龍翁余話(131)「丸の内・三菱一号館(美術館)」
友人(読者)たちから「毎週、エッセイ『余話』を書くのは大変でしょう」と同情されることがよくある。書くこと自体はそれほどでもないが、ネタ(テーマ)を考え、探すのは正直、かなり骨折る。政治家や文化人、スポーツ人・芸能人らを一刀両断にするのも悪くはないが、若い時からのドキュメンタリー映像製作の習性で、出来るだけ自分の足で現場に出向き、”歩いて・見て・確かめて“を心がけ、実践したい気持ちは山々。動き回るエネルギーもまだ残っているのに肝心のテーマを見つけるのが大変。そんな翁に同情を寄せてくれる友人たちから、たまに、ヒントを与えて貰うことがある。すでに『江戸情緒を今に残す下町探訪』、『東京スカイツリーの光と影』、『幕末史跡巡り』、『野鳥観察』など、翁の興味関心を強く惹くアイデアをいただいているので今後に”乞うご期待“と申し上げておきたいが、つい先日、美術館巡りが好きな親友・Jさんから「丸の内・三菱一号館(美術館)へ『マネとモダン・パリ展』を観に行った」とのメールを頂戴した。三菱一号館は今年4月6日に正式オープンしたばかり。翁、絵画より赤レンガの建造物の方が好きで、早くそこに行ってみたいと思っていたのだが、Jさんに先を越されてしまった。
視聴率23%でスタートした大河ドラマ『龍馬伝』、最近は18%そこそこで低迷している。史実とは異なる作り話の多さに視聴者も嫌気がさしてきたのだろう。しかし今のところ歴史学者(龍馬研究者)や全国の”龍馬会“からは何のクレームもついていない。翁、そのことはいずれ『余話』で吼えたいと思っているが、それはさておき、ここ丸の内一帯は、このドラマの狂言回し役・岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が維新後に政商となるや、江戸城(皇居)に近い旧大名屋敷一帯(丸の内)に目をつけ、同じ土佐藩出身の明治新政府の重鎮・後藤象二郎や板垣退助らのバックアップを得て買収を試みた。しかし、この地には陸軍省や陸軍関連施設があったので弥太郎存命中は実現しなかった。彼の死(明治18年)後、弥之助(弥太郎の弟=2代目社長)、久弥(弥太郎の長男=3代目社長)の執拗な政界工作が功を奏して明治23年に岩崎家に払い下げられ、弥太郎の夢はついに現実となり、この一帯(丸の内、当時“三菱ケ原”と呼ばれた)を近代ビジネス街に変貌させた。
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皇居前広場から見た丸の内ビル群 |
三菱一号館の正面 |
三菱一号館の建設は1894年(明治27年)、英国の建築家コンドル(東大工学部建築学科初代教授)のデザインによる。それから110余年経って、当時の建物そっくり、設計図や写真をもとに、230万個のレンガを特注して全国から職人を集め手造りで復元したという。
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ベルト・モリゾの肖像(左)とエミール・ゾラの肖像(右)=いずれも外に展示されている写真 |
翁は本来、美術にはそれほどの興味も造詣も深くない。だが偶然にも、エドウアール・マネと彼の作品の幾つかは知っている。20数年前オルセー美術館(パリ)で『老音楽師(辻音楽師)』に出会ったのが最初。残念ながら、その絵は外になかったので撮影は出来なかった。
中庭もいい。20世紀のイギリス芸術界を代表する彫刻家ヘンリー・ムーア(1898年〜1986年)の作品“裸女のブロンズ“が見学者を圧倒する。その中庭の前に数件のカフェが軒を並べる。ちょっとしたパリの街角の雰囲気。コーヒーでも、と思ったが(平日というのに)どの店も満席。4月6日の開館以来(開催実数)36日目で入館者が10万人を超えたそうだ。時期的には親友Jさんもその中の一人だったかもしれない。東京駅丸の内出口から線路に沿って有楽町方面へ歩いて5分、東京のど真ん中に位置する『三菱一号館』は、動乱の幕末を生き抜き、三井、住友に次ぐ日本の三大財閥にのし上がった岩崎ファミリーの逞しい商魂だけでなく、文化・芸術の香りを漂わせ”大都会のオアシス“としての憩いと安らぎを醸し出していることが心地いい。次回こそパリのコーヒーを・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |