龍翁余話(154)「もしも、あなたが裁判員だったら?」
昨年8月、東京・港区で“耳かきサービス店”従業員・江尻美保さん(当時21歳)に一方的に恋愛感情を抱き、来店を拒否されたことなどで恨みを募らせ、江尻さん宅に侵入して江尻さんと祖母の鈴木好江さん(当時78歳)をハンマーやナイフで惨殺した事件で殺人罪に問われた千葉市の元会社員・林貢二被告(42歳)の裁判員裁判の第5回公判が25日、東京地裁で開かれた。検察側は論告で「身勝手な動機で2人の尊い命を奪った残虐行為は、極刑をもって臨むほかはない」と死刑を求刑。昨年5月に裁判員裁判制度が施行され8月に東京地裁で最初の公判が行なわれて以来、今年10月22日までに(裁判員裁判で)判決が言い渡された1284人のうち、34人に無期懲役が求刑されたが、死刑求刑は今回が初めて。民間から選ばれた裁判員たちは26日から4日間、評議を行ない、11月1日の午前に判決が言い渡されることになっていたのだが、東京地裁によると、評議は1日の午前も引き続き行なわれ、判決言い渡しは午後(以降)になるそうだ。そうだろう、“殺人犯”とは言え、1人の人間の命を奪うこと(死刑)の適否を決めるのだから、そう簡単に結論が出せるものではない。このたびの裁判員たちは、何とも気の重い役割を負わされたものだ。
『裁判員制度』――2008年4月27日号の『龍翁余話』(28)でも書いたが、自民党政権下(小泉内閣時)「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が2004年5月21日に成立、5年後の昨年5月21日に施行された。衆議院議員選挙の有権者(市民)から無作為に選ばれた裁判員(期間限定)がプロの裁判官と共に裁判を行なう制度で、国民の、司法に対する理解の増進と信頼の向上を図ることを目的とする、とされている。国民の“量刑感覚”が反映されるなどの効果が期待されると言われる一方、国民が強制される(拒否権がない)、国民の量刑感覚に従えば、いわゆる量刑相場(刑事裁判において有罪判決を言い渡す場合に、罪名や特定の犯罪情況、犯罪様態によって、おおよその量刑が定まる実務上の慣行)を超えて、量刑が拡散する危険性がある、また、公判前の整理手続きによって争点や証拠が予め絞られるため従来の裁判官のみによる裁判と同様に徹底審理による真相解明や犯行の動機、経緯にまで至る解明が難しくなる、などの問題点も指摘されている。
更に、もっと深刻な問題は“判決の重大責務を課せられる裁判員の精神的負担”があまりにも大きいことである。制法時、政治家たちはそこまでの(裁判員に起こりうる)重大問題点、いわゆる裁判員が背負わされる精神的負担の分析が甘かった。当制度が発足して、俄かに“裁判員の心のケア”問題が浮上した。日当わずか1万円(宿泊が必要な裁判員には1泊あたり7,800円〜8,700円)、そんな程度のギャランティで強制的に裁判に貴重な日時を割かれる裁判員たちは、経済的損失どころか、その期間のプレッシャーと以後の精神的苦痛、もしかしたら裁判員たちのその後の人生が変わるかもしれない。裁判員(候補者)に選ばれること自体の不利益はまだまだある、宗教や前科などプライバシーに踏み込んだ質問を受けても黙秘権は認められない。裁判員の氏名の漏出は禁じられているが、公判中、被告人やその関係者に顔を覚えられ後日、危害が加えられる懸念も生じる。法廷に提出される証拠品を全て確認しなければならない。その時、遺体の写真や殺人の凶器など、グロテスクな資料があった場合、嫌悪感をもよおし、精神的な後遺症を患う恐れがある。判決を言い渡した後に誤判が判明した場合、永久に罪悪感に苦しめられる。何で“心のケア”まで受けなければならない制度が出来たのだろう?だから翁、この制度を悪制と呼び、大反対している。年齢制限があって翁が裁判員(候補)になることはないが、想像しただけでも寒気がする。読者各位はいかがだろうか?“もしも、あなたが裁判員だったら?“・・・
翁は、積極的な死刑賛成論者ではないが、けっして死刑反対論者ではない。“人の命を奪った者は、死をもって償うべき”という考えが翁の基本にある。オウム真理教事件の首謀者・麻原彰晃(松本智津夫)や配下の殺人実行者たち、最近の茨城・土浦JR荒川沖駅での無差別殺傷事件、秋葉原無差別殺傷事件、八王子無差別殺傷事件、広島マツダ工場構内12人死傷事件などの犯人たちに対しては、精神鑑定などという(どちらかと言うと)犯罪者を有利に導く便法などは不必要、問答無用の死刑即決でいいのだが、幾多の殺人事件の中には情状を酌量するに余りある(同情的背景を有する)事件も多い。その殺人犯までも、問答無用で死刑にすべき、という論法にはならないのが翁の“悩みどころ”。いや、検察・弁護士・裁判官ら“裁判のプロ”が法的、人道的、社会正義的に議論を尽くし導き出した結論(死刑)なら翁も異論はないのだが、その議論(審議)の中の一員に身を置く勇気は(翁には)ない。
この裁判員制度、裁判員の負担を軽減するため、事実認定作業と量刑決定を分離すべきだ、という意見があるようだが、翁、そのことは大いに賛成である。『検察審査会』――無作為に選出された国民(公職選挙法上における有権者)が検察官の起訴の権限の行使に民意を反映させ、また、不当な不起訴処分を抑制するための制度――と同じように現行の『裁判員制度』を『裁判審査会』に改め、“裁判審査員“としてプロの裁判官たちと一緒に起訴証拠の分析や被告人の言い分聴取、証人喚問などで事実認定を行ない、有罪か無罪か、有罪の場合の量刑はどの程度が妥当かの”国民感覚“を当該事件担当裁判長に具申する、という制度、これなら”
国民の、司法に対する理解の増進と信頼の向上を図ることを目的とする“が生かされ、国民の“量刑感覚”が反映されることにもなる。何よりも、選ばれた裁判員たちを“精神的重圧”から解放してあげることになろう。
ともあれ、読者がこの号をお読みになる頃は、死刑か無期刑か30年刑かの判決が下されている。法と社会正義に基づいてその刑の適否を判断することは大切だが、いかなる罰をもってしても奪われた尊い命に代わる刑は在り得ないことを、我々は裁判員たちと共にずっしりと重く受け止めたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |