がずらり。おっと、S夫人とはニューヨーク以来、約15年ぶりの再会、お互いに歳はとったが、夫人の明るく優しい人柄は以前のまま、(Sさん同様)翁との再会をとても喜んでくれた。お仲間たちも初対面の翁を大歓迎してくれ、嬉しかった。仲間のKさんは郷土史家、翁が歴史好きだと知ると「次回、小田原城跡を語りましょう」と約束してくれた。約3時間の祝宴は、あっという間だった。Sさん夫妻は言うまでもなく、参加者全員がアジサイと花菖蒲と語らいを満喫したようだった。
8世紀頃の中国の自然詩人・王維(おうい)が親しい友人(武将)の裴迪(はいてき)に宛てた詩『酒を酌んで裴迪に与う』の結句に“世の中のことはすべて浮雲の如くはかないもので問題にするに足りない。むしろ悠々として英気を養うにこしたことはない”というのがある。だが翁の思いは少し違う。世の中のことを浮雲の如くはかない、と諦めてはいけない。大震災のことも原発のことも経済のことも教育のことも外交のことも問題にしなければならないことは沢山ある。ただ、我々は時に泰然として英気を養う必要がある。それだけは王維に同調する。とまれ、Sさんの喜寿のお祝いに招かれたお蔭で新たな友人たちを得、翁にとっては英気以上の“喜び”を実感した日であった。Sさんご夫妻と気のいい仲間たちの健勝を祈り、再会を願いつつ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |