龍翁余話(107)「真珠湾」
ハワイ時間の12月7日(日本時間は8日)は、『パールハーバー・リメンブレンス・デー(真珠湾記念日)』で、現地(ハワイ・オアフ島のパールハーバー)では毎年、厳粛な戦没者追悼式が行なわれる。
1941年11月22日、南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)指揮下の旗艦(指令・命令を発する司令長官の艦、海上自衛隊では“はたぶね”と呼ぶ)の『赤城』ほか『加賀』、『蒼龍』、『飛龍』、『翔鶴』、『瑞鶴』など日本海軍空母機動部隊は北方領土の択捉島に集結、11月26日にハワイ・オアフ島に向けて出航した。
12月1日の御前会議(天皇ご臨席の閣僚会議)で“対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行なう”ことが決定されていた(実際には外交上の手違いなどで攻撃から約1時間後に米国側に通告、結果として米国側に“応戦”の大義名分を与えた)。
12月2日、大本営(軍の最高統帥機関)から空母機動部隊に“ニイタカヤマノボレ1208”が打電された。すなわち、日本時間12月8日午前零時を期して攻撃を開始せよ」である。“ニイタカヤマ”(新高山)とは、当時日本領であった台湾の最高峰、現・玉山のこと。
12月7日午前7時49分(現地時間)、攻撃隊の淵田美津雄海軍中佐が各機に対し「全軍突撃」を下命、第1波空中攻撃として183機が次々と艦上から発進、その数分後に淵田は早くも旗艦『赤城』に対して“トラ・トラ・トラ”(我、奇襲に成功せり“を打電した(第2波空中攻撃は171機)。こうして大東亜戦争(太平洋戦争)の火蓋は切って落とされた。
日本が何故、開戦に踏み切ったか、他に選択肢はなかったか、などの疑問を投げかける学者たちもいるが、何事も終わった後は何とでも言える。ただ、当時、アジア全体の植民地化を狙う欧米諸国は、アジア最強の国家に成熟した日本の存在が邪魔で、執拗なまでに日本に非人道的な経済制裁を加え、資源を持たない日本を丸裸にし、白人社会の属国にするか滅ぼすかを企み、時のアメリカ大統領ルーズベルトは日本に“最初の一発”を撃たせるよう仕向けた。自存・自衛のために行動を起こさなければならなかった日本(戦後、マッカーサーも上院でそう語った)だが、真珠湾攻撃はまさにその“一発”となり、ルーズベルトは応戦の大義を得て“リメンバー・パール・ハーバー”(真珠湾を思い起こせ)を合い言葉にアメリカ全土を対日戦争ムードに駆り立てた(内外多くの歴史学者者の証言より)。
先日、真珠湾が眼下に見えるゴルフ場でプレーをした後、パール・ハーバー記念館に立ち寄った。もう何回目の訪問だろうか、翁、ここに来るたびに1941年12月7日、日本軍の攻撃で1,177名の将兵と共に大破撃沈した、湾上に浮かぶ真っ白な『戦艦アリゾナ』(メモリアル・ミュージアム)に向かって黙祷するのが習慣。その日も、かなりの日本人観光客がいたが、誰一人として黙祷する者を見かけなかった。彼ら(特に若者)にとって、ここは単なる観光スポットだろう。それはそれでいい。だが、せめて日本が何故アメリカと戦わなければならなかったか、その史実の概要くらいは知っておいて貰いたい。同時に、戦争の悲惨さ、愚かさを知り、もうこれ以上、このようなメモリアルが増えないよう、平和の尊さを噛み締める場所、と心得て貰いたい。
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さて、訪問者用の広い駐車場に車を置いてトロリー・バスに乗り、真珠湾に架かる橋を渡って戦艦ミズーリが係留されているフォード島へ。この島は1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ』の1シーンが撮影された場所。この映画は真珠湾攻撃に至る日米両国の動きとその立場を公平かつリアルに描いている点で高く評価された。脚本も監督も俳優も日米両方が受け持ったのだから当然だろう。だが、2001年に公開された『パール・ハーバー』のお粗末だったこと。日本軍描写や日本の歴史考証に矛盾が多く、翁は、製作者(脚本家、監督、プロデューサーたち)の浅学に腹を立てたものだ。もう1つ、真珠湾を舞台にした映画に『地上(ここ)より永遠(とわ)に』(1953年)というのがあった。ご記憶の方も多いだろう。過酷な軍隊生活、嫉妬、いじめ、友情などを赤裸々に描いた傑作。第26回(1953年)アカデミー賞最優秀作品賞を受賞、フランク・シナトラが助演男優賞を受賞している。
話を戻そう。戦艦ミズーリの巨大・威容に圧倒される。1999年から“現役時代”そのままで保存、記念艦として一般公開している。戦史を顧みれば、この怪物によって日本はどれほど苦しめられたか・・・日本本土空襲支援、硫黄島艦砲射撃、瀬戸内海沿岸攻撃、沖縄南東部砲撃、戦艦大和を撃沈、まだある。その後の東京攻撃、北海道室蘭艦砲射撃、茨城県日立市工業地帯砲撃など、制海権を失った日本の海を我がもの顔で走り回り、日本国土と国民の生命・財産に甚大な被害をもたらした憎っくき戦艦、であるはずなのに、翁、今回で3度目の参艦だが、恨み、つらみが次第に薄らいで行くのは、やはり時の流れか。
1945年9月2日、東京湾(浦賀水道)で日本の降伏文書調印式が行なわれたのも、このミズーリの艦上だ。日本側から重光葵外相と梅津美治郎参謀総長、連合国側から連合軍司令長官ダグラス・マッカーサーのほか連合国各代表が署名。その記念プレートがミズーリの甲板に設けられている。
ミズーリからアリゾナメモリアルは目と鼻の先。いうなれば大東亜戦争(太平洋戦争)開戦と終戦のシンボル2艦が、ここ真珠湾に並べられているわけだ。大勢の日本人観光客を見て、“リメンバー・パール・ハーバー”が、もはや日米相互の恩讐を超え、友情と平和のスローガンになっていることを実感する光景である・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |