龍翁余話(159)「義士伝・徳利の別れ」
時代劇好きな翁、とりわけ12月は、やはり忠臣蔵関連の映画・テレビドラマ・芝居がいい。昨年のこの時期『余話』(109)に書いた『最後の忠臣蔵』(東京・明治座公演)――元禄15
年(1702年)12月14日の深夜(正確には15日午前3時ごろから明け方にかけて)、赤穂義士(47名)は本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入り、主君(赤穂藩主・浅野内匠頭)の仇を討って芝・泉岳寺へ引き揚げる途中、大石内蔵助(西郷輝彦)は足軽(武士の小間使い)の寺坂吉右衛門(中村梅雀)を呼び寄せ「討ち入りの真実を後世に伝えること、天野屋利兵衛(大阪の豪商)に預けてある資金を使って、旧・赤穂藩士の暮らし向きを助けること、したがってお前は直ちにこの場を去り、生き証人として命を永らえよ。但し、お前は足軽とはいえ忠義の士に変わりなく四十七士の一員であることを認めおく」と下命した。皆と共に死を覚悟していた吉右衛門にとって、それはあまりにも非情な使命であった。案の定、一時期“死にそこないの臆病者、卑怯者”と罵られたが、献身的に旧藩士の家族を訪ね歩く歳月の流れと共に、人々は彼を“最後の忠臣”と褒め称えるようになる・・・寺坂吉右衛門、83歳の波乱の生涯を描いた芝居――
で、今年も“忠臣蔵に関するテーマを”と思っていたら、時々『余話』に登場していただく親友のCさんこと(この際、本名で)中條さんが幹事を務める『なだ作迷人会』(第23回)のご案内状を頂戴した。出演は講談師・宝井琴調、演目は、嬉しいことに『義士伝・赤垣源蔵 徳利の別れ』、しかも開催日は12月14日“義士討ち入りの日”当日である。
『なだ作迷人会』とは(これも『余話』で過去に紹介したことがあるが)有楽町にある家庭料理中心の居酒屋“銀座なだ作”を借り切って落語・漫談・講談などを催す会。40人程度の会だが、演者と観客が一体になれる“家庭的な演芸の場”。最初の頃は若手芸人を励ます会だったので“迷人会”としたのだろうが、二ツ目だった彼らも今や出世して真打となり、存分に活躍している芸人も多くいる。その彼ら、無名時代に『なだ作迷人会』に招かれた恩義を忘れず、真打になっても(安いギャラでも)快く呼びかけに応じている。宝井琴調さん(真打・講談協会理事)のような大ベテランもその1人。だから、そろそろ会の名称を『なだ作名人会』または『なだ作寄席』にしたらどうだろうか、と中條さんや、もう1人の世話人であり玄人はだしの名司会者・佐野さん(医用機器関連会社社長、芸名・あやし家ねつ蔵)に提言しようと思っている・・・おっと、話が横道に逸れた。
『忠臣蔵』は、言うまでもなく赤穂藩国家老・大石内蔵助良雄を筆頭とする忠臣(義士)たちの(主君切腹から仇討ちまでの)1年9ヶ月に亘る辛苦を描いた物語だが、その筋脈には武士道のほか友情・恋愛・師弟愛・夫婦愛・父子愛・母子愛・兄弟愛などのエピソードがちりばめられていることはご承知の通り。本日の演目『赤垣源蔵 徳利の別れ』は広く、長く語り継がれている兄弟愛の代表挿話であろう。赤穂浪士・赤垣源蔵(本名・赤埴重賢=あかばね しげたか)は討ち入りの前夜、兄・塩山与左衛門宅に暇乞いに行くが、兄は不在、兄嫁は普段から大酒のみの源蔵を嫌い、仮病を使って源蔵に会おうとしない。源蔵は女中のタケ(スギとの説も)に兄の羽織を持ってこさせ、兄に見立てて酒を酌み交わし、女中には「さる西国の大名に仕官することになったのでお別れに来た」と告げる。翌朝、赤穂義士が本所松坂町の吉良邸に討ち入り見事、本懐を遂げたあと、仇・上野介の血首を槍先にかざし吉良邸を出て泉岳寺に向かうのだが、噂はたちまちに広がり、兄・与左衛門の耳にも届く。「もしや源蔵もその義士の中に」とタケを街道に見に行かせる。「いました!源蔵様がいらっしゃいました!お怪我もなく、凛々しく・・・」兄は勿論のこと、昨夜、会おうと思えば会えたはずの兄嫁、源蔵の暇乞いの真意を汲み取れなかった浅はかさを悔やむも「さすが我が弟よ、忠義の士よ」と源蔵の義挙を喜ぶ。それにしても赤穂義士たちの泉岳寺までの道順は吉良邸〜回向院(両国)〜永代橋〜霊岸島〜築地鉄砲州〜汐留〜日比谷〜金杉橋〜泉岳寺に至るのだが、与左衛門宅はどの辺に?そしてタケはどこで行列を見たのだろうか・・・実は、源蔵には兄はいなかった、とか、源蔵は下戸であったなどと、まことしやかな異説もあるが、そんなことはどうでもいい、翁、この名場面が大好きだ。琴調さんの熱演が観客にそれぞれ『徳利の別れ』のシーンを描かせ涙を誘う。これぞ講談の醍醐味でもある。 講談とは、ご承知の通り日本の伝統芸能の一つ。 演者は釈台(しゃくだい)の前に座り、張扇(はりせん)で釈台を叩いて調子を取りつつ軍記物や政談など特に歴史上の物語を語る。宝井琴調(たからいきんちょう)(写真:本人のウエブ・プロフィールより)――昭和30年(1955年)生まれ、熊本市出身。地元高校を卒業するや上京、19歳で5代目宝井馬琴に入門、昭和60年(1985年)真打昇進(芸名・琴童)、昭和62年4代目宝井琴調を襲名。この人も武芸物、人情物を得意とするが、新作にも取り組んでいるとか。オーソドックスな語り調で歯切れがいい。つまり講談師に最も求められる声の張り、滑舌、豊かな感情移入、リズム感を持ち合わせている。アドリブもスマートだ。趣味は?と問えば「お酒です」と即答。通常、この会は、口演が終わると座敷で演者を囲んで飲食懇談をするのだが(幹事・中條さんの計らいで)下戸の翁は皆と離れ、カウンターで独り食事をするのが常。ところがこの夜、翁の隣に琴調さんと佐野さんが座ってくれた。いわば翁は、演者と司会者を独り占めした訳だ。それにしてもお二人の飲みっぷりの見事なこと。いささかも乱れず、礼を失わず、まさに“泰然嗜酒悦境賛酔”の体。琴調さんが翁に書いてくれた色紙「腹を割かりょと 陽干しになろと いずれ味あるもの(魚)となる」いやいや、辛口の翁を魅了した宝井琴調は“すでに味ある講談師(好男子)”・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |