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NO.744               Ryo Onishi              8/15/2010  

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雑貨屋のひとり言

一週間の盆休みは気楽に暮らせましたが、朝から暑いので家にいても疲れました。だらだら暮らしてもあっという間に終わりです。
そんな中、一番の変化は何かといえばiPadを入手したことでしょうか?
iPadの面白い使い方を研究しています。アウトドアではGPS付きマップがあるので道に迷いません。ジャズアルバムを探すとき、ジャズリストをすばやくチェックができます。暑いときは涼しいショッピングセンターに行き、電子書籍を読んだり、インターネットサーフィンを楽しんだりできます。通勤が始まったら電車の中での面白い使い方を研究したいと思います。≪R.O≫

構成吟『明治維新』(4)

――― 前号から続く ―――
〔W〕薩長連合から倒幕へ
 薩摩藩は長州をさんざんにやっつけておりますから、長州にしてみれば不倶戴天の敵。この犬猿の仲の薩摩と長州を同盟させたのが 坂本龍馬です。
 「今は国内で争そっている場合ではないぜよ。一刻も早く強い日本に作り変えないと、列強の植民地になってしまう」

 人物の器は、どれくらいの大きさの幸せを望むかによるのではないでしょうか。我家の幸せか、我藩の幸せか・・・。龍馬は一脱藩浪人の身でありながら、「日本の幸せ」を望んだ稀有の人でありました。どういう日本であればよいのか。その為にはどうすればよいのか。熱き想いを凝縮させて「船中八策」を書き上げ、維新回天、日本の進むべき道を示しました。その内容は、のちに形を変えて「大政奉還の建白書」、「五か条の御誓文」となります。残念無念なことには、龍馬は新政府ができる直前に暗殺されてしまいます。享年三十三才。

★ 坂本竜馬(さかもとりょうま)  網谷一才作
維新大業誓期成(いしんのたいぎょう ちかってなるをきす)
劃得薩長金鉄盟(かくしえたり さっちょうきんてつのめい)
可惜斃中途凶刃(おしむべし ちゅうときょうじんにたおる)
永留青史俊雄名(ながくせいしにとどめん しゅんゆうのなを)

〔X〕戊辰戦争
 慶応三年、年の瀬もおしせまった十二月、京都の御所では、十六才、明治天皇が王政復古の大号令。幕府制度をやめ、朝廷に政権をとりもどすことを宣言した。
 その夜、新政府による初の会議で「徳川慶喜は官職を返し、徳川の領地と民を朝廷に返すべし」と、決定された。 大政奉還したあげくに、ここまでされるとは思っていなかった慶喜の無念や思うべし。

 明ければ明治元年戊辰(つちのえたつ)の年、ついに堪忍袋の緒が切れた旧幕臣五千が京の南、鳥羽・伏見で兵をあげた。新政府軍、人数は四分の一ほどだが、なにしろ錦の御旗をかかげる官軍だ。慶喜は「賊軍よばわりされるのはまことに不本意」と、軍艦で江戸へ逃げ帰ってしまった。慶喜追討令をもって総勢五万の官軍が江戸へ向う。
 
    ♪宮さん宮さん お馬の前でひらひらするのは何じゃいな・・・ 

  と、これが日本最初の軍歌であります。

 大総督は、有栖川宮熾仁(たるひと)親王。江戸城にはかつての婚約者、皇女和宮がいます。公武合体策の犠牲となって十七才で将軍家茂に嫁いできたのですが、はや未亡人となっております。有栖川宮の胸にはいかなる思いが去来しているでありましょうか。主力になっているのは薩摩軍と、たった三年前には朝敵であった長州軍です。

   ★ 戊辰作(ぼしんのさく) 木戸孝允(きどたかよし)
  去歳千軍逼我彊(きょさいせんぐん わがきょうにせまる)
  今朝孤剣入他郷(こんちょうこけん たきょうにいる)
  浮生万事変如夢(ふせいばんじ へんずるゆめのごとし)
  一片依然男子腸(いっぺんいぜんたり だんしのちょう)

 三月十五日に、江戸城総攻撃となるはずでしたが、その直前、官軍総督府の西郷隆盛と旧幕府の陸軍総裁、勝海舟の話し合いがもたれ、江戸城無血開城が決まります。

  ★勝海舟(かつかいしゅう) 本宮三香作
貔貅蔽野錦旗東(びきゅうのをおおい きんきひがしす)
幕府存亡繋此公(ばくふのそんぼう このこうにかかる)
能南州与照肝胆(よくなんしゅうと かんたんてらし)
開城事決立談中(かいじょう ことはけっす りつだんのなか)

 それでも、新政府に不満をもつ旧幕臣二千名は彰義隊を結成し、上野の山にたてこもりましたが、わずか一日で破れてしまいます。五月には、会津藩を中心に、奥羽越三十一藩が列藩同盟を結成しましたが、九月に会津城が落とされると、東北地方も又、新政府の勢力下に入ります。

  ★白虎隊(抜粋)(びゃっこたい) 佐原盛純作
南望鶴城砲煙颺(みなみ つるがじょうをのぞめば ほうえんあがる)
痛哭飲涙且彷徨(つうこく なんだをのんで かつほうこうす)
宗社亡兮我事畢(そうじゃほろびぬ わがことおわる)
十有六人屠腹僵(じゅうゆうろくにん とふくしてたおる)

まことに あわただしいこの戊辰の年一八六八年、九月には明治と改元されて江戸が東京となり、江戸城改め皇居に明治天皇が入られる。事実上の東京遷都です。
官軍の入城にあたり、陸軍歩兵奉行大鳥圭介は、フランス軍人の調練を受けた最新鋭部隊を連れて箱館に脱走、海軍副総裁の榎本武揚も、軍艦の引き渡しを拒否して箱館へ逃げます。箱館五稜郭の戦いが、江戸幕府最後の抵抗でありました。

  ★無  題(むだい) 大鳥圭介(おおとりけいすけ)作
兵気衰頽事既窮(へいきすいたいして ことすでにきわまる)
岳飛衆代致玆身(がくひ しゅうにかわって このみをいたす)
独羞一片男子首(ひとりはず いっぺんだんしのこうべ)
不曝白砂青草中(さらさず はくしゃせいそうのうち)

ほんの百四十年前のできごとです。明治維新は決してスムーズに事が運んだわけではありません。不器用ながらも国を憂うる多くの人が命をささげて守りきったこの日本、私共も立派に次の世代に手渡したいと思います。これにて「明治維新」の一席、読み終わりといたします。
【注】:この構成吟を含む「南カリフォルニア詩吟連盟主催の吟詠大会」は8月29日(日)午前9時からベニス日系人会館(12448 Braddock Dr., Los Angeles, CA 90066)にて開催されます。入場無料。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その6

<男の介護・女の介護>

義両親の住まいから10分程の距離にある「いらはら診療所」に、母、後に父の在宅医療をお願いしたのは、今年2010年の2月だったと思う。18年近く義両親が通った千葉西病院の医療に、ほとほと愛想をつかした高齢夫婦(義両親)とその子ども夫婦の私たちの、信頼と関わりを求めた希望ある医療機関への意見が一致しての選択、それが在宅診療「いらはら診療所」だった。この在宅医療を受けるに際し、在宅医療のことは勿論、介護や老後の生活、そして日々の夫婦・家族の関わりの重要性、を改めて考えさせられ、学ぶこととなった。

この「いらはら診療所」から学んだことの多くは、院長・苛原実先生の著書『訪問医が見た 男の介護 女の介護』(洋泉社出版)からだった。1994年に千葉県で開業、翌年1995年より在宅医療を積極的に行なってきた苛原医師は、いわば在宅医療や介護支援の草分けともいえる。その苛原医師の、豊かな経験と出会いを第一章「熱心に介護する夫、介護をいとう妻・・・在宅医療から見える“現在の家族像”」、第二章「夫や妻が認知症になったら・・・心に優しさを培う」、第三章「『死』を食卓の会話にしよう・・・人生にはさわやかな別れがある」、そして第四章「最後のステージを生き生きと生きる九カ条・・・“介護大難民時代”をつくらないために」と、実話がケースやテーマ別にまとめて構成されており、自分や家族の環境や境遇と照らし合わせながら、深く考えさせられる内容だ。そして各章に散りばめられた実践コラムは、医療知識やワンポイントアドバイスが挿入され、すぐに役立ちそうでありがたい。読み進むうちに、身近なケースに思い当たることや、謎であった現象などが『ああ、そういうことか』と納得でき、飽きずに一気に読めてしまう。そして、大切な部分には線を引いたりしながら、繰り返し何度も読んでいる。是非、多くの人に読んで欲しいと推薦している。

ところで、在宅医療の素晴らしさも重要性も効果も十分理解したうえで、ひとつだけ、不安があった。それは、厄介な病気になった場合、発見や対応が遅れることだ。これは医師の腕というより、設備や専門性の問題であり、在宅医療の限界であり、どうしても設備や専門医の多い大病院へ転院するしかないのが現状だ。どんなに苛原院長に看とってもらいたいと義両親が望んでも、病気の種類によっては、希望にそえないこととなり、それは家族として不安・心配であった。

さて、苛原院長に訪問診察をしてもらうようになって、まだひと月も経たない頃、義父の血液検査がどうしても心配だと苛原院長から、私は電話をもらった。血液検査から、輸血が必要な程貧血がひどく、腎機能は25%位しか機能していない腎不全状態で、体内炎症を意味するCRPの値が異常に高く、腎臓と膀胱を結ぶ尿管に何らかの異常が発生していると推察されるといい、結局、千葉西総合病院へ転院、検査入院となった。この時、家に独り残された母は、心配と不安のあまりか、認知症の気配が感じられはじめ、私たち家族の心配は、まさに、「男の介護、女の介護」そのものが現実となった。この本、自分や自分の家族が必ずいつかはそうなる時のための準備の手引きだ。この本の真髄、それは夫婦と家族の絆や関わりのあり方だ。絆、それはやはり愛情だよな、っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 反戦と太字で父の過去が書く

敗戦忌墓前に白い握り飯

まだ昭和俺の8月15日

飽食をリンゴの唄が戒める

九条の理想を守りたい国旗


( ニュースやぶにらみ )

「異例の円高」
今や高所恐怖症 −輸出企業

「同数くじ引き」
他人事ではなさそう −民主党代表選

「代わりがないからしょうがない」
菅首相もうちの亭主も −女房

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(143)「8月15日の靖国神社」

“終戦記念日”――まるで初詣の時のような大勢の参拝客。第2鳥居から神門をくぐり、拝殿に着くまでに、たっぷり30分かかった。昨年の8月15日は、東京・信濃町のK病院の病床にあった翁、丸1年後の今日、人・人・人で混み合う靖国神社の拝殿の前に立つ。 

 まずは、このお社に眠る246万6千余柱の英霊たちに感謝と鎮魂の祈りを。続いて、(昨年)一番先に翁のガンを発見、以後も何かとご心配をいただいている米沢市のY医院・Y先生と皆さん、K病院の主治医・K先生と治療チームの先生方、及び看護師の皆さん、毎日、交互に見舞いに来てくれた我が社の役員諸君、励まし続けてくれた身内的な人たち、それ以外の人にはあまり知らせていなかったが『龍翁余話』中断を懸念して問い合わせをくれた友人たちには、丁重に“お見舞いお断り”を条件にお知らせした。勿論、結果的にご心配をおかけした。ともかく多くの人のお蔭で今日、元気でここに立つことが出来た。あの人の顔、この人の顔を思い浮かべながら、いっぱいの感謝の気持ちを込めて2礼2拍1礼をした。靖国神社については、これまでにも何回か『余話』で書いたし、多くを語る必要はないと思うのだが、それでも「靖国は戦争讃美(正当化)の発信基地、軍国主義の象徴」という誤解をしている人が(一般的には)かなり多いので“靖国創建の精神と今”について簡単に触れておきたい。

靖国神社は、明治2年(1869年)に「国のために命を捧げた志士たちの霊を慰めよ」という明治天皇の思し召しで(東京招魂社という名称で)創建された。10年後の明治12年、「国家の安寧と国民の平和を願う」という明治天皇の大身心(おおみごころ)によって靖国神社と改称、以後、西南の役(日本最後の国内戦争)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)等で戦死した軍人・軍属らのほか、動員学徒、女子挺身隊員、報国隊員、日本赤十字社救護看護婦、“沖縄戦”で悲惨な最期を遂げた“ひめゆり部隊”“首里高女看護隊”“白梅看護隊“”対馬丸沈没による沖縄の疎開学童死没者“などが、ご祭神として祀られている。なお、246万6千余柱の中には、台湾・朝鮮の兵員約5万人も含まれる。つまり、靖国神社は、神話に登場する神や天皇、戦国武将などが祭神ではなく、国家存亡の危機に際して一身を捧げた将兵及び犠牲となった民間人たち(いずれも戦没者)を祀る社(やしろ)である。

今世紀に入って翁が本格的に靖国と関わるようになってから「靖国の杜(もり)は、戦没者の遺徳を偲び慰霊と感謝の誠を捧げる聖地であるとともに、戦争の悲惨さ、空しさ、平和のありがたさ、命の尊さをかみしめ、更には日本の伝統的精神文化を学び発信する基地である」とPRしてきた。日本人であるならば、この翁の思想(靖国観)に異論を唱える者は誰もいないはず、と思っていたのだが、残念ながら左翼系の政治家・評論家・学者・キャスターなどマスコミ関係者の中に反龍翁論者がいる。翁に対して、じかに反論してくる評論家やマスコミ関係者もいる。翁、生きている間、彼らとの(靖国をめぐる)対立は続くのだが、困ったことに(翁も一言を呈しなければならない)厄介な問題が横たわっている。それは、いわゆる“A級戦犯合祀問題“だ。昭和53年(1978年)10月に合祀祭が行なわれ、いわゆるA級戦犯(法律的には昭和殉難者と呼ぶ)14名が合祀された。以後、中国や韓国・北朝鮮の”首相や閣僚の靖国参拝にもの申す“が激しくなった。翁に言わせれば、これは全くの内政干渉だ。「お前たちにガタガタ言われる筋合いのものではなく、これはあくまでも日本国内の問題だ」と言いたいのだが、朝日新聞などアンチ靖国派のメディアが中国や韓国、北朝鮮のお先棒をかついで”首相・閣僚の靖国参拝は不適切“との世論形成を行なった。中国や韓国、北朝鮮の喜んだこと「日本の大新聞が我々の正義を代弁してくれている」と執拗にイチャモンをつけ、莫大な金をせびり取った。国益を損じている最大の原因は、靖国自身の(合祀に固執する)頑固さにあるが、非日本的メディアの報道が中国と朝鮮半島の”日本叩き“を助長してきたことは間違いない。

中国や朝鮮半島に気兼ねして、最近の首相経験者は(橋本龍太郎、小泉純一郎以外)靖国参拝を見合わせている。だが、自民党政権下では、閣僚の幾人かは参拝した。今年は日教組関係など左翼系の閣僚が多い民主党政権下、初めから期待はしていなかったが、記録に残る1980年以降の30年間で閣僚の参拝者がゼロになるのは初めて。情けない。岡田外相、前原国交相、長妻厚労相らは“A級戦犯合祀”を理由とした。千葉法相や自見郵政改革・金融相、仙石官房長官らは「近隣諸国に遠慮して」――こんな腰抜けどもが閣僚に居座っていること自体、許せないのだが、山田農水相に至っては「今まで(靖国に)行ったこともない。私はカトリック信者なので」・・・おいおい、キミはそれでも日本人か?靖国神社の戦後史を知らないのか?

1945年に日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、靖国神社焼き払い計画を立て、その是非について、当時、上智大学学長であったブルーノ・ビッテル神父(ローマ教皇庁代表)に意見を求めた。ビッテル神父は「いかなる国家でも、国家の為に死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務を誰も阻止することは出来ない。戦勝国、敗戦国を問わず、平等の真理でなければならない。人間には信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰する者であろうと、国家の為に死んだ者を靖国神社で霊を祀ることは当然である」とし「靖国神社を焼却することは将来に大きな禍根を残す重大な犯罪行為である」と(GHQを)戒めた。靖国神社はこのビッテル神父の進言によって救われたのだ。山田農水相よ、それでもキミは“私はクリスチャンだから靖国には行かない”と言うか?だったら、閣僚、国会議員はおろか、日本人を辞めなさい。ちなみに超党派で組織されている“みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会”のメンバーに、現職の閣僚もいるのだが、彼らに“不参拝”の理由を訊きたいものだ。

さて、“A級戦犯合祀問題”で、閣僚の岡田、前原、長妻は「(A級戦犯の分祀を考え)誰もが気軽に参拝できる国立の追悼施設建設案」を口にした。実はこの問題は民主党に限ったことではなく自民党内でも久しく議論されてきた。福田(元首相)などは、あからさまに“戦没者追悼国立施設建設”を提言した。こともあろうに靖国神社の支援母体の1つである日本遺族会会長の古賀誠までが「現在の靖国問題を解決するには、別の国立追悼施設の設立しかない」と言い出した。当然、遺族会の内部から猛烈な批判が噴出した。靖国信奉者であるはずの古賀が、そんなことを言い出した根っこには、中国や韓国・北朝鮮にイチャモンをつけられたくない、という“国益”を考えてのことだろうと(翁は)いい方に解釈しているが、よく考えてもみよ、国立の追悼施設建設案を口にする連中は「靖国で逢おうぜ」と散って行った英霊たちの心を、何とする?また「国家に殉じた志士たちの霊を慰めよ」との思し召しで東京招魂社(靖国神社)を創建された明治天皇の大身心を何と心得る?

昭和天皇は昭和53年の“A級戦犯合祀”以来、一度も行幸されていない。今上天皇も然り。何故か、やはり“A級戦犯合祀”に理由がある。実は翁も、この合祀にはいささか疑問を感じている。戦場に行かされて死んだ将兵と、戦場に行かせた軍部の指導者、それも戦死ではない“A級戦犯”が、同じ社に祀られたことに、英霊たちは大いに戸惑っているのではあるまいか?靖国の某幹部は「コップの中に数種の水を入れ、後でそれを選別抽出することは不可能だ。合祀もそれと同じこと」という。翁に言わせれば、それは独善的宗教論、国家的、国際的視点で靖国問題を見つめるならば、そんな理屈は対外的には通用しない、というより、首相・閣僚が他国からとやかく言われないで参拝出来る環境、また、天皇家の親拝をいただく環境を、靖国は何故、自ら整えようとしないのだろうか?

翁、以前から『靖国神社以外の追悼施設建設』に反対している。それは靖国と同意見。だが(コップの中の異なる水を選別抽出するまでもなく)A級戦犯を靖国神社から切り離す『昭和殉難者之碑建設』を提案している。これはどうやら靖国の意に沿わず、翁、いささか敬遠されている向きもある。それでも翁、靖国が好きだ。終戦記念日に限らず、たまには靖国の杜に足を運んで、戦没者への感謝と慰霊、平和、命の尊さを、皆で祈ろうではないか! “やすくにの 玉垣わたる 蝉時雨 民の祈りの こだまなりけり”
っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

このコーナーで毎週ご紹介させていただいているジャズアルバムは、これまで聴いたアルバムからその時の気分で探しています。
音楽ソフトには約750のジャズアルバムがあるので、まだ10年以上は紹介できる計算になります。更に毎月、新しいジャズに出会うのでこの数は増えていくと思います。ですからこの先もご紹介がずっと続けられそうです。お粗末な紹介ではありますが、私自身のいいレビューになっています。
今週ご紹介するのは日本人ジャズシンガー渡辺明日香の"unaffected"です。
1950年代以前のスタンダードをピアノトリオをバックに歌った彼女のデビュー作で、2004年8月に発売されたアルバムです。

"unaffected" 渡辺明日香

1.Just A Gigolo
2.Once In A While
3.Let's Do It
4.Don't Blame Me
5.Twisted
6.You Go To My Head
7.Will You Still Be Mine? (Inst)
8.Solitude
9.The One I Love Belongs To Somebody Else
10.Tea For Two
11.Early Autumn

吉岡秀晃 (p) 山下弘治 (b) 植松良高 (dr)

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

5年ぶりに運転免許証を更新しました。
30分の講習の中で、なぜか自転車の乗り方や、注意事項を話すのですが、何で私たちに言うのか理解できませんでした。自転車に乗っているアホな人に向かっていってほしいと思いました。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.744

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com