龍翁余話(137)「ミリンと一茶と新撰組」
大きな旅、小さな旅――旅はいい。人間、幾つになっても知らない場所や知らない事柄を知る、それはこの上もなく楽しいし嬉しいことだ。「え?こんな所があったのか」、「え?こんな歴史があったのか」に出会う度に、(この歳になるまで)知らなかったことの恥ずかしさや悔しさを伴うこともあるが、感動・感激がそれを超える。更に、聞きかじり、読みかじりの上っ面の知識が“観たり聴いたり試したり”で修正・確認された時、初めて自分の(本物の)知識になったような気分になれる。“尋ねる、は、一時(いっとき)の恥、知らぬは、生涯の損、故に、知るに時はなし”が翁の身上、(体力・気力が衰えぬ間は)友人知人の親切を借りて、これからも『龍翁余話』の貪欲な旅(取材)を続けたい。
「東京から、こんなに近い所に、こんなにいい街があったんだ」を思い知らされたのが、つい、先日のこと。千葉県流山市在住の翁の親友・熊坂さんご夫妻から「醤油の街・野田を散策しませんか?」のお誘いがあって、天に与えられた貴重な梅雨の晴れ間(少々、オーバー表現かな?でも、そう言いたくなるほど、梅雨時にしては珍しい湿度の低い、晴天に恵まれた日だった)、熊坂さんに教えられた通り東京・秋葉原駅から初めて“つくばエクスプレス”に乗り、約20分で南流山駅に到着。彼のお宅は流山市の中心地にあるのだが、翁の老体をいたわってくれて、南流山駅まで車で迎えに来てくれた。
流山市は千葉県北西部に位置し、東京都心からわずか25km、1950年代以降の住宅開発で現在16万人の県内10番目の住宅都市だが、かつては江戸川や利根運河を利用した水運業や宿場、酒や味醂(ミリン)で栄えた商業の町。南流山駅周辺は新興住宅街だが、根郷(ねごう=旧市内)に近づくにつれ、街並みに古めかしさ、つまり、歴史が感じられる雰囲気に変わる。いきなり、黒塀の大きな工場が目に飛び込む。かの有名な『万上(まんじょう)ミリン』(現・キッコーマン流山工場)だ。「20年くらい前までは、この一帯は“ミリンの香る街”でした」(熊坂さん談)。ここで“ミリンの歴史”を一節・・・ 話は前後するが、熊坂夫人(牧子さん)から、当日、青木更吉(流山市史編纂審議会委員)著『みりんの香る街・流山』という本を頂戴した。その本の中に「流山のミリンは堀切家(万上ミリン)と秋元家(天晴ミリン)によって興された」と記されている。年代はいずれも文化年間(1804〜1817)。明治6年(1873年)のウイーン万国博で両者ともに褒賞を受けたことで流山のミリンは全国的に有名になったが、翁が注目したのは、その前に――秋元家(5代目・秋元三左衛門、俳号・双樹)が小林一茶(江戸時代の俳諧師)と親交を重ねたこと(写真は一茶・双樹記念館)、また幕末、新撰組の近藤勇が流山に来て(会津へ向かうため?)陣を張ったこと。その場所は司馬遼太郎著『燃えよ剣』によると“長岡屋酒蔵”となっているが、もう1説“秋元醸造蔵”がある。どちらでもいいが翁、秋元家の末裔が、忠義の士・近藤勇を助けたと思いたい。
なお、近藤は陣屋を構えたが、官軍の圧倒的な勢力に押され、あっという間に降伏、自首した。「流山住民に迷惑をかけたくない」という美談が残されているが、事実は少し違う。しかし近藤ファンの翁、美談を信じることにする。そして、この陣屋が朋友・土方歳三との永遠の別れの場となる。
熊坂邸で小休止。熊坂さんのことは、これまでに何回か『龍翁余話』にご登場いただいたので、読者各位にはご記憶がおありだと思うが、お二人は共にオーストリア国立ウイーン芸術大学で学んだプロの音楽家。良雄さん(バリトン歌手)と翁はもう35年のお付き合いだし、夫人(牧子さん=ソプラノ歌手)とも親しくさせていただいている。
熊坂邸の裏手に『常与寺』という鎌倉時代(1326年)創建の古刹がある(写真左)。その境内に明治5年(1872年)設立の教育者養成機関(千葉大学文学部=旧・千葉師範学校)発祥の地の碑(写真中)が建っている。そう言えば、牧子さんのご両親も教育者だった。父上は国語教師、母上は音楽教師。父上はこの千葉師範学校のご卒業だそうだ。そして境内の隣には閻魔堂があり、そこに(流山出身の義賊)金子市之丞と遊女・三千歳の墓がある(写真右)が、翁、その義賊の話は知らない。
さて、3人は流山街道に出る。流山街道は松戸市から江戸川に沿って流山市を経て野田市に至る県道で、この一帯は流山の広小路地区。左右の古い家々が往時の繁栄を偲ばせる。突然、土蔵造り2階建て、黒漆喰(くろしっくい)造りの呉服屋『新川屋』が翁の目に止まる。牧子さんが早速、店内へ案内してくれる。主人(秋谷光昭さん)が顧客を応対していたが、牧子さんを見て直ぐにこちらの相手をしてくれた。時代と共に歴史的建造物は次第に姿を消して行く。ここは120年前(明治23年)の建築。平成16年に国登録有形登録文化財に指定された。千葉県内では58番目、流山市では第1号だそうだ。「先祖が残してくれた貴重な建物、大切に管理保存しなければ」と秋谷さんは語る。
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その新川屋から少し先に、大正6年創業の割烹『柳家』がある。うなぎの幟が食欲を誘う。シックな構え、磨かれた玄関(上がり口)や廊下、涼を呼ぶ中庭の池、和室の木と畳の香りが懐かしい。牧子さんの親友・若女将(4代目)の青柳愁子さんが挨拶に来る。和服が良く似合う美人。勿論、うな重も美味かった。
食事の後、車で目的の野田市に向かったのだが、熊坂さんのお宅の周辺に、これだけの歴史が残されているのだから、それを見逃す手はない。したがって『醤油の郷・野田』(仮題)は次号で。ところで、これから先、不思議な因縁が生まれそう。まず、『みりんの香る街・流山』の作者、青木更吉(こうきち)さんに後日、教えを乞う時が来るかもしれない。何故なら、彼の著書に『物語・二本松少年隊』がある。『龍翁余話』(136)「会津の旅 白虎隊」で二本松少年隊の取材を約束した、だから・・・そしてもう1つ、7月18日に長野県信濃町で牧子さん構成・演出・出演の『被爆ピアノコンサート』が開催される。その取材に行くのだが、何と信濃町は小林一茶の生誕の地なのだ。一茶をもっと知る機会としたい。
「東京から、こんなに近い所に、こんなにいい街があったんだ」を思い知らされた流山の小さな旅だった。旅はいい。知らない場所や知らない事柄を知る、それがこの上もなく楽しい、を噛み締めながら・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |