「よく渡ったわね〜」と、私は夫に言った。東京湾アクアラインのトンネルの坂道を昇り詰めた、海ほたるの真下、地上への出口辺りだった。陽の光が、痛いほどにまぶしく突き刺さる、長く暗いトンネルを抜けた瞬間だった。「海に蛍はいないのに、どうして“海蛍”という名前なのかな?」なんていいながら。その時、小さい頃、月の光がない暗い闇夜の海を、さっと手ですくうと、星の様にきらきらと光るものがあったことを想い出す。プランクトンだ。子どもながらに、海の蛍だと信じていた。東京湾アクアラインのトンネルを抜けた時、海蛍のことを想い出すと同時に宮城県の“ひまわり”のことも思い浮かべた。闇の中に光る蛍のような宮城県の“ひまわり”・・・・
テレビ、新聞やインターネットなどのマスメディアを通して、東日本大震災の救済活動と復旧活動の様子や、避難生活を余儀なくされている被災者の様子を報らされるたびに五臓六腑がえぐり取られるような痛切な思いに陥ってしまう。それでも、中には、東京在住の私たちが逆に励まされたり、襟を正されたりすることもある。その1例――気仙沼港から船で25分ほどの気仙沼湾内に浮かぶ周囲24キロの美しい島・“緑の真珠”と詠われていた大島(東北最大級の有人離島)、「早春の大島へ椿を見に行こう!」キャンペーンが始まったばかり。しかもその初日が3月11日、その日の午後2時46分に起きた東日本巨大地震は岩手・宮城・福島3県に甚大な被害をもたらし、この大島も地震・津波・火災の被害に見舞われ、あわや孤立する恐れがあったほどの惨状と化した。そんな状況の中で孤立を救ったのが42人乗りの臨時船“ひまわり”。船長の菅原進さん69歳も被災者のひとり、避難所生活を送りながら、人と物資を運ぶために大島と気仙沼を毎日4往復している。地震直後に津波から“ひまわり”を守るため“ひまわり”に乗り込み沖へ向かい、高さ10メートル近い大波を何度も乗り越えたという。『逃げたら転覆する。前に進むしかない』と“ひまわり”と自分に呼びかけたそうだ。年季の入った“ひまわり”は、床の板材がきしみ、操蛇輪(そうだりん)にもさびがついているが、島の明日には欠かせない交通手段。「太陽に顔を向けているひまわりが好きで名付けた。少々古くてもあの大波をこえることができた。島民がみんなで力を合わせれば島は甦る」と菅原船長は言う。島で唯一、損傷を免れた“ひまわり”は今日も休まず、島の命に灯をともし続けている。
ところで、“ひまわり”といえば、もう二つ、私の心に浮かぶものがある。1つは、女流講談師・日向ひまわりさん(本名:鵜久森真弓さん、広島県出身)、2008年5月に真打昇進した。まだ二つ目で駆け出しだった頃の彼女と、兄貴分玉三郎こと中條氏を介して出会い、陰ながらその成長を応援してきた。「ひまわりさん、私はさくらっていうの、一緒に明るい華を咲かせましょうね」と話したものだ。どの業界でもあるように、彼女も荒波を乗り越えながら、プロフェッショナルの世界で生き続けている。それでも、あの駆け出しの頃と全く変わらない、明るさと謙虚さが、“ひまわり”の華を一層美しく咲かしているとファンの私には感じる。もう1つは、伊藤咲子が歌った“ひまわり娘”(作詞:阿久 悠・作曲:Shuki
Levy)だ。若い頃、よく歌った歌のひとつ。特に、『涙なんかしらない いつでもほほえみを』という歌詞は、私の姉が妹である私によく言う「あなたの笑顔がとっても素敵だよ」を連想させるから、励みになる。さくらも時々“ひまわり”に憧れるという訳だ。
さて、冒頭に書いた東京湾アクアライン、昔はゴルフラインとも呼ばれたそうで、もっぱらバブル期のゴルフプレーヤーに利用されたらしい。しかし、私にとっては、ゴルフではなく、介護や看病でよく利用したラインだ。義両親の入居した老人ホームが君津に、そして入院した病院が鴨川にあったから、本当に毎日のように通った。雨の日も晴れの日も、強風で通行止めにならない限り、通った。時に朝陽に向かって、時に夕陽に向かって、月に照らされる夜も、闇夜の時も、走り続けた、蛍のかすかな光を求めるようにして。大きな任務を終えた時のような開放感と充足感、そして寂しさを感じる今は、“ひまわり”の明るさを想いながら、桜の開花を楽しみにしている。今日4月3日は私の誕生日、「あなたの素敵な笑顔がズッ〜とズッ〜と輝き続きますように」姉から届いたバースデーカードにしたためてあった。さくらつぼみ51歳、まだまだ笑み続けます、っと呟く、さくらの独り言。 |