龍翁余話(178)「昭和記念公園と昭和天皇記念館」
母や兄の存命中は、春のゴールデン・ウイークと8月のお盆は必ず大分県へ帰省し、家族団欒、一族の親睦を図るのが翁の大型連休の過ごし方だった。それも混雑が始まる数日前から混雑が終わる数日後まで、春も夏もそれぞれ2週間以上の大型バケーションだった。母や兄が続けてこの世を去ってもう10年、“定期帰省“はなくなり「はて、この10年間、春の大型連休は、何をして過ごしたのだろう?」と、直ぐには思い出せないほど無為徒食の日々だったような気がする。理由がある。歳を重ねるごとにますます混雑(人混み、交通渋滞)を避けるようになった。つまり(ゴルフ以外は)”出不精“になってしまったというわけ。
今年も大型連休がスタートした。初日の4月29日は『昭和の日』。もともとは『昭和天皇誕生日』(昭和23年までは『天長節』)、1989年(昭和64年)1月7日の昭和天皇崩御により、同年4月29日からは『みどりの日』と改称、2005年(平成17年)に『昭和の日』となり、それまでの『みどりの日』は5月4日に移動した。『昭和の日』の主旨は「激動の日々を経て復興を成し遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とされている。その主旨を改めて噛み締めるため、翁、『昭和天皇記念館』参観を思い立った。
『昭和天皇記念館』(以下、記念館と言う)は、東京都立川市と昭島市に跨る『国営昭和記念公園』(以下、記念公園と言う)の中にある。記念公園への入口は、西武拝島線武蔵砂川駅からの砂川口、玉川上水口、JR青梅線東中神駅からの昭島口、JR中央線立川駅または多摩都市モノレール立川北駅からの立川口、あけぼの口、そしてもう1つ、JR中央線立川駅でJR青梅線に乗り換え1つ目の西立川駅からの西立川口の6箇所ある。翁、西立川口を選んだ。
この記念公園は、昭和天皇の在位50年を記念して1976年(昭和51年)に立川飛行場跡地に国営として開園された。資料によると1922年(大正11年)に陸軍航空部隊立川飛行場。戦後はアメリカ軍が接収、航空基地として使用されるも1956年(昭和31年)日米安保条約に基づいて米軍と陸上自衛隊(航空部隊)の合同使用の立川航空基地(立川飛行場)となり、さらに1972年米軍は横田基地(東京都福生市)に移籍、陸上自衛隊専用の立川駐屯地となった(記念公園に隣接)。この駐屯地は“立川広域防災基地”という特殊な性格を持ち災害発生時には映像伝送装置を搭載したヘリコプター部隊が緊急発進し、被災現場の空からの映像を東部方面総監部、総理官邸などにリアルタイムで配信する。3.11の東日本大震災及び東京電力福島第一原発事故で(現在も)活躍している。もう1つ知られていることは2004年から毎年10月頃、箱根駅伝の予選会がここで行なわれる。立川飛行場滑走路からスタートして立川市街地を抜け記念公園のゴールまでを走り箱根駅伝出場権を競う。
さて、入口で公園マップを貰い、まずは記念館へ。とにかく広い。東京ドームの約40倍だそうだ。西立川口のゲートをくぐって真正面にある水鳥の池から記念館まで約25分(JR立川駅からの、あけぼの口方面)。“昭和天皇記念館”と言うから、いかつい建物かと思っていたら、何と美術館風の現代建築(写真左)。館内中央に国産初の御料車ニッサンプリンス・ロイヤル(写真中央)、その近くにお召し列車の模型(写真右)。
周囲に昭和天皇の生物学のご研究物や昭和天皇と香淳皇后の遺品、写真などの資料が多く展示されている。中でも翁が昭和天皇・香淳皇后を親しく偲ぶことが出来たのは、天皇のお誕生から幼児時代、ヨーロッパ留学時代、良子(ながこ)女王とのご結婚、天皇即位、皇太子(昭仁親王=今上天皇)お誕生、開戦、終戦、戦後の全国ご巡幸、園遊会、皇太子ご成婚、諸外国親善訪問などの記録をまとめた10分ほどのビデオ『昭和天皇87年のご生涯』だった。もう一つ印象的だったのは、展示場の入口に掲示されている昭和天皇の御製『わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり』(昭和62年歌会始)、この句、東日本大震災・福島原発事故災害の復旧・復興への、昭和天皇の深い祈りに思えてならない。
記念館から引き返し、日本庭園のサツキ(写真左)、原っぱ西花畑のチューリップ(写真右)、そのほか菜の花畑やポピー畑などを見て回った。こんなに”花“を堪能したことも珍しい。それにしても、よく歩いた。マップを見ると園内の半分しか回っていないのに述べ4時間も歩いた。勿論、途中で休憩は入れたが、帰りの電車の中でズキンズキンが始まり、足を引きずってようやく帰宅したものの、帰宅後は両方の足首と太腿に激痛が走り、その夜はまともに眠ることが出来なかった。『昭和の日』、昭和を顧みる試みはよかったが、体力(特に足腰)の衰退を改めて思い知らされる一日であった。翌日、ある友人に「昭和の男(龍翁)は気力旺盛だが、体力の衰退が甚だしい」と弱音を吐いたところ、彼いわく「体力減退の言い訳を年齢のせいにしないこと。普段の適切な運動(散歩など)の継続が大切」と励ましてくれた。その通りだが、やはり人間”身の程を知る“が一番。”程“が過ぎて痛い目に遭った大型連休の始まりであった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |