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NO.692                Ryo Onishi              8/16/2009  

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雑貨屋のひとり言

いつものことですが、一週間の休みがあっという間に過ぎました。
どんなことにも始めがあれが終わりがやってきます。それでまた新しく始まりがやってきます。新しい始まりがある限り、いろんなチャンスがやってくるのですからそれを楽しみに迎えたいものです。今日も笑点を観て笑って、また明日からの新しい始まりを迎えようと思います。
≪R.O≫

ルート66覚え書き(4)

  ――― 前号からの続き ―――
第4章:ハイウエイ・ビジネスの出現と「怒りの葡萄」

(1)、1920 〜 30年代、貨物輸送のためのトラックが本格的に登場、バス会社もこの時代に始まり、やがてバスの運ぶ乗客数と、トラックの運ぶ貨物量のどちらもが鉄道を凌駕するようになる。

(2)、ガソリン・ステーションは1919年頃は殆どなく、総合雑貨屋(General Store)の片手間の仕事だった。1930年代に入り、車の増大に比例して、ガス・ステーションもまた夏草のように増えていった。

(3)、1928年、当時の主要な産業の中心地であったシカゴとセントルイスを結ぶ“ルート66”には数多くのトラックが走り、これらを相手に出現したのが“トラック・ストップ”で、やがて“サービス・ステーション”へと成長してゆき、終夜営業や夜食のためのコーヒー、サンドイッチ等を提供するようになる。

(4)、やがて、食事部門がスタンドの大きな収入を占めるようになり、新たに食堂を設け、それが、ロードサイド・レストランに発展する。

(5)、イリノイ州はアメリカで最初の完全な舗装路システムをとったところで、特にシカゴ 〜 セントルイス間は走りやすさの点からも非常に交通量の多い区間だった。そしてその道の利用者を相手にする2つの大きなハイウエイ産業、ガソリン・スタンドとドライブイン・レストランとが発達した。

(6)、一方、セントルイスより西の地域、ミズーリ州やオクラホマ州では、まったく新しいハイウエイ産業が生まれた。それは車での旅行者向きの宿泊施設だった。最初は道路脇に作られた特設キャンプ場で、ひと晩50セントの貸しテント程度から始まり、モーテルに発展して行く。

(7)、1933年に禁酒法が解除されると、“ルート66”の端から端まで酒があふれ、ダンスホールなどが出現した。

(8)、1934年をはじめとして1940年までアメリカ南西部を襲ったダストストーム(大砂嵐)は農業に大きな被害を与え、人々の多くは土地を手放し、代わりに買った車に家財道具一式を積んで、砂嵐の来ない、豊かな土地であると信じるカリフォルニアを目指し、故郷を捨てた。ジョン・スタインベックは1939年に発表した小説「怒りの葡萄」で、オクラホマから“ルート66”でカリフォルニアへと逃げ出す移民たちのことを書き、その年のピューリッツアー賞を受賞した。この作品でスタインベックは“ルート66”を「マザーロード」とも「バックボーン・オブ・アメリカ」とも呼んでこの道を称えた。
   2年後の1941年ジョン・フォードが映画化してアカデミー賞をとり、一躍“オクラホマ難民”と“ルート66”の存在を全国に知らしめた。

(9)、1948年、モーリス、リチャードのマクドナルド兄弟が、現在に至るバーガー・スタンドのプロトタイプを作る。
――― 次号へ続く ――― 

  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はおやすみです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

敗戦忌墓前に白い握り飯

飽食の舌には遠い敗戦忌

戦争を知らぬ子に降る蝉しぐれ

子の何故に答えが詰まる核兵器

この願い何時ヒロシマの千羽鶴

( ニュースやぶにらみ )

「消去法」
誰もいなくなった − 一票

「自転車遊説」
苦労が少しはわかるかな −自転車操業

「民主党が『修正案』」
選挙後にもありそうな −マニフェスト

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(28)
*夏目漱石旧居跡 ―猫の死
 三平君の結婚話を祝って迷亭、独仙、寒月、東風たちが楽しく酔って、苦沙弥家を去った後、吾輩の猫が残ったビールを飲みだします。 「吾輩は猫〜」より  もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた(略)何だかしきりに眠い。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。
そしてふらふら歩いて水甕に落ちてしまいます。「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした(略)次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。というわけで、吾輩の猫は天国へ行きました。この猫のモデルになった漱石家の猫も「吾輩は猫〜」完成翌年の9月に死にました。猫は裏庭に埋められ、その墓標に この下に稲妻起る宵あらんの一句が添えられました。 夏目漱石「永日小品・猫の墓」より 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た、いっこうに小供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない 猫の死後、死亡通知を小宮豊隆、鈴木三重吉など親しい弟子に送っています。「辱知猫儀久々病気の処 療養不相叶昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候。以上  猫の死を知った、松根東洋城と高浜虚子も先生の猫が死にたる夜寒かな、吾輩の戒名もなき芒かなの句を寄せています。漱石の死後、猫の骨は妻鏡子の手によって雑司ケ谷の漱石の墓地に移されて、主人の傍で眠っています。

森田さんから

千の風
              森田のりえ
「どっちか分る?」
 いきなり、Y子は私の目の前に豊かな胸をあらわにして見せた。あまりにも大胆な行為に、一瞬、見ていいのか悪いのか、ドギマギした気持ちで乳房を見た。
「何が・・・全然分らない」
 そう答えた私の顔は、頬のあたりが緊張して引きつっていたかもしれない。

 ロサンゼルスに戻る前日、私は横浜から当時茅ヶ崎に住んでいたY子に電話をした。
「モリタ、帰っていたの? おいでよ。時間、あるんでしょ?」
 歯切れのいい言い方と「モリタ」と、男っぽい呼び方に意表をつかれ「行きます。お会いしたいから」と反射的に答えていた。帰りは夜遅くなっても構わない。その足で小田原行きの汽車に飛び乗った。待ち合わせ場所に着くと、ご両親と三人で出迎えてくれた。
「これから温泉に行こうよ」
 そのつもりでいたらしく、拉致されるように車に乗せられた。Y子と会うのは二年ぶりである。話すことはたくさんあったが、お互いに言葉少なく手を握り合って、もりあがる新緑に溺れるように車窓風景を眺めていた。Y子が自分の胸を見せたのは箱根の温泉に入ったときのことである。
 Y子と知り合ったのは、彼女が乳癌だと診断される一ヶ月か二ヶ月前ではなかったろうか。すらりと背が高くボーイッシュでさっぱりした気性、面倒見がよく、どことなく宝塚ジェンヌを感じさせる女性だった。三十歳で渡米したY子は、ビジネスを始める傍らで、陶芸家として、また弾き語りシンガーとして多彩な活躍をしていた。そして、リタイヤ後まもなく乳癌が見つかったのである。
細かい事情は知らないが、Y子は日本で手術することに決めパロス・バーデスの邸宅を売りに出し、家財道具を整理するというので友人たちと見に行った。話題はどうしたって乳癌の話になる。
「触ってみて、これが癌よ」
いつ自分が同じ立場になるかもしれない。参考のために触らせてもらうと、たしかに左乳房の上にコリコリした米粒ほどの塊があった。あっけらかんとした態度に悲壮感は微塵も感じとれないどころか、近年は医術が進み乳房切除のあと乳房再建手術とか乳房温存術もあるそうで、見た目には本物か人工か見分けがつかないという。女性にとっては朗報なのだと気に病むそぶりなど見せなかった。私はわたしで、乳癌を手術した友人が何人もいるし、みんな日常生活に支障なく元気で暮らしている。大丈夫、心配はないと思った。
今ににして思えば、彼女の心中はいかばかりであったか、理解度の足りなかったことを悔いている。
Y子は日本で手術をし、茅ヶ崎の両親のもとで静養をしていたのである。
温泉からの帰りにY子の家に寄った。
「来月のはじめ、お父さまと『ふたり展』をするのよ」
と嬉しそうにいった。
荷造り前の出展作品があった。彼女は得意の陶芸を建築家のお父さんは、岐阜県内の庄川流域にある白川郷の合掌造りの家屋をいろいろな角度から描いた水彩画である。温かみのある絵だった。
いい人生を生きていると思った。
それから数年して彼女がロサンゼルスにやってきた。乳癌を再発し多発性進行癌の第四期と診断され、首の骨にまで癌が転移し腰痛で苦しみ、しびれを感じる左手にはサポーターをしていた。そんな状態にありながら、力が入らずピアノを弾くのも大変だというのに、私たち友人にピアノの弾き語りを聴かせてくれたのである。
何事も前向き思考だ。健康な私が励まされている。いったい、この力はどこから湧いて出てくるのだろう。不思議だった。
「支えてくれた周りの人たちへの感謝の気持ちと『わたしは幸せなんだよ』ということを伝えたい。そして、わたしの生きざまを知って欲しい」
残りの人生を意識したY子は、再び歌うことを決意し、末期癌と闘いながらライブ活動を続けたのである。その活動はNHKの四十五分テレビ番組で放映され、各新聞社で取り上げられた。今年一月、Y子は昇天した。
享年六十六歳。
 
 千の風に 千の風になって、
 あの大きな空を吹きわたっています

 魂を揺さぶるようなY子のCDを聴いていると、涙が湧いて止まらない! 
               おわり

龍翁余話

龍翁余話(94)「終戦記念日に思う」

64年目の「終戦記念日」――普段、仕事部屋に飾ってある国旗(日の丸)を、朝からベランダに掲げ合掌した。それは、日清戦争、日露戦争以来、先の大東亜戦争までに尊い命を国に捧げた戦没者への慰霊と感謝、平和への祈りである。10階から見渡す周辺の家々に、日の丸が見当たらないのが淋しい。東京・武道館では昼前から天皇、皇后両陛下をお迎えして『全国戦没者追悼式』が行なわれた。麻生首相ら各界代表のほか、戦没者遺族ら約6000人が参列。先の大戦で犠牲になった約310万人の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。熱戦の甲子園でも試合を中断、正午の時報を合図に選手たちはその場に直立、観客も起立して1分間の黙祷を捧げた。清々しい光景だが、高校球児たち、この黙祷の意味をどう感じ取ったのだろうか。「野球が出来る平和と幸せ、それを実況出来る喜びを噛み締めながら放送を続けたい」というアナウンサーのコメントが印象的だった。

1945年(昭和20年)7月26日に連合軍は、ポツダム宣言(米英支ソ四国共同宣言)を発して日本に無条件降伏を要求した。日本政府はこれを黙殺したが、8月6日の広島、9日長崎の連続原爆投下、更には8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告、即刻、旧満州、樺太への侵攻を開始するなど重大事態に陥り、8月14日の御前会議で昭和天皇のご裁断によりポツダム宣言の受託を決定、翌15日『終戦の詔勅』いわゆる“玉音放送”が行なわれ、この日をもって大東亜戦争(太平洋戦争)は事実上終了した。しかし、玉音放送が届かなかった中国大陸や南方では小規模な戦闘が続いた。けしからんのはソ連だ。日本がポツダム宣言を受託したことを知っていたにもかかわらず、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーは第2極東方面軍と太平洋艦隊に対して樺太西岸・真岡への上陸及び千島列島占領を命令した。その結果”真岡女子電話交換手の悲劇“が生まれた。そのことは『龍翁余話』(43)「哀し!九人の乙女」に詳しく書いたが、ロスケ(ソ連兵)の質の悪さにはドイツ戦線でも国際的批判が集中した。日本への侵攻も略奪・放火・暴行・強姦をほしいままにし、無抵抗の在留日本人数万人の命を奪った。そればかりでなく国際法を無視して日本固有の北方領土(歯舞、色丹、国後、択捉)まで盗み取ってしまった。

歴史というものは戦勝国のご都合だけで語られては不公平。敗戦国の罪は問われても仕方ないが、戦勝国の犯罪(特に非人道的行為)も暴かれなければ“史実”は雲間に消えてしまう。あえて言う、左翼系の歴史学者よ、教育者よ、政治家よ、文化人よ、マスコミよ、もういい加減に“自虐的歴史観”を唱えまくるのは止めなさい。過ちを繰り返さないために“歴史に学ぶ“ことは大切だが”公正な史実“に目をつむり”自虐的偏見“ばかりでは日本の健全な未来像は、けっして描けないことに気付きなさい。

さて、1945年9月2日、東京湾内に停泊していた米国の艦船『ミズーリ』の艦上で、日本政府全権大使・重光 葵(外務大臣)と日本軍全権の梅津美治郎(陸軍大将)及び連合国代表ダグラス・マッカーサー(GHQ最高司令官)らが降伏文書に署名した。国際法では、この日が終戦の日とされている。余談だが、ハワイ・オアフ島のパール・ハーバーに、日本軍の真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの記念館が湾内に設置されていることは多くの人の知るところだが、その西岸に“降伏文書署名”を行なった戦艦『ミズーリ』が停留、記念館(艦)として観光客の人気を集めている。翁も数回訪れた。甲板の中央に“署名の場所”があり、艦長室などに幾つかの日本軍側の遺品が展示されているが、日本を誹謗するキャプション(説明文)はどこにも見当たらない。観光対策と言ってしまえばそれまでだが、アメリカの、敗戦国日本に対する寛大さと日米友好の重要性を示唆していることは確かだ。オアフ島を訪れる若者たちには、是非、この『ミズーリ』を参観して貰いたい。日本復興の第1歩は、この艦上から始まった、ということを知ることが出来るから。

昭和57年4月の閣議で8月15日を『戦没者を追悼し平和を祈念する日』と決定、毎年、政府主催の『全国戦没者追悼式』が東京・武道館で行なわれるようになった。近くの靖国神社においても『戦没者慰霊祭』が行なわれる。その度に“首相、及び閣僚の靖国参拝”が問題となる。問題にすること自体が問題だが、朝日新聞をはじめ各メディアが性懲りも無く“靖国参拝”を過剰に取り上げ中国、韓国、北朝鮮を喜ばせる。国家のために尊い命を投げ打って、今日の繁栄の礎となった英霊たちに、時の首相や閣僚が慰霊と感謝の真を捧げる行為が何故問題なのか、これでは靖国に眠る246万6千余柱の英霊たちに申し訳ない、と思わないのだろうか?

靖国神社にも一考を促したい。そもそも同神社は「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊(みたま)を慰め、その事績を後世に伝えよ」との、明治天皇の思し召しによって明治2年に創建された神社。現在、靖国神社には幕末の志士、戊辰戦争、西南の役、日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争までに国難に殉じた人たちの中から246万6千余柱が英霊として祀られており、大東亜戦争では将兵ばかりでなく、従軍看護婦、沖縄ひめゆり部隊、真岡女子電話交換手、学徒挺身隊員のほか銃後の守りで犠牲となった一般市民まで、階級、身分、性別、年齢に関係なく公平に祀られている・・・が“問題”になってきたのは、“A級戦犯の合祀”からである。

彼らは極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯(B,C級戦犯もいる)として裁かれた。ご存知のように、あの裁判は“戦勝国主導(有利)型の一方的裁判”で、けっして国際法に準じた裁判ではなかったことは多くの専門家(法学者、歴史学者)が認めるところだ。そして日本の法律には“戦犯”という呼び名はなく、“昭和殉難者”と呼ばれている。しかし、呼称はともかく、たとえ国家の自存自衛のために、やむなく戦争に至った当時の国際情勢、国内事情があったにせよ、戦争に導き命令を出し、多くの日本人及び敵国国民の生命財産を奪った責任は大きい。その為政者(命令者)と犠牲者が同じ神社に祀られていることに違和感、抵抗感をもつ人が意外に多い現実がある。靖国神社は、A級戦犯を合祀したからといって、アンチ靖国派が言うような“戦争賛美”、“軍国主義復活の根城”なんかであろうはずがない。靖国のコンセプトは、純粋に「戦没者への慰霊・顕彰と感謝、2度と英霊をつくらない平和への祈り」なのである。だが・・・

1978年(昭和53年)に“戦犯合祀”が行なわれて以来、昭和天皇の靖国参拝は中止された。そして中国、韓国などからイチャモン目標にされ国益を損じてきた。心無き政治家、学者、評論家、マスコミなどが“靖国叩き”をすることで世論を味方に出来るという、飛んでもない錯覚を起こし、近隣諸国の“日本攻撃(靖国批判)”を助長した、と、これは翁
の独断だが、靖国神社は“戦犯合祀”以来の流れをどう観ているのだろうか?「いったん御霊を同じ器の中に入れれば、それを分離することは不可能だ」と靖国幹部は言う。神道論(宗教論)としてはそうかもしれないが、神聖な社がいつまでも(国内外の)政争の具にされていいものだろうか。

『やすくにの祈り ともに未来へ』(実はこの標語、10年前に翁が提唱したもの)を実現するためにも、靖国は一般的国民感情と国益を勘案して“分祀”を検討すべきである。“昭和殉難者”たちも皆、国家の安泰と繁栄を願った愛国者であったことに疑う余地は無い。故に、神社としてこれからも彼らの御霊を手厚く祀ることに翁は異論を挟まない。しかし、それは“分祀”の形を整えた上でのこと。このまま靖国神社が“合祀”に固執し続けるなら、必ずや“靖国に替わる施設の建設”案が再燃するに違いない。翁、これには反対である。箱(建物)を造ればいい、というものではない。それは明治天皇の大身心に背き、靖国に眠る英霊の御霊を冒涜するものだ。ならば、どうすればいいか。靖国神社の祈りが届く場所に『昭和殉難者の碑』を建設すればよい。それにも賛否両論が噴出するだろうし、それが最善策とは思わないが、もういい加減に、内外の靖国批判に終止符を打つ手を考えなければなるまい。

「終戦記念日に思う」――我々日本人は、祖国の平和と繁栄を願って散華した英霊たちに真心をもって慰霊と感謝の念を捧げ続けなければならない。神々(御霊)に対して不戦と平和への誓いを新たにしなければならない。同時に諸外国の犠牲者に対してもお詫びと冥福を祈り続けなければならない。そのためにも靖国の祈りの雪洞(ぼんぼり)を未来へと灯し続けて行かなければならない。それが、今までも、これからも、靖国神社を大切に思う翁の切なる願いである・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

夜、散歩で歩き出すと雨が降ってくるパターンが続いています。蒸し暑いこんな時期ですから雨に降られてもたいしたことはないですが、それにしても雨の多い変 な夏です。
そんな気候でも夏のいい思い出をつくられたかたもいると思います。
そういう方、そうでない方にも気持ちの良いジャズをご紹介します。

The New Sound Quartet 
Summer Knowsです。
ヴィブラフォン、ピアノ、ベース、ドラムスのカルテットが展開する軽快でおしゃれなジャズです。
9曲目のSummer Knows(おもいでの夏)はヴィブラフォンとピアノのデュオがとても素晴らしいです。

1. TULIPA
2. EMILY
3. ALL THE THINGS YOU ARE
4. DEAR OLD STOCKHOLM
5. I RAY BROWN SUITE, MOVEMENT 1
6. THE KING (FOR T.M.),
7. COME RAIN OR COME SHINE
8. BYE BYE BLACKBIRD
9. SUMMER KNOWS

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

夏休みはいろいろ楽しみました。大阪福島の創作イタリアンレストラン「泉」、北新地の個性的な串揚げとワインお店「なかなか」も面白かったです。そしてちょっと大きな買い物をしました。大型テレビです。連休はそのテレビで映画でも楽しもうと思ったのですが、あいにく、人気商品で在庫がなく少し先の配達になってしまいました。テレビは検討の結果、USB端子が付いていて録画用に市販の安価なハードディスクが利用できるTOSHIBAのREGZA(福山雅治のCMのヤツです)にしました。そのハードディスクをキャンペーンでいただき、喜んでしまった私です。ところでハードディスクですが、1テラバイト(1000ギガバイト)で1万円ですから、驚きです。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.692

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com