龍翁余話(88)「美術館にて」
龍翁余話(89)「根岸界隈ぶらり旅」<その1>
週刊『Zakkaya
Weekly』の先週号(686号)に、執筆グループの先輩でロサンゼルス在住のS・カワイさんが『旅と旅行』の意味の違いについて書いておられる。広辞苑によると『旅』も『旅行』も基本的には同じ。しかしカワイさんは、行き先・目的・スケジュールなどは特に決めないで、変更自由な気ままな外出を『旅』、行き先・目的・スケジュールががっちりと決められ、その通りに行動することを『旅行』と区別(解釈)しておられる。翁、全く同感である。気ままな出歩きの中でも思いがけない出会いがあったり発見があったりする。翁、そんな“小さな旅”が大好きだ。そこで先週に続き、親友Kさんにお付き合いを願って根岸界隈をぶらついた。題して「根岸界隈ぶらり旅」<その1>。
根岸界隈、と言っても正式な行政区分は知らないが、上野のお山からJR山手線・京浜東北線(「日暮里」〜「鶯谷」)を挟んで北東に位置する根岸と入谷辺りを(翁は)根岸界隈と呼んでいる。梅雨空の午後、Kさんと日暮里駅(南口)を出た所にある“太田道灌像”の前で待ち合わせる。翁が17歳で初めて上京した時、日暮里を“ひぐれ里”と読んだ。今でもその呼び名が好きだ。ジーパン姿にカメラバッグ、缶コーヒーをすすりながら突っ立っていると約束の時間ピッタシにKさんが現れた。まずは名物『羽二重団子』から。店の角に“王子街道”の碑が建っている(写真:上)。碑の左が旧王子街道、右が谷中墓地に通じる芋坂。1819年(安政2年)の創業というから190年の歴史を有する老舗だ。
早速注文、2本の串刺しに、それぞれ生醤油焼き団子4個、こしあん団子4個が皿に盛られて出てきた。この2種類がセットになっているので“羽二重”と言うのだろう。1個ずつ交互に食べてみる。さすがに美味い!正岡子規、夏目漱石、泉鏡花、田山花袋、久保田万太郎、舟橋聖一、司馬遼太郎らも贔屓(ひいき)にしてくれた、と同店のしおりに記されている。
旧王子街道を挟んで『羽二重団子』の対面に『善性寺』(日蓮宗・1487年建立)がある(写真:下)。6代将軍徳川家宣の生母・長昌院が眠る将軍家ゆかりの寺。戊辰戦争最後の戦い・上野戦争では彰義隊の屯所が置かれたそうだ。境内には第55代総理大臣・石橋湛山や昭和の大横綱・双葉山の墓もある。ここで、ちょっと自慢話を・・・翁が、双葉山と相撲をとった、と言っても誰も信じないだろう。戦後間もなく、既に引退していた双葉山が興した時津風部屋の鏡里(後の横綱)、大内山(後の大関)らを率いて、双葉山の故郷(翁と同じ)大分県に地方巡業にやって来た。その時、翁たち“わんぱく相撲”を相手に双葉山(時津風親方)が胸を貸してくれた。翁は2度ぶつかって行った。1回目は軽く抱え上げられて土俵の外へ、2回目は親方が「もっと押せ、よし、よし」と言いながら、土俵を割ってくれた。あの弾けるような、眩かった太鼓腹が今でも忘れられない。そんな遠い思い出に浸りながら墓前に合掌した。なお、平成11年、彼の生誕地・大分県宇佐市に『双葉山記念館』が建てられた。翁、帰省の度に訪れている。話が横道にそれた。先へ急ごう。
旧王子街道を鶯谷方面へ向かって路地に入り、正岡子規終焉の住居『子規庵』を目指す。途中『堀口引手資料館』がある。表から見える陳列棚に並べられた“襖の引手”(取っ手の金具)の種類の多さと美しさに驚いた。ここにも匠の世界がある(写真:左)。
隣接して、落語家・故林家三平のネタ本やレコード、愛用の品々を展示している『根岸・三平堂』がある(写真:中)。当日は、あいにくの休館日。後日、再訪することにする。目指す『子規庵』(写真:右)はもう目の前。
正岡子規と言えば、どうしても司馬遼太郎著『坂の上の雲』の子規像を思い浮かべる。病魔と闘いながら35年というあまりにも短い壮絶な生涯であったが、日露戦争で活躍した秋山好古(後の陸軍大将)、真之(後の海軍中将)兄弟や文豪・夏目漱石、森鴎外らとの交友が子規の句に磨きをかけ、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節らを育てた明治の俳壇の重鎮であったことは周知の通り。『坂の上の雲』によると、子規は、何とベースボールを“野球”と表記した最初の人、自らもキャッチャーとして野球に親しんだ時期があった、というから驚く。また、子規は日清戦争(明治27年〜28年)の1時期、従軍記者も経験した。
ところで翁、“子規庵に女傑あり”と謳われた子規の妹・律の存在を見逃すことは出来ない。子規が四国・松山から東京・根岸に移転したのは明治25年。最初は森鴎外が住んでいた家に引っ越したが、2年後に現在の子規庵に転居し、松山から母・八重、妹・律を呼び寄せた。肺結核から脊椎カリエスの発症で病床を離れることが出来なくなった子規を、それこそ看護婦の如く、女房の如く介護したのが律。子規は「1日でも彼女がいなければ、一家の車は運転が止まり、自分も殆んど生きておれないだろう」と著書『仰臥漫禄』に記している。子規没後、律は老母の面倒を看ながら32歳で共立女子職業学校へ入学、その後、教員になって母との生活を支える一方、兄の事績を後世に伝えるべく作品・交遊録などの編纂を行ない、子規の弟子たちの助けを借りて『子規庵』創設に尽力した。71年の生涯を兄・子規と母・八重に献身した律、明治女の壮絶な人生ドラマを見る思いがする。語り尽くせぬまま次号へ。「友と聴く 根岸の里の 蝉時雨」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |